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「神の国と神の義」マタイによる福音書6章22-34節

2021年6月27日
担任教師 武石晃正

 子どもの頃に通っていた教会学校では週ごとに聖書の言葉を暗唱していました。画用紙に聖書から1節を書いたものを生徒たちが声を出して読み、先生が一部分ずつ隠す範囲を増やしていくので最後には全部隠されます。文字通り暗唱することでした。
 暗唱できるようになった数だけスタンプやシールがもらえるので、その時は一生懸命になって覚えたものです。残念ながら暗唱できたのはその時だけで、学年が上がる頃にはすっかり忘れてしまったものがほとんどです。

 それでも大人になるまで忘れずに覚えている聖句もあります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)はその一つです。
 狭い日本の国内でさえ知っているのはごくわずかですので、神の国をその全貌まで知ろうというのは途方もないことです。せめて聖書に記されていることだけでも、朗読できた部分からだけでも、少しでも神の国を知ることができれば幸いです。


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1.神の国のことば
 マタイによる福音書における最大の関心事は、イエス・キリストにおいて示された天のの国にあります。イエス様の直接の弟子たちから口伝えで広まった教えが教会の中で形が整い、ある時点で書き記されました。
 キリストが十字架につけられ、死にて葬られ、死人のうちよりよみがえられて天に昇られたのが紀元30年代中ごろです。そこから20年、30年と経ちますと次第に当初の目撃者たちも世を去っていきます。齢を全うした者もあれば、迫害による殉教者もありました。

 弟子たちにおいて、彼らが主と仰ぐナザレのイエスはローマへの反逆者という重罪人として公開処刑されました。その復活と昇天を目撃した者たちもユダヤとローマから弾圧を受け、60年代には暴君と呼ばれる皇帝ネロによりキリスト教への迫害は熾烈を極めました。
 信仰ゆえに親兄弟から勘当を言い渡された者、親や伴侶が捕らえられて寄る辺を失った者など、みなしごややもめと呼ばれる人々が教会に身を寄せました(ヤコブ1:27)。使徒と呼ばれるキリストの直接の弟子たちの中にも逮捕者が出始めたました。その頃の教会の様子が使徒言行録に記されています。

 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。
 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。(使徒4:32-35)

 「持ち物」と言われていますが、所有物に限らず時間や労力、権利など自分で用いることができるあらゆるものを含んでいたことです。ある者たちは資産を手放して弱い者たちを養いました。当初はまだ「人々から非常に好意を持たれていた」のです。
 20年30年という年月とともに迫害が強まります。かつてイエス様が「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」(マタイ24:9-10)と予告されていたとおり、厳しい状況が現実のものとなりました。

 マタイによる福音書はイエス様を懐かしむ単なる回顧録ではなく、迫害に窮して冷えつつある教会に初めの愛を思い起こさせるのです。

2.神の国と神の義
 さて本日の聖書箇所もまた先週に引き続き山上の説教と知られておりますイエス様の一連の説教の一部分です。区切られた教え一つ一つに意味があるのは確かですが、むしろいくつかの教えをもってイエス様は神の国を示そうとされているように思われます。
 またマタイによる福音書ではもっぱらユダヤ的に「天の国」と記されるのですが、ここでは異邦人のように「神の国」と呼んでいます。イエス様がユダヤ人の不信仰を責める場面や、異邦人や掟にそぐわない人々へ福音が示される場面で用いられる言い回しです。

 「体のともし火は目である」(22)とのたとえを用いてイエス様は語られます。富についての教えの間に収められていることから、富あるいは金銭によって信仰の目が濁ることを戒めていることです。続く二人の主人のたとえと対をなしていると言えましょう。
 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(24)との戒めは19節からの一連の教えの結びです。この教えを伝えるたびに、使徒たちの脳裏にはある人物のことが思い浮かんだことでしょう。福音書の記事としてはずっと後のことですが、3年余りも寝食を共にした仲間の一人が銀貨30枚によって愛する主を売り渡したことのです。

 イスカリオテ・ユダについて、その後自ら命を絶ったことのほかは聖書には残されていません。裏切者は死んで当然だと使徒たちは考えたのでしょうか。愛する仲間が富に目と心を奪われてしまったために、魂までも損なわれてしまったことを深く悲しんだことでしょう。もう誰も欠けてはならない、と教会に対する強い願いを感じます。
 迫害の時代には密告というものがついて回ります。金額の多寡はともかく何らかの報奨金が定められ、小遣い欲しさに人を売ることが起こるのです。人を売ったという罪悪感を与えずに、世の中の安全のために役に立つことでご褒美がもらえるという巧妙な手口もあり得ます。

 銀貨30枚であれば尻込みするかもしれませんが、例えば「おや?と思ったらスマートフォンで写真を撮ろう。位置情報をつけてメールで送るとポイントが貯まるよ」という程度です。ワンクリックで自覚もなく密告者の出来上がりです。
 平気でプライバシーを侵害し、信教の自由、人権までをも脅かすという深刻なものです。大金が詰まれたなら後ろめたさで気づくでしょう。僅かなものが積みあがるので目が濁り、知らずに富に仕えることになってしまいます。

 「富は、天に積みなさい」(20)「神と富とに仕えることはできない」(24)とイエス様は富について注意を引いたところで、「自分の命のこと」「自分の体のこと」で「思い悩むな」と確信に迫ります(25)。
 イエス様が直接に語られた人々も、福音書が記された年代の教会の人々も、現代の私たちにおいても、思い悩みのほとんどは衣食住という直接生活に関わることにあります。「生きづらい世の中だわ」と政治や行政への不満を口にする人はあっても、法令の一字一句に頭を抱えて悩むという方はなかなかおられないと思います。

 「何を食べようか何を飲もうか」「何を着ようか」と考えること自体が悪いとは言われているのではないのです。故事成語でも「衣食足りて礼節を知る」と申しますが、これらが満たされたとき私たちは落ち着いた心持ちになるのは事実です。一方で、飢えや寒さの心配がなくなったとしても、美食やおしゃれなど心を奪われることもあり得るのです。
 先週の箇所では「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」(5:36)と言われています。着飾ったところで服は立派になりますが、私自身の価値を上げたり命を延ばしたりすることにはならないのです。

 空の鳥のほうが生まれながらによほど美しいのです。この礼拝堂の入口にも巣を作っていますが、ツバメは子どものうちから黒くてスマートな燕尾服です。山里の水辺で見かけるカワセミは真っ青に輝く宝石のようです。
 そこでイエス様は「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(31)と続けられます。隣人のことを省みず、みなしごややもめたちに心を留めず、ただ「自分の命のこと」「自分の体のこと」ばかり気に掛けているのでは異邦人のようなものであると言われています。

 律法の掟にも「この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命15:11)と戒められています。あわれみ深い天の父の心をなおざりにする者は、異邦人つまり神の民として生きる資格がない者だと言われているのです。

3.困難な時代に生きる神の国
 山上の説教を直接に聞いた人々はガリラヤ地方の中でもいわゆる生活弱者にあたる人たちが多かったようです(4:24-25)。福音書が記されたのも迫害にあえぐ教会でした。
 日本でも戦時下においてホーリネス系の教会が弾圧を受けました。本日午後には弾圧記念聖会が開かれますが、この場でも一冊の書籍からその当時のお証しをお分かちいたします。父親がその服役中に亡くなられたという方のお証しです。

 その方は父を亡くされ、母に言われて元教会員の農家を訪ねたのですが、カボチャ1個も分けてもらえなかったと言います。「私には弟が三人いました。あのチビたちになにを食べさせようか、とぼとぼ帰っていった日のことを覚えています」「人間いざとなれば信仰もヘッタクレもなくなるんだなあと思いました」と綴られています。 (注1) 
 一言に胸が締め付けられるような思いがしました。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(ヤコブ1:27)と主の兄弟ヤコブが記しています。「自分の命のこと、自分の体のこと」を求めるのか、「神の国と神の義」を求めるのかと、問われます。

<結び>  
 「神の国と神の義」はあまりにも広く大きいので一言にまとめることはできませんが、主は「神の国はあなたたちのところに来ている」(12:28)とご自身を示されました。
 つまり「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」神のご愛であり、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことに神の義が現されます(ヨハネ3:16)。

 御国を来たらせたまえと祈る教会によって神の国がもたらされ、みこころを地にもなささたまえと祈る私たち一人一人によって神の義が現わされますように。


(注1) 引用。辻宣道『教会生活の処方箋』(日本基督教団出版局、1981年)7-8ページ

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