「執り成しの祈り」マタイによる福音書7章1-14節

 今から2000年ほど昔のパレスチナ、イエス様が世におられ福音を宣べ伝えられた時代のことです。神の民イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。ガリラヤの山辺でイエス様から直接に教えを受けた人々は、異邦人による支配と、自分や家族の病気や患いに苦しんでいました。
 マタイによる福音書が記されたのはそれから30年40年と年月が経った頃でした。主の教会はエルサレムから始まり、ユダヤとサマリアの全土で迫害を受け、散らされるように地の果てへと広がっていきまます。口伝えの教えを書き留めておく必要がありました。

 山上の説教はイエス様がガリラヤで説かれた説教集でありますが、これらの教えはイエス様自身においても使徒たちにおいても宣教活動において中心となるものでした。弟子集団そして教会にとって、信仰の基本姿勢や骨子となるものです。イエス様が「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:20)と委ねられた教えの中心、あるいは原点と言えるでしょう。
 迫害の中で次々と仲間が召されて行くなかで、「俺たちの信仰はガリラヤの時から何も変わっちゃいない」というマタイをはじめ弟子たちの意気込みが感じられます。


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1.祈りの心得 (マタイ7:1-12)
 朗読いたしました箇所は新共同訳では3つの段落に分けられており、それぞれに小見出しが「人を裁くな」「求めなさい」「狭い門」と付けられています。もともと聖書についていたのではなく、読者が読みやすいように編集者が付けたものです。
 写本と呼ばれる古い資料には小見出しどころか章や節も分けられていませんでしたから、どこからどこまでがひとまとまりの教えであるかは読み手に委ねられています。とはいえ、この順番で記されたことにはイエス様ご自身あるいはマタイの意図を覚えます。

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(1)と命じられています。裁くなと言われて裁くことをしないのはよいとして、自分が裁かれたくないからという動機だけでは子どものような者でしょう。あるいは罰を恐れて黙々と命令に従うだけの下僕ようなものです。
 おが屑や丸太の話は同時のユダヤのことわざにあったのでしょうか、大げさなたとえでイエス様は人々の耳と心を引き付けます。物置小屋で小さな探し物に夢中になってしまい、視野に入っていたはずの梁に頭をぶつけたことを思い出しました。

 犬とはかわいいワンちゃんのことではなく、ユダヤの言い回しで汚れた者やならず者、敵の手下といったものを指すことばです(申命23:19、フィリピ3:2)。豚もまた律法では汚れた者の代表格でありますから、他人のことをいちいち事上げしてとやかく言うような者をイエス様がどれほど忌み嫌われるのかが伝わります。
 日本にも「豚に真珠」ということわざがありますが、本来の意味を離れて聖書とは違う用いられ方がなされています。7節もまた格言として「求めよ、さらば与えられん」と掲げられ、キリスト教学校以外でもたとえば予備校の教室などでも見たことがございます。果たしてイエス様は進学のために努力せよという意味でおっしゃられたのでしょうか。

 パンを欲しがる子に石を、魚を欲しがる子に蛇を与えるだろうか、と人々の心をハッとさせて「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(12)と命じられました。つまり求めるにしても探すにしても、それらはすべて自分のためにではなく人のためにせよとの言い含みです。
 自分の命や自分の体のことで思い悩むなと戒められていることを思い起こします。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(33)との教えについて、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とその心が明かされました。

2.執り成しの祈り (Iテモテ2:1-8)
 福音書が記された年代については諸説あり、特に紀元70年のエルサレム陥落の前か後かで2分されるようです。前後どちらであったとしても、初代教会が迫害のただ中にあったことには違いないのです。エルサレムが陥落する前であれば主にユダヤ勢力から攻撃を受け、陥落後であればローマからの弾圧が強まりました。
 ペンテコステの日にエルサレムで聖霊を受けた弟子たちはユダヤからサマリア、周辺各地を経てあらゆる国と地域へとイエス・キリストの救いを宣べ伝えました。積極的に見れば福音が広がったということになりますが、迫害によって追われ、散らされて行ったという実情もあるようです。

 当初その教会を迫害した者の指導的立場にあった一人が使徒パウロです(使徒9章)。パウロは「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」(Iテモテ1:13)と正直に告白しつつ、神の憐れみによって「宣教者また使徒として(中略)信仰と真理を説く教師として任命された」(同2:7)と証ししています。
 迫害者であった者さえも使徒として召されたことを踏まえつつ、愛する弟子へ次のように書き送っています。

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。 (同2:1-2)

 王や高官こそ教会を迫害する者たちのかしらです。あるいは積極的にキリスト教を弾圧しようとまでは考えずとも、国の意向に従わない者たちを排除する立場にありました。迫害の渦中にある者たちにとっては目の敵(かたき)、親兄弟の仇です。「主よ、早く彼らを裁いてください。王座から取り除いてください」と祈ることはあっても、「執り成し」ましてや「感謝」などとんでもないことです。
 テモテは弟子としてパウロの言葉を呑むとして、果たして教会に対して「王たちや高官のために執り成し感謝しましょう」と呼びかけることができましょうか。その疑問と不安に答えるように、パウロは「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(4)と続けます。王たちを含めたすべての人々が救われるために、教会の迫害者であった者さえも「信仰と真理を説く教師として任命された」というのです。

 戦時下の日本でも、国家によるキリスト教をはじめとする組織的思想弾圧が行われました。牧師たちが逮捕され、教会が解散されるという事件が起こりました。信仰の先輩たちが大いなる苦しみと悲しみを負われたことを覚えます。現在では信教の自由が保障され、日本国内ではキリストの名のゆえに公権による迫害を受けることはない時代を迎えました。同時に、海外では依然として教会が迫害を受けている国や地域があり、アジアの近隣にもそれらを覚えるところです。
 使徒パウロは迫害の時代にあっても「願いと祈りと執り成しと感謝とを(中略)王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と勧めています。言葉として知っていることと、それを続けることの難しさの違いを覚えます。私たちは天皇や大臣たちの救いを願い、そのために祈っているでしょうか。

 主を知る前の私について、宣教師をはじめとする見ず知らずの人たちが救いのために祈りと執り成しをしてくださいました。高い地位にある人たちとはお会いする機会がないとしても、不平不満ではなく感謝をもって執り成しの祈りをささげたいと思います。

3.狭い門 (マタイ7:13-14)
 再び福音書に戻ります。「狭い門から入りなさい」と、こちらの言葉も本来の意味とはかかわりなく学校などの標語として独り歩きをしていることがあります。狭い門、広い門とは何を指しているのでしょうか、あるいは難行苦行を経ることが狭い門なのでしょうか。
 旧約聖書にこのような話があります(列王下5章より)。アラムという国の将軍が医者では直せない重い皮膚病にかかりました。彼は家来を連れてイスラエルの預言者の家を訪ねました。預言者が彼に「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」と答えると、将軍は怒って去ろうとしました。預言者が不思議な奇跡で治してくれると期待したからです。

 家来たちは主人のことをなだめました。大変なことを命じられたのなら何でもやってみたはずなのに、川で身を洗うだけのことさえなさらないのかと。将軍が預言者のことばに従ってヨルダン川で七度身を洗うと、なんとその病はたちまち癒されたのです。
 難しいことに取り組んだり多大な努力を積んだりすることができる人は、この世では優れた人と呼ばれます。事実、素晴らしい人たちだと思います。しかし、それらを達成できる人は少ないとしても求めたり評価したりする人たちは大多数であるわけです。

 例えばスポーツ競技について考えてみましょう。オリンピックのメダリストは激戦を勝ち抜いたほんの一握りの人たちであり、それは狭い門であるかのように見えます。しかし競技そのものとしては文字通り「入門者」である愛好者まで含めると全世界で何億人もが入れるとても広い門です。
 祈りは信仰があれば誰にでもできることですが、見ず知らずの高官たちのための執り成しは狭い門です。それを見いだす者は少ないのです。迫害者のために執り成しがなされるとき、その祈りは命に通じる門となります。
 
<結び>  
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と説かれたイエス様は「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とおっしゃいました。
 この世は「自分の」命や体のことを思い悩みます。神の国と神の義は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という神様のご愛の現れです。

 努力を重ねることは立派なことです。どれほどの困難を乗り越えたとしてもその報いが明らかなものであれば、それはもしかすると広い門なのかもしれません。
 祈りについて、世間では神頼みに過ぎない言われることもあるでしょう。天の父が良いものをくださるときまで、手も口も出さずに待ち続けることはできるでしょうか。神との人との間に割り込まず、傍らで続けられる執り成しの祈りは、命に通じる狭い門です。

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