「憐れみの福音」マタイによる福音書9章9-13節
2021年7月25日
担任教師 武石晃正
突然ですが、みなさんは次の聖句を覚えておいででしょうか。とても有名な個所をお読みしますが、その前にどの聖句が読まれるか予想してみてください。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)。この聖句を予想された方はおられますでしょうか。まさか真夏にこのこの箇所を耳にするとは思われなかったかもしれません。そう、イエス様ご降誕の記事、ユダヤの野辺で夜番をしていた羊飼いたちに現れた天使のお告げです。日本を含む北半球ではクリスマスは真冬ですから、季節感としては違和感があるかも知れません。
救い主メシア、あるいはキリストという言葉は「油注がれた者」という意味です。イスラエルにおいて油を注がれた者には預言者、王、祭司の3つの職がありました。神の子はみことばをもって天の国を説く預言者であり、イスラエルの王であり、そしてすべての罪をあがなう大祭司として世に来られたのです。
マタイによる福音書は弟子を伴ったイエス様の働きを山上の説教から記しています。山を下りられてからしばらくは、ガリラヤ地方のカファルナウムを拠点とした癒しのわざに焦点が当てられます。御言葉としるしという2つによって、預言者としてのキリストの姿が示されました。
預言者はみな神様から遣わされた人間ですから、イエス様もまた神の子でありながらも人間として遣わされた者としての立場を取られました。キリストは全き人としてとことんまで人間と、特に罪人たちと向き合われました。
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担任教師 武石晃正
突然ですが、みなさんは次の聖句を覚えておいででしょうか。とても有名な個所をお読みしますが、その前にどの聖句が読まれるか予想してみてください。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)。この聖句を予想された方はおられますでしょうか。まさか真夏にこのこの箇所を耳にするとは思われなかったかもしれません。そう、イエス様ご降誕の記事、ユダヤの野辺で夜番をしていた羊飼いたちに現れた天使のお告げです。日本を含む北半球ではクリスマスは真冬ですから、季節感としては違和感があるかも知れません。
救い主メシア、あるいはキリストという言葉は「油注がれた者」という意味です。イスラエルにおいて油を注がれた者には預言者、王、祭司の3つの職がありました。神の子はみことばをもって天の国を説く預言者であり、イスラエルの王であり、そしてすべての罪をあがなう大祭司として世に来られたのです。
マタイによる福音書は弟子を伴ったイエス様の働きを山上の説教から記しています。山を下りられてからしばらくは、ガリラヤ地方のカファルナウムを拠点とした癒しのわざに焦点が当てられます。御言葉としるしという2つによって、預言者としてのキリストの姿が示されました。
預言者はみな神様から遣わされた人間ですから、イエス様もまた神の子でありながらも人間として遣わされた者としての立場を取られました。キリストは全き人としてとことんまで人間と、特に罪人たちと向き合われました。
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1.マタイと罪人たち (マタイ9:9-10)
お読みいたしました箇所は9章の途中で、「イエスはそこをたち」と切り出されております。イエス様はどちらにおられたのでしょうか。1節を見ますと「舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた」と書かれております。
なぜ湖のあちらへ行かれたのか、そのいきさつは8章に記されているところです。舟を出されたのはカファルナウム、その町は使徒ペトロやヨハネたちの出身地でした。ユダヤのベツレヘムで生まれガリラヤのナザレでお育ちになったイエス様ですが、この頃には「自分の町」と記されるほどカファルナウムに根を下ろしておいでだったようです。
その歩きなれた街並みで「通りがかりに」イエス様はマタイを見出されました。通りに面して収税所があったようですから、そこにマタイがいることは恐らく誰もが知っていたことでしょう。そうであれば、たまたま「見かけて」成り行きで声をかけられたということには違和感を覚えます。むしろイエス様は前々からマタイのことを気にかけてはおられたのではないでしょうか。
通りかかってもいつも不在でなかなか会うことができず、ようやくこの日はマタイが収税所に座っているのを見かけることができたわけです。当のマタイからすればイエス様のうわさは兼ねてより耳にしていたものの、自分のほうから会いに行くことができなかったのです。イエス様のほうから見かけてくださった、という印象を受けます。
互いに会ってみたいと願っていたことでしょう。見かけるなりイエス様は「わたしに従いなさい」と声をかけ、招きを受けたマタイは「待ってました」とばかりに立ち上がって直ちに従ったのです。そしてイエス様はマタイを弟子として迎え、彼の仲間たちとも食事をする間柄になられました。
当時のユダヤにおける収税所や徴税人は一般の人々から疎まれていました。というのも彼らは自国のためではなく、支配者の国であるローマに収めるために徴収していたからです。そして彼らが受け取る報酬はローマから支払われるのではなく、自分たちの取り分を含めて住民から取り立ててよいことになっていたそうです。外国の手先となって私腹を肥やす者たちであると世間から見られていました。
きよめの儀式や祭りの規定を欠いてしまうと、単なる不注意や不可抗力だったとしても罪であると定められてしまいます。するとユダヤ社会では受け入れられなくなり、働き場所や取引先を失ってしまうことになります。生きていくためには外国人の権威の下で働くこともやむを得ません。ローマの手先だと後ろ指をさされるとしても徴税人になるか、あるいは徴税人の下で働いた罪人がいたということです。
ユダヤ人に生まれながらユダヤ社会から締め出された人たちは、いったいどこに住めばよいのでしょうか。「その家」とはマタイの家なのか収税所の別棟だったのか定かではありませんが、少なくとも徴税人や罪人といった人たちが自由に出入りできる憩いの場でした。家族や社会から突き放された者たちが自分らしくいられる唯一の場所、そこへ神の子ご自身がやって来られ人々とともに食事をされました。
2.恵みの時、救いの日 (Ⅱコリント5:14-6:2)
徴税人や罪人たちがイエス様や弟子たちと同席していたということですが、日本の定食屋さんで混雑時にたまたま相席になったということとは事情が違って参ります。食卓を共にするということは同じ身分に身を置くということを意味します。
使徒信条において告白しておりますように、確かに「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」ました。もちろんその通りに信じてよいのですが、子どもの頃から聞いて育っておりますと神が人としてお生まれになったことが当たり前のことのように錯覚してしまうこともあるでしょう。
罪のない方が罪の満ちる世界に来られたということは、地上で生きる者が真っ暗で不衛生な下水道の中に入るようなものです。それにも関わらず、御子は私たち罪人のために人として同じ立場をとってくださいました。人となられたばかりでなく、人の社会の中で罪人と呼ばれる者たちと席を同じくし、ともに食事をしてくださったのです。
どれほどの衝撃でしょうか。ちょうど今はオリンピックの本大会が開催されておりますが、例えば外国の選手や代表者が私の家にやってくる以上の驚きです。来てくれただけでなく靴を脱いで、畳の上に膝をついて、ごはんと総菜ぐらいの些末な食事を召しあがるなど到底ありえないことです。
文化によっては人前で靴を脱ぐことは大きな屈辱であり、地面に膝をつくことは犯罪者への罰に匹敵すると聞きます。古代における奴隷への扱いだということです。神の子キリストは罪がない方であるのに罪人とともに生き、犯罪者として捕らえられました。奴隷以下の卑しめと暴力を受け、苦しめられながら十字架上で殺されました。
使徒パウロがその書簡の中で次のように記しています。「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(Ⅱコリント5:15)また「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(同18節)。
マタイもまた徴税人であったゆえに、世の人々から罪人同様の扱いを受けました。事実、利得のために職権を利用したこともあったはずです。けれどマタイは自分自身の力でその営みから抜け出したくても抜け出せない事情もありました。そこでイエス様が彼を見つけて自分の弟子となし、食事を共にすることで同じ身分になってくださったのです。
同じ身分ですからマタイもまた自分自身のために生きるのではなく、死んで復活してくださったキリストのために生きる者とされました。
3.憐れみの福音 (マタイ9:11-13)
福音書の箇所の後半部分に戻ります。収税所は通りに面していましたから、誰彼となく通りかかることはできます。しかし罪やけがれを極端に遠ざけていたはずのファリサイ派の人たちがわざわざやってきたというのです(11)。言葉では立派なことを教えていましたが、彼らは罪人たちの世界に興味津々だったのでしょう。
人が「なぜ」と尋ねるとき、大抵はその理由を求めてはいないものです。肯定するつもりであれば「なぜ」と問わずに話を聞いたり交わりに加わったりいたします。「なぜ」に否定の思いが含まれるとき、どんな答えが返ってきても聞き入れられることはないでしょう。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(12)とのイエス様の答えはもっともなことです。しかし病人であってもそれを認めようとしない者、医者を必要としたがらない者もいます。ときにイエス様は「良くなりたいか」と本心を尋ねたものです。
ファリサイ派の人たちは心の内に満ちている欲や罪深さをひた隠し、他人を罪に定めることで自分の正しさを示していたのでしょう。徴税人のことをローマの手先あるいは国を売る者だと断罪していましたが、実は彼らこそ憐れむべき同国民をいけにえにしていた張本人であるとイエス様は暴かれました。
イエス様は続けてご自身の目的を明かされました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13)。自らを正しいとする者ばかりでなく、罪人も罪を認めなければ招きを必要だと感じないことでしょう。しかし、自らの罪を認めた者は神の憐れみを求め、マタイのように主の招きを受けることができるのです。
<結び>
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(Ⅱコリント6:2)
カファルナウムの街角にある収税所、そこは罪人と指さされた人々が集まる場所でした。世の人々から疎まれ、自らも抜け出すことができない人たちばかりでした。罪と絶望の淵のような暗闇に、我らの主イエス・キリストがおいでになったのです。
この日はマタイにとって恵みの時、救いの日となりました。イエス・キリストは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られたのです。
神の憐れみによって救いの恵みが与えられています。恵みですから、求めるなら誰でも受けることができるのです。そして救われた者は神の前に出られるように、きよめの恵みも与えられます。自分や他人をいけにえにすることなく、主の憐れみによって求める者には恵みが豊かに注がれます。
救いの恵み、きよめの恵みを求めましょう。