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「苦難の共同体」マタイによる福音書10章16-25節

2021年8月8日
担任教師 武石晃正

 学生時代や社会に出たばかりの頃のことですが、同僚などに信仰の話をすると「苦しい時の神頼みってやつだな」とあしらわれたこともたびたびありました。言い回しや状況はそれぞれ違いがあろうかと思いますが、皆さまにおかれましても信仰の歩みやお証しにおいて悔しい目に遭われたことは少なからずおありでしょう。
 主イエス・キリストによってもたらされた天の国について、その当初よりこの世の人々から迫害を受けたことを福音書は記しています。聖霊によって宿られた方が産声をあげておとめマリヤより生まれました。この方が受けられた苦しみを通して、その復活によって教会が産み落とされました。

 天の国が世に現わされるために苦しみは避けられないのでしょう。迷うことや流されてしまうこともありましたが、苦しみを通して信仰の道を選んできたように思います。それは信仰者おのおのばかりでなく、天の国もまた地上において苦難を通して試されてきました。

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1.蛇のように賢く、鳩のように素直に
  「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とご自身を示されたイエス様は、山上の説教によってまず天の国はどのようなものであるかを説かれました(7章)。山を下りられてからは天の国の到来を示すため、弟子を招きながらガリラヤ地方でいやしのみわざをなさいました(9章)。
 ご自身で町や村を行き巡られたイエス様は、その権能を弟子たちに授けてお遣わしになりました(10:1)。この12人は使徒と呼ばれる特別な弟子でした。主は天に昇られた後に働きを委ねるため、この使徒たちと寝食を共にして訓練をなさいました。使徒たちの名前と派遣にあたっての心得については、10章の冒頭に記されています(10:2-15)。

 そこで改めて「わたしはあなたがたを遣わす」(16)とイエス様は切り出されます。15節までは町々をともに巡りながら常々に教えられたこと、16節からはいよいよ送り出そうというところでしょうか。「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」とは使徒たちが遣わされてゆく先々に敵たち、すなわちナザレのイエスを快く思わない者たちが潜んでいることを意味します。
 「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と励ましの言葉がかけられます。当時の慣用句だったのかも知れませんが、蛇といえば旧約聖書の初めに出てくるあの蛇を思い起こされます。エバをそそのかし最初の人アダムをも罪に陥れた蛇は、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い」(創3:1)と評されています。

 「鳩のように素直に」とも言われています。素直と訳されている語は無垢であるとか悪意やたくらみがないとか、純粋であるという意味があります。鳩もまた聖書では創世記、ノアの箱舟の箇所から登場する古い生き物です。賢さと清さとを兼ね備えることが天地創造の時代から神の御心に適うことだと言えるでしょう。
 12人の弟子たちはみな職業人であり、世の知恵は持ち合わせておりました。その知恵を十分に働かせつつも、無垢で純粋な信仰心を欠くことのないように命じられました。使徒パウロもまたその書簡の中で「なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます」(ローマ16:19)と勧めています。

 無垢で悪意のない清い歩みをしつつも、いわゆる純粋培養と揶揄されるような者ではなく、抜け目のない知恵を働かせることがキリスト者には求められています。

2.迫害の中へ遣わされる
 蛇のような賢さと鳩のような素直さを備えた弟子たちが遣わされる狼の群とはどのようなものでしょうか。狼と呼ばれる人々によって「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」と警告されています(17)。ユダヤでは議会で裁判にかけられ有罪となった者は、その場で会堂へ移されて鞭で打たれました。

 「総督や王」(18)とは後にイエス様自身がエルサレムで捕らえられ、不当な裁判を受けた際にローマの総督とヘロデ王の前に引き出されたことを思い起こさせます。弟子たちはこの時点では何のことか理解できなかったと思われます。実際に愛する師が総督と王の前に引き出された時に、当初から聞かされていたことが現実に起こったのだと悟ったことでしょう。
 ガリラヤ地方の町々へ遣わされる段階において、弟子たちが捕らえられたり裁判を受けたりしたかどうかまでは福音書から読み解くことは困難です。イエス様はいやしのわざをやってみせてから弟子たちに権威を授けたように、ご自身が捕らえられ裁かれるところを示されてから困難さをも与えられたことでしょう。

 主から遣わされたとは言っても、キリストを証しするために自ら望んで訪ねることができる相手は限られています。王宮を訪ねることができたとしても、話を聞いてもらうどころか門前払いにされるのが関の山です。
 しかし捕らえられたならば、名前も顔も知らない議員たちの前で口を開くことが許され、願っても会うことができなかった総督や王の前にも出ていくことができるのです。そしてそこには役人たちがおり、その場で語られた証しは下役たちの耳にも入ります。

 強いられなければたどり着くことができない場所があり、出会うことができない人たちがいます。主はあらゆる人たちのもとへキリストの福音を伝えるようにと、苦難や迫害を用いてでもお選びになった者たちを遣わすのです。そして迫害が強まると言うことは、主の名がより広くより高い身分の人たちにまで届いているという証拠でもあります。
 全人類の罪が許された十字架の贖いはこの上なく大きな恵みです。しかしそのために神の子ご自身が打たれ罵られ辱めを受け、苦しめられながら殺されなければなりませんでした。それは私たちの罪ばかりでなく苦しみをも負ってくださるためでした。

 罪の赦し、イエス・キリストの福音がもたらされる際にも、苦しみや犠牲が伴います。時に肉親から憎まれ恨まれることさえあるのだとイエス様は予告されました。
 「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(22)とは、愛する弟子にさえ逃げ出されたときにイエス様ご自身が味わわれた恐怖に通じます。復活した主に出会った弟子たちは全世界へと散らされながら出て行き、先々で苦しめられ殺されていきました。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とのお言葉通り、迫害が迫害に留まらず、死が死に終わらず、先々へと救いがもたらされたのです。

 弟子たちがご自分と同じ苦しみを受けることについて「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(25)と言われています。ここでは立派に歩めと言われているのではなく、迫害や苦難を受けることについての教えです。
 神の子が悪霊の頭(かしら)と呼ばれるなど到底考えられないことですが、イエス様のみわざはベルゼブルの力だと誹謗されました(12:24)。あなたがたが悪魔だ悪霊だと罵られて驚き恐れることもあろうけれど、これでようやく師であるわたしに近づいたね、とイエス様が招いてくださっているようです。

 迫害を受け苦難の中にある者を「その家族の者」と神の子ご自身が呼んでくださいます。家族ですから帰る家が約束されています。そしてその家には、私たちのために地上でさんざんな目に遭われた方が憐れみをもって待っていてくださることは、私たちの希望です。

3.苦難の共同体
 さて「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言葉としては理解できるとしても、実際に苦難にあるときには気休めのように感じてしまうこともあるでしょう。現代の日本においては公的な権力による迫害や弾圧というものは見られないものの、少数派であるキリスト者がその信仰を掲げて歩むことは容易ならざることを覚えます。

 昨年から引き続くコロナ禍においては礼拝や諸集会が制限を受けるという困難に教会も信仰者個々人もが直面しました。多くの人たちがの困難を覚えたことにより、以前から礼拝出席が難しかった方々への支えを厚くする機会となりました。
 この困難を通して教会が多くの部分からなる一つの体、キリストの体であることを確かにされました。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(Iコリント12:26)とのみことばが現わされました。

 教会はキリストの体であり、一人一人はその部分ですから、礼拝という公の場に限らず個々人の生活においても常に困難が伴います。特に病の床にある者、死の淵を目の当たりにした者のことを覚えます。
 時節柄、病状の軽重いかんにかかわらず病室を訪れることが許されませんので、病床を見舞って共に祈るということができない状況が続いております。長く休まれている方のためにごく一部の方が連日のように東奔西走してくださっております。

 病床で負われている苦難を、家族や身寄りの方が支えとなり共に担っておられます。これら遣わされている方々を取り巻く者たちが祈りによってその苦難を受け止め支えます。
 それぞれが体の部分ですので、すべての人が一人の人に直接かかわることはなくてもよいのです。祈りをもって互いに支え合い苦難を乗り越えていく共同体の営みは、使徒たちが世に遣わされたころから受け継がれているものです。

<結び>  
 「また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。」(ヘブライ11:36-38) 

 天の国がこの世のものではない以上、天の国に属する者たち、すなわちキリストの体である教会とその一人一人は常に苦難に直面しています。苦難そのものはもはや問題ではないのです。イエス様ご自身も苦難と迫害とを予告した上で弟子たちを遣わされたからです。
 私たちは主にある共同体、神の家族の者と呼ばれています。この世からの迫害や苦難は途絶えることがなくとも、人の子が来られる時まで励まし支え合い耐え忍びましょう。

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