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「主にある家族」マタイによる福音書12章43-50節

2021年8月15日
担任教師 武石晃正

 本日8月15日は日本国において終戦の日とされています。このことを踏まえ、説教に先立ち少しだけお話をさせていただきます。
 宇都宮上町教会は日本基督教団(以下、教団)の教会であり、その中でホーリネスの群に属しています。第二次世界大戦下において教団が成立した際に、ホーリネス信仰を掲げる教会は第6部に編成されました。この6部と9部に属する諸教会に対して治安維持法の下で一斉摘発が行われたのがホーリネス弾圧事件です。牧師たちは投獄され獄死者が出ました。教会は解散させられるという非常に厳しい迫害がありました。

 これは日本国内での出来事でありまして、国際社会に対しては日本国民が近隣諸国に対して侵略戦争を行った当事者であるということは、免れえない事実であります。また教団は戦時下において、天皇を中心とする国家に奉仕する教会となり、神ならぬものを神とし、戦争に協力する数々の過ちを犯しました(関東教区「日本基督教団罪責告白」)。
 教団は天皇を神とする国家体制を容認し、君が代斉唱、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)を取り入れ、これらの「偶像礼拝」を朝鮮・韓国・台湾・中国等、アジアの諸教会及び在日のアジアの隣人に対しても強要する罪を犯しました。「神の国」の実現であるかのように植民地支配に協力し、占領地に教師を派遣するなど、あの戦争で流された多くの血の責任は教団にもあることを懺悔告白します。

 ホーリネス系の教会としては、受けた弾圧が繰り返されることなく、平和が実現されるよう願うところであります。また教団が再び同じ過ちを犯すことなく、この国と世界に対する使命と責任を果たしていくことができるよう求めるところです。
国内で受けた弾圧を覚えつつも、国と教団が近隣諸国の主にある家族を深々と傷つけてしまったことは忘れてはならないことです。罪を認め告白し、主の赦しを乞い求めます。
 祈りをささげた後、礼拝としての聖書朗読と説教を取り次がせていただきます。

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1.心と体とに宿る信仰
 天の国についてイエス様は「あなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)とご自身を示されました。神の子ご自身がおられるところが天の国であり、この方は肉体をもって世に来られました。弟子たちもまた人として世に遣わされ、天の国のわざを行いました。
 弟子たちはナザレのイエスの名によって悪霊を追い出し、人々をいやしました。これらのわざを通してナザレのイエスが救い主メシアであり、天の国が既に来ていることを現わすためでした。

 この時代の人々ばかりでなくあらゆる時代の人々の多くは奇跡を見たがることでしょう。奇跡を見せてくれるならキリストを信じよう、とおっしゃる方に出会うこともあります。悪霊を追い出し、重い病が癒された人々がみなイエス様の弟子になったのでしょうか。
 きよめといやしのみわざについてイエス様はこのようにおっしゃいました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。」(43,44節)

 わが家、空き家と呼ばれているものは人の心と体です。心と体は切り離すことができませんので、汚れた霊の力もきよめといやしの恵みも心ばかりでなく体にも及びます。汚れた霊が追い出され、すっかりきれいにしていただいたのはよいのですが、空き家のままにしていたらどうなるかとイエス様は説いています。
 いくらきよめていただいたとしても救い主である神の子キリストを住まわせていなければ、汚れた霊は空き家になった心と体へいとも簡単に戻ってくることができます。しかもわざわざ「出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く」というのですから、手を付けられないほど悪い有様になってしまいます(45)。

2.信仰の家族としての礼拝
 このことはイエス様の時代のユダヤ人に限ったことではなく、「この悪い時代の者たちもそのようになろう」とあらゆる時代の教会へ問いかけられています(45)。イエス・キリストを救い主として信じる者はだれでも救われます。天の国に属する者、神の家族とされ、洗礼の恵みによって教会に加えられます。失われた者が見つけ出され救われることは大いなる喜びであります。
 ところが、その後が大事です。救いの恵みをいただいて安心してしまったのか、とんと教会に顔を出さなくなってしまう人がしばしばおられます。勿論お仕事やご家庭の事情で日曜日の礼拝に来ることができないという方もおられますし、特に今の時代はコロナ禍の影響で一堂に会することが困難であるのは分かります。問題はその人が心にイエス様を迎えて住まわせており、体も含めて主のものとしているかどうかにかかってきます。

 誤解のないようにお断りしておきますが、礼拝に休んだから直ちに汚れた霊に支配されると脅かしているわけではないのです。平時でさえキリストの体である教会から離れている人の信仰について、迫害や困難に直面して十分に発揮されるか確証が得られないということです。
 礼拝出席ばかりが信仰の現れとは限りませんが、キリストご自身が安息日の主と名乗られたことと教会の信仰告白とは密接です。「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ」と告白しているとおり、説教と聖礼典とによる公の礼拝こそがキリストの体である教会の中心にあるのです。すなわち聖餐台と洗礼盤を備えた礼拝堂が主にある家族の中心です。

 ある信仰者は、礼拝を守るために収入は劣るとしても日曜日は完全休業という職場を選択しました。まさに生涯をかけた献身です。シフト制の職場であれば日曜日を最優先で休みの希望を出し、それが受理されるよう牧師や役員に祈ってもらうこともでるでしょう。
 あるいは療養中で外出ができない方、遠方で交通手段が制限されている方よりお電話をいただいた際には、オンラインもよいが週報と説教は毎週送ってほしいと申し出があったこともありました。この方はオンライン配信を観ながら自宅で礼拝をしているのではなく、体を運ぶことはできなくともキリストのご臨在を示す礼拝堂において礼拝を捧げているのです。

 話は前後しましたが、このように心と体にキリストを住まわせていることが礼拝への姿勢にも現れます。教会籍すなわち地上において神の家族であるという所在がこの礼拝堂とともに置かれているので、もし信仰から離れそうになっても帰ってくる場所であるのです。

3.天の父の御心を行う者
 ところで、迫害や困難というもののうち最も辛いものの一つに家族からの迫害を挙げることができます。信仰のことでなくとも肉親から罵られたり裏切られたりすることはこの上ない失望感を伴います。特に異教文化が根強い日本において、キリスト信仰を家族に理解を得るために非常に長いの年月、途方もない祈りと忍耐とを要することがあります。
 神の子であるイエス様おかれましても家族から理解を得らなかった様子が記されています。まだ人々にお話しになられているところへ「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」というのです(46)。中に入って関わることができなかったのです。

 母マリアと言えば「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とその信仰を賞賛されたほどの人です。兄弟は別の箇所にヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダと名前が明かされており(13:55)、このヤコブは主の兄弟ヤコブとして知られています(ガラテヤ1:19)。このヤコブは後にエルサレム教会の長老となり、使徒会議の座長を務め、またパウロに助言と指導を与えたほどの人です。
 これらの立派な方々でも初めはイエス様を理解することができず、むしろその働きを妨げてしまいました。他の福音書では人をやって呼ばせたとするされていることから、マリアと息子たちはイエス様を連れ戻しにきたのではないかと言う人もいます。イエス・キリストとその奇跡を目の当たりにしていた人たちでさえ、みことばを聞いて主を礼拝することよりも自分たちの都合を優先させてしまったのでした。

 そこでイエス様は「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と尋ねます(48)。疑問形ではありますが答えを求められたというよりも、この人たちのことは知らないとおっしゃっているわけです。そして弟子たちを指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と示されました。
 主人がそのわざのゆえに悪霊の頭ベルゼブルと呼ばれ、同じわざを行う者たちが家族の者と呼ばれます(10:25)。ナザレのイエスが神の子救い主であると信じているので、まず神として崇め礼拝します。その上でみことばに従って天の国のわざを行う人が主にある家族と呼ばれるのです。


<結び>  
 「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」
 私たちも主にある家族に招かれています。身も心も「掃除をして、整えられて」イエス様をお迎えし、天の父の御心を行う人、主にある家族として歩みましょう。

 そして「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」ことができますように。
 また本日の平和を祈る聖日に限らず、全世界の主にある家族の平和のために、特にかつて日本の侵略を受けて傷ついた家族の平和のために祈って参りましょう。

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