「天の国の忍耐」マタイによる福音書13章24-43節
2021年8月22日
担任教師 武石晃正
昨年度より引き続いておりますコロナ禍ですが、一向に収まらないどころか栃木県下にもまた緊急事態宣言が発表されました。
暗中模索だった昨年4月と比べますと随分と感染予防というものに慣れてしまったように感じます。その一方で馴れが油断を生み、油断が感染拡大に繋がる可能性は否めませんので、改めてさまざまな自粛が求められているところでしょう。
自粛、自粛と言われ続けて1年半にもなります。感染症そのものへの不安はもちろんですが、忍耐に忍耐を、我慢に我慢を重ねてきたことの疲れを覚えることです。状況は異なりますが聖書には「いつまでなのでしょう」と苦難を訴える祈りが刻まれています(詩編6編、13編ほか)。
また同時に「(主を/神を)待ち望め」と繰り返し呼びかけられています(詩編27編、42編ほか)。主にある教会は歴史上あらゆる困難に直面してもひたすら待ち望みながら信仰を受け継いできました(Ⅱペトロ3章)。
いつまで何を待ち望めばよいのか、いつも忍耐が求められます。本日は朗読した福音書の箇所を中心に「天の国の忍耐」と題してみことばを思いめぐらせましょう。
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担任教師 武石晃正
昨年度より引き続いておりますコロナ禍ですが、一向に収まらないどころか栃木県下にもまた緊急事態宣言が発表されました。
暗中模索だった昨年4月と比べますと随分と感染予防というものに慣れてしまったように感じます。その一方で馴れが油断を生み、油断が感染拡大に繋がる可能性は否めませんので、改めてさまざまな自粛が求められているところでしょう。
自粛、自粛と言われ続けて1年半にもなります。感染症そのものへの不安はもちろんですが、忍耐に忍耐を、我慢に我慢を重ねてきたことの疲れを覚えることです。状況は異なりますが聖書には「いつまでなのでしょう」と苦難を訴える祈りが刻まれています(詩編6編、13編ほか)。
また同時に「(主を/神を)待ち望め」と繰り返し呼びかけられています(詩編27編、42編ほか)。主にある教会は歴史上あらゆる困難に直面してもひたすら待ち望みながら信仰を受け継いできました(Ⅱペトロ3章)。
いつまで何を待ち望めばよいのか、いつも忍耐が求められます。本日は朗読した福音書の箇所を中心に「天の国の忍耐」と題してみことばを思いめぐらせましょう。
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1.将来の栄光を待ち望む(ローマ8:18-25)
待ち望むと一口に申しましても、何を待っており、どなたに望みをおいているのかが不確かですと忍耐し続けるのもしんどいところがあります。待ち望むということを信じると言い換えるならば、教会は基本信条や信仰告白というものを大切に守って参りました。
プロテスタント教会におきましては宗教改革から「聖書のみ」「信仰のみ」との伝統に立っています。正典である聖書と信仰告白との両輪によって主の道を逸れずに歩むことができるのです。
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り(中略)教会の拠るべき唯一の正典なり」と日本基督教団信仰告白において私たちは告白しています。聖書そのものは正典として正しくとも、読む者が思い込みや自分の願望を読み込んでしまう恐れがあります。誤った読み方を避けるために信仰告白、また基本信条の一つである使徒信条に照らして理解します。
個々人の信仰においても聖書の言葉をいただきつつ、信仰告白を通してそれを正しく働かせることができます。何を信じているのか目当てをはっきりするのです。
私たちは復活した主イエス様が天に昇り、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と主の再臨と終わりの日の裁きがあることを信じています。そして教会は「主の再び来りたまふを待ち望み」ます。
この待ち望むということあるいは忍耐について、福音書に入る前に使徒パウロの手紙からご一緒に考えてみましょう。ローマの信徒への手紙8章18節(新共同訳、新約P284)以下から取り上げます。聖句を読みながら進めますのでお聞きいただければよろしいですが、聖書をお開きになる方がおられましたら少しお待ちいたします。
パウロは当時の教会へ、そして聖霊を通して私たちへ次のように語りかけています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18)。将来と比べて語られていますから、教会ならびに個々の信徒たちがいま苦しみにあることは避けられないということを言い含んでおります。そればかりか「被造物」(19)という言葉を用いられていることから、苦しみが全世界に余すところなく広がっており、天地創造の昔から変わらずあり続けているということが分かります。
被造物についてイエス様が「天地は滅びる」(マタイ24:35)とおっしゃったとおり「現在の天と地とは、火で滅ぼされる」(Ⅱペトロ3:7)のです。パウロはこれを「被造物は虚無に服しています」(19)と表現しています。これは「滅びへの隷属から解放され」(21)「新しい天と新しい地」(黙21:1)となるときまで、すなわち最後の裁きが終わるまで「産みの苦しみ」として続きます。
では私たちも被造物と共に苦しむだけ苦しんで、裁きによって火で滅ぼされるのでしょうか。否、イエス・キリストを信じ、聖霊を受けて神の子とされた者には体の贖われることも約束されています。ですから私たちは苦しみの内におりますが、滅ぼされることなく、「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(23)。
目に見える物はすべてこの世のものですから、これらに希望を置くならば終わりの時に共に滅びてしまいます。どれほど素晴らしい業績を残しても、どれほどたくさんの財産を築いても、あるいは壮絶な難行苦行を積んだとしても、この世のものとして滅ぼされるのです。
魂の救いばかりでなく、体をも贖われることに救いの希望があります。終わりの日、主の再臨を待ち望みます。誰も見たことがないものを信じ続けるということはとても難しいことなので、忍耐がいるのです。
「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(25)
2.天の国の忍耐(マタイ13:24-43)
ローマの信徒への手紙からこの世における私たちの苦しみと、体をも贖われることを待ち望む私たちの忍耐について読みました。私たちは苦しみながら忍耐していますが、先に天に昇られたイエス様は文字通り高みの見物をなさっているのでしょうか。
マタイによる福音書に戻りましょう。新共同訳聖書には段落ごとに小見出しありまして、朗読いたしました箇所は「『毒麦』のたとえ」と付されています。確かにこの呼び方は端的で印象が強いので悪くはないのかも知れませんが、イエス様が「天の国は次のようにたとえられる」と言われていることに注意を払うとよいでしょう。
イエス様は一連のたとえを通して「天の国」について説かれています。続く「『からし種』と『パン種』のたとえ」(31-33節)も同様ですから、もし「『毒麦』のたとえ」と呼ぶならば「天の国は毒麦のようなものである」という教えになってしまいます。読み方を間違わないためにも、「種を蒔いた人のたとえ」と心に収めるのが相応しいでしょう。
ところで当時は悪意をもって相手の畑に毒麦を蒔くということが実際にあったそうです。毒麦は穂のヒゲの長さや色の違いで麦と区別できますが、穂が出るまでは見分けがつかないので収穫まで放っておかれました。見分けがつくようになると麦だけが収穫され、毒麦は束にされて燃料として炉にくべられます。僕たちが命じられたとおりです。
たとえ話の説き明かしは聞く耳のある者、寄ってきた弟子たちにだけなされました(36)。思慮深く扱われるべき教えであるからです。使徒たちもまた慎重に教会へ伝え、福音書はマタイの筆だけに委ねられています。世の終わりの裁きを結論としていますが、その日に至るまでの教会に対して、厳かに与えられている戒めの一つです。
畑である世界において御国の子らは教会です。残念ながら悪魔が悪い者を蒔いていくことがあるのです。福音書が記された当時を含む迫害の時代においては、教会の中にも迫害者や裏切者、偽教師らが現れました。
普段の教会であってもつまずく人や転ぶ人、時に過ちや罪を犯してしまう人もあるでしょう。きよさを求めることは教会にとって大切なことですが、きよめてくださるのは主です。「行って抜き集めておきましょうか」と言った僕たちは制せられました。
毒麦が育つことは畑にとって大きな損失です。しかし麦まで一緒に抜かれてしまうことのほうがこの主人にとっては耐え難いことなのです。この世に不正がはびこっているのを憂いて「神は正義を行わないのか」と思う人もおられるかもしれませんが、悪を滅ぼすために正しい人々が損なわれることがないよう忍耐に忍耐を重ねておられるのです。
「刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」(39)とイエス様は告げられました。言い換えるならば「世の終わりには人の子であるわたしが必ず悪魔と不法を行う者どもを燃え盛る炉に投げ込むのだから、お前たちが手を出す必要はない」と使徒たちをも戒めたのでした。
ご自身がお創りになった世界に悪がはびこり、教会が傷つけられればご自分の名が汚されます。主の忍耐は「泣きわめいて歯ぎしりする」ほどの悔しさと痛みを伴っています。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」(ローマ12:19)と言われているように、刈り入れの時には悪い者の子らに対して御怒りがそっくり返されるのです。
主の御心は毒麦を集めて火で焼くことよりも、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」ことに置かれています。私たちが苦しみにあることを知ったうえで、やがての時に輝くまで主は忍耐強く待っていてくださいます。
<結び>
主の祈りにおいて「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈ります。麦を損なうことがないように、刈り入れの時まで毒麦をも育つままにされるみこころです。天の国の忍耐が地にある私たちを通してなされることを求めます。
また「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく我らの罪をもゆるしたまえ」と祈ります。人間同士で量りあう罪の大小など、天から見下ろせば比べるほどもない違いです。刈り入れまでは麦も毒麦も私たちには見分けがつかないのだと示されています。
この世にあって、私たちは苦しみながらも「主の再び来たりたまうを待ち望み」ます。主の再臨と体の贖われること、これら目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むことができるのです。
目下はコロナ禍において緊急事態宣言という困難があり、しばらく礼拝堂に会することが難しくなりますが、天の国の忍耐をもって歩ませていただきましょう。