「天の国の希望」マタイによる福音書13章44-52節
2021年8月29日
担任教師 武石晃正
初めにこの度の緊急事態宣言に伴う礼拝についてのご案内をさせていただきます。
去る8月20日に発表されました緊急事態宣言を請けまして、今週からの礼拝について礼拝堂への出席を自粛するよう役員会よりご案内いたしました。
普段は主日礼拝の中で聖書朗読と説教を録画し、それを礼拝後にオンラインで公開するという手順を経ております。この度はそれぞれの場所で同じ時間に礼拝を捧げるために、定時より早く録画したものを礼拝の時刻に合わせて公開するという手順をとりました。
皆様におかれましては、日曜日10:30より少し前には教会のホームページやお手元の週報をご覧になって礼拝の備えをしていただくところです。
定刻になりましたらそれぞれに黙祷をもって礼拝を始め、プログラムに沿って讃美と祈りをおささげください。讃美歌や聖歌の節回しが定かではない場合は、歌詞を味わい思いめぐらせながら祈りとして捧げていただければ結構です。
聖書朗読ならびに説教につきましては、①インターネットで動画を視聴するか、②ご自身で聖書箇所と説教原稿を朗読するか、ご事情に応じてお選びください。録画の都合で祝祷は配信できませんので、各々に感謝の祈りと黙祷をもって礼拝を終えてください。
礼拝堂では定刻にて役員の一部と教師によって礼拝を捧げます。司会者は立てますが、聖書と説教はこの動画を視聴いたします。皆様と同じ内容での礼拝が公の礼拝として捧げられていることを覚え、多くの場所で心を合わせた礼拝が捧げられますように。
なお献金につきましては礼拝プログラムから外しております。礼拝堂でも各自に捧げますので、皆様におかれましても心に定めた分を礼拝ごとに取り置きください。相集うことができる日を待ち望む祈りとともに積んでいただけければ幸いです
週報と説教を郵送で受け取られる方は一両日ほど遅れての礼拝となりますが、曜日と時間を定めて週ごとの礼拝をお守りください。また個々の祈りのために平日も礼拝堂は開けております。必要があれば担任教師が対応しますので声がけください。
ご案内は以上といたしまして、本日の聖書箇所を中心に「天の国の希望」と題してみことばを思いめぐらせましょう。
PDF版はこちら
担任教師 武石晃正
初めにこの度の緊急事態宣言に伴う礼拝についてのご案内をさせていただきます。
去る8月20日に発表されました緊急事態宣言を請けまして、今週からの礼拝について礼拝堂への出席を自粛するよう役員会よりご案内いたしました。
普段は主日礼拝の中で聖書朗読と説教を録画し、それを礼拝後にオンラインで公開するという手順を経ております。この度はそれぞれの場所で同じ時間に礼拝を捧げるために、定時より早く録画したものを礼拝の時刻に合わせて公開するという手順をとりました。
皆様におかれましては、日曜日10:30より少し前には教会のホームページやお手元の週報をご覧になって礼拝の備えをしていただくところです。
定刻になりましたらそれぞれに黙祷をもって礼拝を始め、プログラムに沿って讃美と祈りをおささげください。讃美歌や聖歌の節回しが定かではない場合は、歌詞を味わい思いめぐらせながら祈りとして捧げていただければ結構です。
聖書朗読ならびに説教につきましては、①インターネットで動画を視聴するか、②ご自身で聖書箇所と説教原稿を朗読するか、ご事情に応じてお選びください。録画の都合で祝祷は配信できませんので、各々に感謝の祈りと黙祷をもって礼拝を終えてください。
礼拝堂では定刻にて役員の一部と教師によって礼拝を捧げます。司会者は立てますが、聖書と説教はこの動画を視聴いたします。皆様と同じ内容での礼拝が公の礼拝として捧げられていることを覚え、多くの場所で心を合わせた礼拝が捧げられますように。
なお献金につきましては礼拝プログラムから外しております。礼拝堂でも各自に捧げますので、皆様におかれましても心に定めた分を礼拝ごとに取り置きください。相集うことができる日を待ち望む祈りとともに積んでいただけければ幸いです
週報と説教を郵送で受け取られる方は一両日ほど遅れての礼拝となりますが、曜日と時間を定めて週ごとの礼拝をお守りください。また個々の祈りのために平日も礼拝堂は開けております。必要があれば担任教師が対応しますので声がけください。
ご案内は以上といたしまして、本日の聖書箇所を中心に「天の国の希望」と題してみことばを思いめぐらせましょう。
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1.イエス様と「天の国」
本日の箇所は先週に引き続きイエス様が「天の国」についてたとえを用いられた教えです。新共同訳聖書には段落を区切って小見出しが付けられていますが、13章はどの教えも天の国を何かにたとえられているものです。本来であればいずれも「天の国」のたとえであるものの、編集者は44節からの3つのたとえをまとめてこの見出しをつけたようです。
これらのたとえはみな「天の国」の真理を説いています。イエス様は「天地創造の時から隠されていたこと」(35)がいよいよ明らかに教えるため、「たとえを用いないでは何も語られなかった」(34)ということです。
「天の国」は文字通りこの世の国とは異なりますから、この世のことばでは適切に言い表すことができないものもあるわけです。特に未来に関わることを正確に知る能力は人間に備わっていないようで、たとえを用いる必要があったということでしょう。
さてイエス様が天の国あるいは神の国とおっしゃるとき、天から遣わされたメシアとしてのご自身を指していることがあります(ルカ17:21)。そして13章においては「世の終わり」「人の子」と関連付けて説かれておりますから、ここではイエス様ご自身の働きを「天の国」と呼んでいることが分かります。
2.「天の国」のたとえ(44-50節)
畑に蒔かれた種やパン種のたとえは群衆に向けて語られました。しかしその説き明かしは家の中で弟子たちにだけになされ、その上で改めて3つのたとえをもって「天の国」が内弟子たちに説かれています。
1つ目は隠されている宝を見つけ畑ごと買った人のたとえ、2つ目は高価な真珠を見つけて買った人のたとえです。当時のユダヤでは2つの対になる教えによって一つの真理を説くことがありましたので、この2つは対になっていると読んでよいでしょう。
宝は畑に隠されており、真珠は海の底の貝の中に隠されています。見た目では他の畑や他の貝と区別がつかないのですが、隠されているものを知っている人にとっては「持ち物をすっかり売り払って」でも買い取る価値があると言うのです。
この人は「人の子」とよばれるメシア、天から遣わされた神の独り子です。「持ち物をすっかり売り払って」とは、つまりキリストが神の身分でありながら自分を無にして人間と同じ者になられたということです(フィリピ2:6-8)。
キリストは神の身分を投げ打ってご自分の名で呼ばれる者たちを救うために世に来られ、すべてを剥ぎ取られて十字架の上で命までも私たちの代価として支払ってくださいました。人として世に来られた神ご自身が持っていたものはすべて売り払われ、「畑」が丸ごと買い取られました。買った畑がどうされようとも、それは所有者の思うままです。
3つ目は網で魚を集める漁師のたとえです。弟子たちの一部は以前に「人間をとる漁師にしよう」と言われましたが(4:19)、ここでは弟子たちの働きではなく世の終わりにおける「人の子」と天使たちについて説かれています。
世の終わり(49)と言われていますから、網の中身はこの世のすべてが集められていると考えることもできるでしょう。しかし網にかかったものはすべて漁師のものですので、世にあってキリストのものとされているすべて、すなわち教会であるともいえるでしょう。
良い種を蒔いた畑に毒麦が生じるように、網の中には良いものと悪いものとが一緒に集められます。魚たちは水の中で自分が生きるように生きていますから、まさか網で引き上げられるとは考えておりませんし、まして人間にとって良いものか悪いものかと互いに区別することなどできないのです。
これら3つのたとえから明されていることは、神の子であるイエス様が神の身分ばかりかこの世において持ち物すべて、いのちまでも売り払ってすべての者を買い取られたということです。天地創造の時にご自分のかたちに似せてお創りになった人間を、宝あるいは真珠のように代えがたいものとして探し出してくださいました。
3.天の国の希望(51,52節)
魚の網のたとえまで読むと、毒麦のたとえのように世の終わりに悪い者が燃え盛る炉に投げ込まれるという恐ろしい裁きばかりが気になることもあるでしょう。あるいは世の終わりの裁きばかり強調し、脅すように悔い改めや善行を勧めるような輩が現れることも考えられます。そんなことになれば、天の国から希望も何もかもが奪われてしまいそうです。
イエス様は決して弟子たちを怯えさせようとしたのではなく、聞く者たちが誰ひとりとして滅びることがないようにと噛んで含んで教えを説かれたのです。「耳のある者は聞きなさい」(43)とは言いなりに従わせようとするのではなく、耳と心を傾けて真意を知ってもらいたいという思いです。
身に覚えのあることを思いますと、たとえばどなたかよりご助言やご指摘をいただくことがあります。その時に面倒くさいと思えば、何を言われても渋々と嫌々ながらにしか耳に入りません。しかし、自分が見落としていたことにも気づいてくださったと思えば、声掛け心がけの一つをありがたいものに感じられるものです。
神様を厳しい裁きをなさる方だと思えば恐ろしいだけの存在ですが、使徒パウロは「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8:31)と最も信頼できる方であると証ししています。
その上で「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(同32)と、持ち物をすっかり売り払ってまで助けてくださった救い主を思い起こさせます。終わりの時ばかりでなく、今もいつでも苦難の中でも一緒にいてくださるのです。
イエス様は弟子たちに言われました。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(52)。裁きを行えと命じられたのではなく、弟子たちは「天の国」すなわちイエス様ご自身のことをきちんと心得るように求められたのです。
新しいものと古いものが何を指すのか、いくつかの解釈があるようです。この一連の「天の国」のたとえはイエス様が再び来られる時のことを示しており、「みな分かったか」と弟子たちに学ばせたという二つの事実から読み解いてみましょう。
「新しいもの」は世の終わりの先にある新しい天と地、「御国を来たらせたまえ」と求めている「天の国」の到来です。キリストにある者が復活の恵みにあずかり、朽ちないからだと栄光とをいただく希望です。
「古いもの」は新しいことに対していますから、世の終わりに至るまでのこの時代のことです。世の終わりがまだまだ先のことだと思って主を侮る者たちがおり、あるいは再臨が近いと考えて働くことをせず怠ける者がいる時代です。
主は弟子たちが「新しいもの」を見るときまで「古いもの」を治めることができるよう、彼らを「天の国のことを学んだ学者」とされました。福音書から天の国のことを学んだ者はみな、弟子たちと同じです。世の終わりと裁きを見据えて天の国の希望を持ちつつ、この時代にあって神と人とに忠実に仕える者です。
<結び>
「分かったか」と尋ねられたイエス様のお言葉には「視野に捉える」という意味を含む動詞が使われています。
天の国をしっかりと見据えている人は、世の終わりに御子ご自身が天使たちを用いてすべてをお裁きになることを知り、その先にある新しいものに希望を得ます。
世の終わりばかりでなく、この世にあっても御子といっしょにすべてが与えられていることを覚えて、苦難の中でも希望を抱いてしっかりと歩むことができるのです。