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「天に富を積む」マタイによる福音書19章13-30節

2021年9月19日
担任教師 武石晃正

 先週は「隣人を愛する」と題しまして、赦すということについてみことばから取り扱いを受けました。「七の七十倍までも赦しなさい」と弟子たちに説かれたイエス様は、赦すということは「その借金を帳消しにして」やることだと教えられます(マタイ18:22,27)。
 もしその場では赦してもらっても、後から取り立てに来られると思ったなら私たちの心は休まることがないでしょう。天の父は「小さな者」が一人でも滅びないようにと、赦しを求める者には罪や背きを帳消し、つまり初めからなかったことにしてくださろうというのです。支払いのために御子をもくださった憐れみ深さに感謝します。

 では誰かがあなたに罪を犯すとか悪意を向けたとして、イエス様の教えのとおりあなたがそれを何度でも赦し続けるとしましょう。貸したお金を返してもらうのは当然のことだとしても、そのほかを赦してばかりいたら損ばかりしているような気がするとおもいませんか。時に「誰が私に償ってくれるのか」とつぶやいたり叫んだりしたくなるでしょう。
 イエス様は赦すことや憐れむことで私たちが損をすることがないように、「天に富を積む」ことについて教えてくださいました。

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1.当時のユダヤと子ども(13-15節)
 イエス様がガリラヤやユダヤで教えを説いておられた頃、イスラエルの人々はローマ帝国の支配下にありました。自治が認められていましたが、ローマの軍隊が駐留していたり純系のユダヤ人ではない者が王に立てられていたりと何かと不都合がありました。
 バビロン捕囚から解放されてからも時代の権力はペルシャからギリシャを経て、ローマへと移りました。異民族の支配に翻弄され、神の民の中にも異教の文化や風習に流されやすい者もありました。

 神の民として本来あるべき道を歩もうとした人たちは、契約の書や律法の教えの上に立って信仰の戦いを続けました(ネヘミヤ記8章以下参照)。律法を説き明かす教師たちは、後に律法学者として福音書にも登場します。異教の慣習や律法を守らない人たちから分離し、自らのきよさを保とうとした人々はファリサイ派として知られています。
 律法学者やファリサイ派の人たちは、福音書の中でイエス様の論敵として登場します。意地悪で頭が固くて冷たい人たちという印象をぬぐえないところもありますが、元をたどれば、掟の秩序に忠実であり、神の前にきよさを保とうとする人たちだったのです。

 彼らは街角で人々のために祈ったり病人のいる家を見舞ったりしていたので、イエス様の時代においてもその多くは庶民から敬われていました。このファリサイ派の人たちが一目置いていたのが金持ちとされる人々です。当時のユダヤでは神様が優れた者に多くの富をお委ねになると考えられていたからです(25:14-15)。
 それゆえに彼らは「金に執着するファリサイ派の人々」(ルカ16:14)と呼ばれており、金持ちのことをその財産のゆえに敬っていたのでした。その反面で律法を守らず、また何かと汚れてしまうことが多い子どもたちは疎かにされていたようです。

 今の日本と異なり当時は子どもの人権という思想は発達していませんので、社会通念としても子どもたちは取るに足らない者のように扱われることありました(13)。財産も名誉も権利もこの世に対して持っていない者を指して「天の国はこのよう者たちのものである」(14)とイエス様はおっしゃいました。
 この世の国に保証も担保も持たないので天の国にしか富を積むことができない者たちを、イエス様は受け入れ祝福してくださいました(15)。

2.金持ちの青年の問い(16-22節)
 「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った」(16)と、たくさんの財産を持っていた青年がやってきました(22)。年功序列が明確な当時のユダヤ社会の中で(ヨハネ8:57、ヨブ32:6)、青年がファリサイ派の立派な人たちから敬われることは極めて稀なことです。
 ファリサイ派には律法学者たちも多くが属していましたから、この青年は神の前に正しい人であるとのお墨付きをいただいたのも同然でした。けれどもそのファリサイ派の人たちがナザレのイエスに遣り込められたと聞いて、今度はイエス様の太鼓判を捺してもらわなければならなくなったということでしょう。

 「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とは真摯な問いに聞こえますが、本心では「あなたは十分に立派です」と称賛の言葉が欲しいのです。その証拠のように、せっかくイエス様が「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(17)とお答えくださったにも関わらず、「どの掟ですか」「そういうことはみな守ってきました」(20)と食い下がった次第です。
 「まだ何か欠けているでしょうか」と疑問形ではありますが、自分は要件を十分に満たしているはずであるとの主張です。ファリサイ派の先生たちでは当てにならないからわざわざあなたに会いに来たのだ、あなたはわたしを一番弟子にすべきであるとの要求です。

 イエス様のお答えは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21)の一言でした。「持ち物をすっかり売り払って」(13:44,45)憐れみを示された天の父の御心を、あなたも自分の心としなさいというものです。
 この青年はたくさんの財産と形式的な善行を永遠の命の担保にしようと考えていました。残念ながら財産も業績もこの世のものですから、天の国に持ち込むことはできないのです。自分が死ぬか終わりの時が来れば一切合切が失われてしまうからです。

 天に積んであるものはこの世において用いることはできないかもしれませんが、たとえ命を奪われたとしても永遠の命の保証となります。迫害を受けて死ぬこともあろうから、弟子になるなら「天に富を積むこと」から始めよとイエス様は私たちを招かれます。

3.天に富を積むこと(23-30節)
 「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と金持ちの青年に勧めた後で、イエス様は弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい」(23)と教えを説き始めました。

 先に誤解を避けるために申し上げることは、イエス様は富や財産そのものが悪であるとは言われていないということです。旧約聖書の中では創世記の族長たちに始まり、信仰を試された後のヨブ、またイスラエルの王であるダビデやソロモン、バビロン捕囚後のネヘミヤに至るまで神様から非常に多くの財物を任された人たちが大勢います。
 新約聖書では4つの福音書がアリマタヤ出身のヨセフという金持ちの議員がイエス様の弟子であったことを証言しています。使徒言行録やパウロの手紙を開きますと、名前の有無は別として、主の弟子たちを支え、教会に捧げた富裕層の姿を垣間見ることができます。

 さて「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(24)について、調べてみますと様々な説明が出てまいります。概して言えることとしてはらくだは当時のパレスチナで見かけることができる最大の動物であり、とにかく大きいもののたとえとして用いられたということです。
 日本語の話し言葉として「クジラのようだ」と言えば、セミクジラかマッコウクジラかかなどとは問わずに度外れて大きいことを指すのと同様です。もちろんイエス様の時代には既にゾウの存在も知られていました。しかし私たちが「マンモス級」などという表現を用いた際にいちいち「マンモスよりアフリカゾウの方が大きい」と水を差すことをしないように、ラクダは巨大なものを意味したのです。

 同じく「針の穴」もとにかく小さなことを意味しますから、「らくだが針の穴を通る」とは「とにかく話にならないような桁違いなことが起こる」ということになります。「だれが救われるのだろうか」(25)とこぼす弟子へ、神の子はご自身の降誕のことを言い含めます。
 「神は何でもできる」(26)とはすなわち「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)と受胎告知の言葉です。神であることを捨てて天から世に来られた方がここにおられます。ソロモン王が奉献した荘厳な神殿でさえお納めすることができない神ご自身が、母マリアの胎を開いてお生まれになられたのです。ラクダより偉大な者が針の穴を通られたことにより、貧しい人々から金持ちにいたるまですべての人が救われるのです。

 ペトロは弟子たちを代表してイエス様に答えます。福音書が書き記された時代を踏まえれば、迫害のただ中にある教会とその信徒たちの思いも織り込まれている言葉です。「何もかも捨てて」という一言には信仰のゆえに家族や財産を奪われてしまった人たちの涙も含むことでしょう。
 先の青年のことを思えば、「もしあなたにたくさんの財産があるなら、それをわたしの名のために貧しくさせられた者たちに施してほしい」とイエス様は願われていたことでしょう。いくら掟の行いを積んだとしても、「小さな者」と呼ばれるような貧しい人々に目と心をかけなければ天の父の御心から遠ざかってしまうのです。

 箇所は前後しますが、先に救われた者でも後から信仰に加えられた者でも、天の父は分け隔てなく報いをくださることが付け加えられています(30)。迫害に遭っては、先に信じた方が生きながらえることもありますし、いま信じた者が今日のうちに捕らえられることもあるのです。
 遠からず迫害の中で殉教してゆく弟子たち、また終わりの見えない困難にあえぐ教会とその一同に向けて「新しい世界」についての約束が与えられています。「あなたがたも、わたしに従って来たのだから」(28)「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(29)という確かな約束です。実に天に富を積むとはこのことなのです。

<結び>  
 たと100倍もの報いを受けることがあっても、それを地上でいただいてしまったらこの世に全ておいていかなければならないことになります。
 この世で受ける報いを捨てて天に富を積みましょう。そして主にあって苦しみを負っている人たちを覚え、祈りつつ支え合いましょう。 

 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(19:21)

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