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「気前のよい天の国」マタイによる福音書20章1-16節

2021年9月26日
担任教師 武石晃正

 9月も最後の聖日を迎えました。2021年度は昨年に引き続き全世界的な感染症に悩まされ、また各々に置かれましても煩いや苦しみを覚えつつも、主の恵みによって生かされ守られたことと感謝をいたします。
 文字通り「死の陰の谷」(詩23:4)と呼ばれるところから助け出された方もおられますし、今なお重ねての闘病の内におられる方も覚えます。癒し主であるイエス・キリストの御わざが速やかに現わされることを願い祈ります。

 本日もそれぞれの場所で主日礼拝を守っておりますが、今年度は続けてマタイによる福音書を読み進めております。福音書では主イエス様が「天の国」について様々な角度からたとえを用いて説かれておりまして、朗読の箇所では天の国が気前のよいぶどう園の主人にたとえられています。
 
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1.ぶどう園の主人のたとえ
 「天の国は次のようにたとえられる」とイエス様はいつものように弟子たちに教えを説かれます。小見出しは「『ぶどう園の労働者』のたとえ」と付けられていますが、ここでは天の国がぶどう園を所有する主人にたとえられています。

 このぶどうという果樹は聖書の中でもオリーブと並んで一番初めの創世記から登場します。エジプトやパレスチナの乾燥した気候の土地において、そのみずみずしい果実は神様からの祝福と恵みの象徴でした。ですから「ぶどう園」は祝福の源である天の国、その主人は父なる神様を指すのです。
 労働者は契約によって神様に召し出された民です。たとえの主旨は16節の「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ことにかかりますから、時刻は早いか遅いかを示す程度のものです。何時に雇われた者が誰であるかと話を膨らませなくてよいでしょう。

 当時のユダヤでは町の広場に市が立ち、物売りたちが集まる傍らで仕事を求める人々が立っています。この人たちは雇ってもらわなければその日の収入を得られないので、誰かに声をかけられるまで待ち続けるのです。
 ぶどう園の主人が夜明けに出かけたのは、広場で待っている労働者たちを一早く雇ってあげたいと思ったのでしょう。その後もおよそ3時間おきに広場へ足を運び、まだ雇い主に恵まれていない人に声をかけていきます。

 「何もしないで」(3,6)とありますが、朝から仕事にありつけず声をかけられるまでだらだら過ごすしかなかった人たちです。誰からも声をかけられなければ日銭を手にすることができず、夕暮れにはトボトボと家路につかなければならないのです。12時、3時と主人は出かけていき、その場にいた人たちを雇ってあげたのです。
 日暮れも近づく5時ごろにもこの主人は広場へ行きました。まもなく市も閉まりますし、農場の作業であればもう片付けを始めるような時間です。「誰も雇ってくれないのです」(6)と言った彼らは、まさかこんな時間から雇ってもらえるなどとは思わなかったでしょう。

 さて「夕方になって」(8)一日の仕事が終わります。労働者たちは「一日につき一デナリオンの約束」(2)で雇われましたので、時給計算ではありません。とはいえ最後に来た人たちが受け取った賃金を見て、朝から働いていた人たちが不満を抱いたのは当然の感情でしょう。もし1時間しか働いていない人が朝から働きづめの自分と同じ賃金を受け取っているのを知ったら、私も腑に落ちないと思うのです。
 「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(12)と不平を漏らす労働者へ、主人は答えました。その思いは「あなたはわたしと一デナリオンの約束をした」と、「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたい」との2点です。ご自分の約束への忠実と、分け隔てしない気前のよさです。

 その日その日に必要な生活費を自分のぶどう園で働く労働者すべてに支払いたいという主人の思いです。朝一番に働き場を得ることができた人の労苦よりも、誰からも雇われないまま夕方を迎えようとした人たちの不安のほうが大きいことを主人は知っていたのです。
 
2.気前のよい主人
 この時代のユダヤでは日が暮れると一日の終わりと考えておりましたので、日付は日没から始まり日没に終わります。私たちでいうところの朝6時を起点に時刻を数えましたので、3節に「九時」と訳されているところは元の文では「第3時」と書かれています。
 正午は第6時、夕方6時は第12時で日暮れとともに一日が終わります。街灯などない時代では太陽が沈めば仕事を終えて、労働者は薄暮の中を家路につくのです。「五時ごろ」(6)には間もなく一日が終わろうとしています。雇われても働くほどの時間もないのです。

 早朝から雇われた人たちが自分たちを「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたち」(12)と主張したくなるのはもっともなことです。けれどこの人たちには朝一番からその日の賃金が保証され、一日の終わりにはそれを受け取れるという希望がありました。
 他方5時に雇われた人たちも、同じく丸一日暑い中を辛抱して広場に立っていたのです。しかも今日は仕事にありつけないかもしれないとずっと不安を抱えていたのですから、どれほど心細く辛い思いをしたことでしょう。

 たとえの解釈としてこの主人を天の国、すなわち御父そして御子であるとして、不平を言った人たちにの思いについて一つの疑問がわきます。せっかく朝一番からイエス様とずっと一緒にいたのに、嬉しくなかったのでしょうか。
 そんな主人の思いとしても、朝一番に他のどの人たちよりも先に声をかけて彼らを雇ってあげたのです。それなのに喜んでもらうどころか一日中しぶしぶ付き合われていたと知ったら、どれほど悲しく惨めな思いをすることでしょう。

 「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(14)と主人は気前のよさを示します。1時間しか働かなかった人に1日分の賃金を支払ったというだけでは、天の国の教えというよりもただの美談や慈善の勧めに尽きてしまうでしょう。
 どの労働者もこの主人が「自分のものを自分のしたいように」厚意で雇ったのですから、不平を言おうものなら「この恩知らず」と叱られても仕方がないのです。心の中で一日中不平をつぶやき続けるような無礼な輩であったとしても、主人はこの労働者たちに「友よ」と懇ろに語りかけました。ここにも主人の気前のよさが光ります。

 先の雇った者も後から雇った者も、この主人にとっては大切な人たちです。だから気前のよい主人はどの者たちにも等しく一日分の賃金、言い換えればその人の命の代価を支払われました。ここに神の愛が示されます。

3.後にいる者が先になり、先にいる者が後になる
 最後の最後だけ働いても丸一日分の賃金をもらえると知っていたら、皆さんはどうされますか。あるいは人生の最後にはこの世にすべてをおいて行かなければならないのだから、働いて財産を作っても仕方がないと考えますでしょうか。

 実は教会が形作られ始めた頃には大変な思い違いをする人たちが現れました。日本でも「働かざるもの食うべからず」と怠け者を戒めることわざがありますが、その出処とされるのが新約聖書のテサロニケの信徒への手紙二のことばです。
 使徒パウロが人々に「働きたくない者は、食べてはならない」と命じたことが記されています(同3:10)。テサロニケにはキリストを信じれば天の国に入れるのだから働いても働かなくてもいいと考えたのでしょうか、働かず怠けた生活をした人たちがいたのです。

 労働に限らず信仰の道においても問われるところです。「後から信仰に入っても救われるのなら死ぬ前に信じればいいじゃないか」「若いうちは自由に生きて、年を取ったら教会に行ってみるよ」と仰る方にお目にかかったことがあります。
 信仰をもって洗礼を受けた人でも、キリストを信じて救われたのでもうよいと考えるのか、教会から離れてしまい思い思いの生き方をする人たちもおります。あるいは礼拝に休まず出ている人でも、「今は仕事で忙しいし家のローンがあるから、退職して時間ができたら牧師にでもなろうか」という物言いをなさる方にお目にかかったこともあります。

 ぶどう園の主人は早朝から広場に何度も足を運んでいますから、誰が朝から立っているのか見ています。働く気持ちがある人は早朝でもお昼でも夕方でも、主人に招かれたらただちに畑へ行くのです。
 朝から根気よく待っていた人と仕事を選んで都合よく広場に顔を出すだけの人とは、主人の目には見分けがつきます。決心してもまだ洗礼の時が留められているという人と、理由をつけて先延べしているだけの人をイエス様は見分けておられます。今はやむを得ない事情がある人と、自分の生活をイエス様のお気持ちより優先している人とでは、同じく礼拝を休んでいても似て非なる違いがあるのです。

 「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とは止むを得ず後になってしまった者を分け隔てなく労ってくださる主のご愛です。先にいる者もかつて同じように負っている重荷をおろさせていただきました。
 先にいる者が後にされ一日の支払いは同じだとでも、すでに受けている恵みは大きいのです。主のお招きに応えたときから、ずっとイエス様がともにいてくださるというこの世のものでは代えがたい恵みを覚えます。

<結び>  
 天の国は気前のよい主人にたとえられます。後から来た者をも分け隔てなく取り扱ってくださいます。その一方その家の子どもたちは、父に似て気前がよいのです。
 キリストが「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)ので、信じた私たちはみな神の子とされています。父が気前のよい主人であるように、教会もまた気前のよい天の国です。

 今日あなたが心を定めてイエス・キリストに従うなら、天の国は先にいる者を後にしてでも真っ先にあなたのことを歓迎します。先にいる私たちは恵みを十分にいただいていますから、天の父のように後にいる者を気前よく迎えることができるのです。

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