「信仰による生涯」マタイによる福音書21章18-32節
2021年10月3日
担任教師 武石晃正
教会暦は聖霊降臨節第20主日を数えました。ペンテコステの聖霊降臨日から降誕前までの期間、聖霊降臨節として今年は22回の主日が備えられます。
聖霊降臨節は「父・子・聖霊なる、三位一体の神」の聖霊様を覚えると同時に、主の霊によって生み出された教会について思いを寄せる期間でもあります。ですからマタイによる福音書を読むにあたりましても、イエス様ご自身のお言葉が教会の時代において書き記されたということを意識してきた次第です。
御父から遣わされた御子が聖霊によってお生まれくださり、バプテスマによって聖霊の証印を受けて、お言葉とみわざとをお示しになりました。この聖霊が弟子たちに降り、福音を語らせ教会のわざを行わせたのです。そして今なお聖霊はキリストの教会に、またキリストを信じる一人一人に与えられています。
本日の箇所は聖霊をいただいた者の生き方、信仰による生涯について、天の国との関係に照らして示されるところです。
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担任教師 武石晃正
教会暦は聖霊降臨節第20主日を数えました。ペンテコステの聖霊降臨日から降誕前までの期間、聖霊降臨節として今年は22回の主日が備えられます。
聖霊降臨節は「父・子・聖霊なる、三位一体の神」の聖霊様を覚えると同時に、主の霊によって生み出された教会について思いを寄せる期間でもあります。ですからマタイによる福音書を読むにあたりましても、イエス様ご自身のお言葉が教会の時代において書き記されたということを意識してきた次第です。
御父から遣わされた御子が聖霊によってお生まれくださり、バプテスマによって聖霊の証印を受けて、お言葉とみわざとをお示しになりました。この聖霊が弟子たちに降り、福音を語らせ教会のわざを行わせたのです。そして今なお聖霊はキリストの教会に、またキリストを信じる一人一人に与えられています。
本日の箇所は聖霊をいただいた者の生き方、信仰による生涯について、天の国との関係に照らして示されるところです。
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1.天の国の権威(18-27)
「朝早く、都に帰る途中」(18)と話が始まります。寝泊まりは郊外の町ベタニアでしたが(17)、イエス様が活動の拠点をエルサレムの中に置かれたことを意味しています。ちょうどこの前日に、「あなたがたの間にある」(ルカ17:21)と言われた天の国が子ろばに乗って都に到着したばかりです。
都には王宮とエルサレム神殿があり、ユダヤの国におけるあらゆる権威が集まっていました。ガリラヤやユダヤの町々と異なり、ここから先は世の権威と直接に衝突することになります。
エルサレムへと再び戻られる道すがら、イエス様は道端にいちじくの木を見つけられました。日本でもちょうど今の時期(9-10月頃)からいちじくは色づきますが、イエス様がエルサレムに上られたのは過越祭の月です。この年は3月下旬にあたりますから、時期ではないことをマルコが指摘しているとおりです(マルコ12:13)。
この枯れたいちじくが何を象徴しているのかといろいろ調べてみましても、議論や憶測が絶えないようです。私たちは枯れた木に心奪われることなく、「はっきり言っておく」(21)と弟子たちの目を覚まそうとされたイエス様のお言葉に注意を向けるべきです。
「信仰を持ち、疑わない」とは、目で見た事物に驚いて心を奪われないことから始まると言えましょう。不思議にも子ろばが与えられたことも(1-4)、群衆が盛大にイエス様を迎えたことも(8-10)、その大勢を率き連れて神殿の境内を練り歩き露天商らを蹴散らしたことも(12-13)、目や足が不自由な人を癒されたことも(14)、どれもこれも弟子たちを圧倒する出来事ばかりでした。
たとえ神の子自らがなされたわざだとしても、目に見える働きは本来の目的に対して枝葉に過ぎないのだと気づかされます。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)と天の国の権威を示し、ご自分の民を悔い改めに導くことが預言者のわざなのです。
「信じて祈るならば」(22)とイエス様はおっしゃいましたが、私たちは何を信じて何を求めて祈るのでしょうか。いちじくの木を枯らすことや、山を海に飛び込ませることが目的なのでしょうか。ご利益信仰であれば神殿の境内の物売りや寺社の的屋で十分です。
ガリラヤで宣教を始めてからユダヤを巡られて天の国を説かれた頃は、イエス様の前に立ちはだかったのは律法学者とファリサイ派の人たちでした。しかしエルサレムは「祭司長や民の長老たち」(23)という権威が表に出てきます。
「何の権威でこのようなことをしているのか」とは境内の物売りや両替人の件です。この人たちの関心は神殿で崇められるべき天の父の権威ではなく、露天商から利益の一部を徴収する権威にあったのでしょう。訳の上では「だれがその権威を与えたのか」とやや丁寧ですが、「我々の庭場、縄張りをよくも荒らしてくれたな」との物言いです。
イエス様は洗礼を受けたことで地上においては洗礼者ヨハネの権威の下に身を置かれています。ヨハネの権威を認めて洗礼を受けた人たちの多くはナザレのイエスを受け入れました。ですから「ヨハネの洗礼はどこからのものだったのか」(25)と権威について祭司長たちに答えを求めたわけです。
信仰があれば「天からのものだ」と答えられます。疑いがあるので「人からのものだ」とも答えられないのです。祭司長や長老たちとの問答が記されていますが、福音書が書かれたのは教会の文脈の中です。初代教会にも自分たちの権威を振りかざすばかりで、主の権威を恐れず人々の顔色をうかがう者たちが幅を利かせていたことが伺い知れます。
疑いのない信仰によって天の国の偉大さを知る者にとっては、祈りによって山が海に飛び込んだとしてもそれさえも枝葉にしか感じないことでしょう。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(6:33)との教えが重なります。
2.何を信じて仰ぐのか(28-32)
小見出しに「二人の息子」のたとえと付けられていますが、「天の国」は二人の息子を持つ人にたとえられています。31節でマタイが「天の国」ではなく「神の国」と記していることに着目しますと、この段落は肯定的な信仰への勧めというよりも不信仰への戒めです。
「ところで、あなたたちはどう思うか」(28)と問われた「あなたたち」は、弟子たちではなく先の論敵である「祭司長や民の長老たち」です。「何の権威でこのようなことをするのか」という直前の問答の続きですから、直接的には洗礼者ヨハネに対する姿勢が問われています。
兄にたとえられているのは先に父親へ「いやです」と反抗を示した者たちです。このたとえは異教徒や全くの未信者を相手にしているのではなく、神の民イスラエルの中で語られています。「息子」と呼ばれていますから、神の子とされた者でも素直に従えないことがあるのだと含まれていると言えるでしょう。
この兄は「後から考え直して」父のことばに従いました。神の子とされた信仰者であったとしても時に不平や不満、文句や愚痴が口をついて出てしまうことだってあるのです。素直に従えない思いや、どうしても折り合いがつかない思いが胸の奥に残っていることだってイエス様はご存じなのです。
それなのに教会では「いい子」を演じてしまっては、ひとりで抱えて悩み苦しむこともあります。「もうイエス様に顔向けができない」と落ち込む心へ「悔い改めよ」と響くとき、天の国のほうから近づいてくださったことに気づくのです。そこで「考え直して」再び御心を行う歩みへと道を戻していただける、そのような経験を信仰者は何度も味わいます。
一方であたかも父の言うことを聞いていたようなそぶりをしていた弟は、傍目には立派に見えても結局のところ父親の望み通りにはいたしませんでした。見た目は立派でも、御父の御心を行おうとしない者が神の子と呼ばれる者の中にも起こり得るということです。
ユダヤの指導者たちはある人たちを「徴税人や娼婦たち」と呼んで罪人同様に共同体から外へと押しやりました。親が罪を犯したか本人の過失であるか、何らかの理由で一度罪人と定められると会堂や神殿に近づくことができなくなります。
悔い改めたくても立ち帰るための場所からも追放されてしまったら、どこで御声を聞くことができましょう。神の民に生まれながら神のことばを聞く場さえも失ったら、悔い改める機会さえ奪われてしまうのです。信仰に立ち帰りたくてもその道さえ失うのです。
では「徴税人や娼婦たち」はどこで「考え直して」立ち帰ることができたのでしょうか。それは宮でも会堂でもなく荒れ野です。洗礼者ヨハネがユダヤの荒れ野で宣べ伝えたので、この人たちは悔い改めのバプテスマを受けることができました(3:1-6)。同様に教会においても、「荒れ野」すなわち礼拝の交わりの外で迷いの道から連れ戻される者もあることが示されます。(ヤコブ5:19-20)。
もちろん神殿や礼拝堂に仕えてなお天の国の権威を受け入れ、素直に聞き従うことができれば幸いです。たとえそうでなくとも「後で考え直して」悔い改めるならば、イエス様はそれまでのことを枝葉に過ぎないとしてくださいましょう。詰まるところ、天の国の権威を信じ仰ぐことが信仰なのです。
<結び> 信仰による生涯
信じようとしない人は何かにつけて信じない理由を探すでしょう。しかし天の国の権威を受け入れてみないことには、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とイエス様からいつまでお答えをいただけないとも言えましょう。
「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」と天の国の権威への全き信頼が求められています。目に映る物事や自分の思い煩いを枝葉に過ぎないとして、「父親の望みどおりに」なることを信じて祈るならば、求めるものは何でも得られるとイエス様の教えです。
勿論その場その場で何が御心であるのかを直ちに知ることはできないとしても、その都度「後で考え直して」御心を求めることならできるのです。「徴税人や娼婦たち」すなわち自らを罪人であると知っている者たちは「後で考え直して」でも悔い改めることができるのです。
「悔い改めよ。天の国が近づいた」。天の国のほうから近づいてくださったと知って、自らの罪に気づき悔い改めることができる道、これが信仰による生涯です。そして、立ち帰る先はキリストの体である教会、そして公の礼拝なのです。