FC2ブログ

「天の国を迎える者」マタイによる福音書25章1-13節

2021年10月17日
担任教師 武石晃正

 「秋の日は釣瓶落とし」と申しますが、10月も半ばを迎えますと夕方の薄明かりから辺りはあっという間に夜空が覆います。梨や柿などの果樹が次第に葉を落としてゆく様を眺めては、実りの秋の深まりを覚えます。
 「収穫の秋」に刈り取られたものは、晩秋の冷たい空気の中で整えられ蓄えられます。冬を越し春を迎えるための備えが済むと、いよいよ一年の終わりに冬を迎えます。聖書の中でも「刈り入れの時」とは収穫の恵みを集めるよろこびの時であるとともに、イエス様は「世の終わり」のたとえに用いられました(マタイ13章)。

 田畑の実りは神様からの恵み、その収穫は主への感謝の供え物となります。私たちもまた恵みによって人生を実らせていただきます。そして「終わりの時」に主をお迎えできるよう、いつも用意を整えていたいものです。
 今週は今年最後の聖霊降臨節の主日として、教会が「主の再び来たりたもうを待ち望む」ための用意を福音書から考えて参りましょう。
 
PDF版はこちら


1.花婿を待つ婚宴のたとえ
 イエス様がエルサレムに到着されてから十字架に架かられるまではたったの1週間でした。メシアとして地上でなすべき最後の務め、その時が刻一刻と迫っていることをイエス様は知っておられます。後に復活するとのご計画ではありますが、神の独り子であっても死の恐怖を痛切に味わわれた1週間であることを覚えます。
 その傍らで弟子たちは、ロバの子に乗ったダビデの子メシアと共にいることで浮かれ調子、イスラエルの建国記念日ともいえる過越祭の中日にもイエス様が王の座に就くかのように思っていたようです。イエス様はご自身が世を去った後に弟子たちが迎える世の終わりについて、「思いがけない時に来る」(14:44)との警告とともに、その日のために用意することを何度も命じられました。

 終わりの日、「人の子」と呼ばれるメシアが再び世に来られる時について「天の国」が当時のユダヤ式の婚宴にたとえられています。この婚宴は両家が婚約を結んでから1年後に行われ、契約上は既に夫婦となっている二人がいよいよ共に生活を始めようという祝いとお披露目の期間です。ユダヤの人たちは血筋を重んじ、遠方や遠縁の親戚も祝うためにやって参ります。それゆえ婚宴はときに7日間も続けられたそうです。
 福音書は「思いがけない時に来る」もののたとえとして婚宴を用いておりますので、掟やしきたりなどの詳細は割愛されています。また当時の常識的なことであれば、わざわざ説明しなくても、花婿が婚宴に突然やってくることは誰もが知っていたことでしょう。とにかく宴の席が開かれている間に、花婿が友人らに囲まれて突如やってくるのです。

 キリスト教式の結婚式におきましても、新郎新婦それぞれの親友がベストマンやブライズメイドとして二人を補助し、式や宴に花を添えます。ここでは天の国のたとえですから、庶民の家ではなく名の通った一族の盛大な婚宴が念頭に置かれています。ユダヤの名家では友人たちが何人も招かれ、花婿花嫁を大いに祝福し盛り立てたことでしょう。
 十人のおとめ(1)が出迎える花婿は、同じく十人の青年らに囲まれてやってきます。長い婚宴のクライマックスは突如やってきて、祝いの宴を大いに湧かせます。驚かすために青年たちは大声で「花婿が来たぞ」と呼ばわるそうです(6)。過越祭のような満月であれば、深夜であっても地面に影が落ちるの明るさです。若者たちはつい夜を更かしてしまったのか、花婿の到着が真夜中まで遅れてしまったということです(5)。

 おとめたちは10人とも眠り込んでしまっていました。ただ油の入った壺を持っていた5人だけが突然やってきた花婿たちを出迎えることができたのです。しかし愚かと呼ばれた5人のおとめたつも、花婿が夜中にやってくると知っていたら眠り込むことはなかったでしょう。また眠っていたことを咎められたということでもありませんが、イエス様は弟子たちに「だから、目を覚ましていなさい」(13)と励まされました。

2.「その時を知らないのだから」
 この教えはあくまでもたとえですから、「天の国は花婿が来るのを迎える婚宴の席のようである」という結論以外は枝葉ということになるでしょう。花婿は「人の子」と呼ばれるメシアであり、それを迎えるためにあらかじめ招かれている者たちがいるのです。

 10人のおとめたちは花婿を迎える役目のために招かれましたが、「その日、その時」はおとめたちばかりでなく婚宴の席にいる者たちにも隠されています。花婿が到着したときに用意ができている者だけが一緒に婚宴に、すなわち天の国に入ります。花婿である「人の子」の到着によって婚宴の席の戸は閉められ、その後はたとえ招かれていた者であっても「わたしはお前たちを知らない」と門前払いにされるというのです。
 「壺に油を入れて持っていた」(4)ことが花婿を迎えるための用意であると示されます。持っていた者と持っていない者がいたことから、壺と油は祝宴から与えられたものではなく自前で用意したものだと暗示されます。そして油は「自分の分を買って来なさい」(9)と言われて買いに行くことができるものであるとの含みがあります。

 たとえをたとえで解釈すると読み間違えるので避けるべきですが、この油が何を意味するのかを一考することは価値のあることです。もし聖霊であるとすればそれは「父子聖霊なる三位一体の神」ご自身ですから、私たちが自分で買ってくるものではなく恵みとして与えられるものです。この方は消えたりなくなったりするような方ではなく、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:6)と約束されています。
 イエス様の教えを注意深く読み返すと、「“霊”の火を消してはいけません」(Iテサロニケ5:19)とか「霊に満たされ」なさい(エフェソ5:18)などとは仰らず、「目を覚ましていなさい」と命じておられます。愚かなおとめたち(3)と呼ばれる者でも、目を覚ましていたら夜が更ける前に油を買い足すことができたのです。

 あるいは信仰や救いの確信でしょうか。もし全くの不信仰者や「律法学者やファリサイ派の人々」のような者を区別するのであれば、マタイは「天の国」ではなく「神の国」と用います。またユダヤの婚宴にたとえられていますので、花婿を迎えるというもっとも大切な場面に罪人や異邦人が充てるということは考えられないことです。
 天の国と私たちとの関係として考えてみましょう。婚宴の家はおとめたちを招き(call)、おとめたちはそれに応えて(response)集められました。神の招きと人の応答、この関係によって天の国と私たちが常に結ばれています。ですからおとめたちは地上において神の民と呼ばれる者、教会を示します。そして神の民にも必ず終わりの時が来るのです。

 「戸が閉められた」と言われています。24章から綴られているように「人の子」すなわち自分の主が帰って来られる時、13章では「世の終わり」「刈り入れの時」とも呼ばれています。この時が来たら後戻りややり直しはできないことが強調されています。
 「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(13)と言われているように、世の終わりばかりでなく、私たち一人一人の地上生涯もまた然りです。

<結び> 天の国を迎える者
 「十人のおとめ」のたとえとされているこの教えは14章から引き続き「人の子」が必ず来ることと、「その日、その時は、だれも知らない」(24:36)という前提に立っています。「人の子は思いがけない時に来る」(24:44)と、キリストは緊張感と用意とを命じています。
 おとめたちが婚宴に招かれたのは花婿を出迎え、婚宴の席に入る時までともし火を灯し続けておくことです。そしてともし火も油も、婚宴の席に入ってしまえば用を果たして脇に置かれることでしょう。

 黙示録には小羊として描かれているキリストすなわち「人の子」を迎える人々の姿が示されています(黙示録7:9-17)。数えきれないほどの大群衆があらゆる民の中から集められ、白い衣を身に着けて玉座の前と小羊の前に立って神を礼拝します。「この白い衣を着た者たちは(中略) 大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(同13-14)と言われており、主にお会いする用意は苦難を通して整えられると示されます。
 教会が主から地上に委ねられて2000年を数えます。その間ずっと教会は外からの迫害と内からの困難を受け続けてきました。ともし火が消えそうな時代が何度も何度もありましたが、花婿すなわち「主の再び来たりたもうを待ち望み」つつ絶えることなく乗り越えてきたのです。

 私たち一人一人もまた大小さまざまな苦難に遭いますが、婚宴の席の戸が閉められる世の終わり、生涯の終わりまでともし火を灯していられるでしょうか。誰も自分がいつ死ぬのか分かりませんが、その時に主イエス・キリストにお会いできる用意があれば、眠り込んでいたとしても安心です。教会も私たち一人一人も、天の国を迎える者です。

コンテンツ

お知らせ