「天地創造からの掟」マルコによる福音書10章1-12節
2021年10月24日
担任教師 武石晃正
教会暦は聖霊降臨節から降誕前の週に替わりました。教団教派によって区切り方や呼び方に違いがありますが、日本基督教団では1年を大きく3つに分ける三区分方式の教会暦を用いています。降誕前から大きな区分での降誕節が始まりますので、アドヴェント(待降節)から始まる暦よりも数週間早く新しい1年間に入ります。
アドヴェントを含めた降誕前の期間はクリスマス(降誕節)への備えです。イエス様の降誕は新約聖書に書かれていますが、救い主が与えられるという希望は旧約聖書の中で約束されています。今年はクリスマス前までの週を、マルコによる福音書を通して旧約との関係から私たちの救い主について思いめぐらせましょう。
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担任教師 武石晃正
教会暦は聖霊降臨節から降誕前の週に替わりました。教団教派によって区切り方や呼び方に違いがありますが、日本基督教団では1年を大きく3つに分ける三区分方式の教会暦を用いています。降誕前から大きな区分での降誕節が始まりますので、アドヴェント(待降節)から始まる暦よりも数週間早く新しい1年間に入ります。
アドヴェントを含めた降誕前の期間はクリスマス(降誕節)への備えです。イエス様の降誕は新約聖書に書かれていますが、救い主が与えられるという希望は旧約聖書の中で約束されています。今年はクリスマス前までの週を、マルコによる福音書を通して旧約との関係から私たちの救い主について思いめぐらせましょう。
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1.なぜ救いが必要になったのか(創世記2:4-9)
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)と2000年ほど昔のユダヤの野辺に天使たちが現れて、野宿をしていた羊飼いたちに救い主の誕生を告げ知らせました。救い主がお生まれになったことは大変ありがたいことですが、なぜ私たちには救い主あるいは救いが必要なのでしょうか。
それはまず人間とは何者であるのかということにかかってくる問いです。イエス様が「天地創造の初めから」とおっしゃるところから、創世記を開いてみましょう。創世記2章には神様が人間をお創りになった経緯が記されています(創世記2:4-9)。
神様は「土を耕す人」(5)すなわち地を従わせ生き物を支配する者(1:28)として、人間を創られました。樹木や草花を創る前から定めておられ、人を土の塵で形づくりました。神様がおられる天に対して「地」に属していますから、創られたすべてを支配する者ではあったとしも神ではないのだと歴然とした区別がなされています。
それでも神様はお創りになられたすべての中でも特別な場所としてエデンの園を設け、人間がなに不自由しないようにと「見るからに好ましく、食べるによいものをもたらすあらゆる木」を生やしてくださいました(9)。耕す人と呼ばれていますが、耕す前から神様がとても良いものを備えてくださるほど、愛と祝福で満たされています。
「園の中央には、命の木と善悪の知識の木」が生えていました。命の木は文字通りその実を食べると永遠に生きるようになるものですが(3:22)、他方の善悪の知識の木については厳しい命令がありました。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ずしんでしまう」(17)というのです。ところが最初の人アダムが妻エバとともに善悪の知識の木から取って食べたために、この世界は呪われてしまい、罪と死の支配に置かれました。
聖書の学びをしていると次のような質問が挙がります。「どうして神様は食べてはならないものを人間の手が届くところに生やしたのでしょう。意地悪ではないでしょうか」と。神様がそのような木を生やしさえしなければ人間は罪を犯さずに済んだのではないか、ということです。おっしゃりたい気持ちはもっともなことです。
実はこの感覚が既に私たちが罪にどっぷりと犯されている証拠だと言えましょう。そもそも神様は創造者であり所有者でですから、どこに何を植えようと神様の自由です。他人の、しかも創造者である神様がなすことをとやかく言うことがそもそもの誤りです。
手が届いたののだから食べてしまったのは仕方がないことだ、と言ってよいものでしょうか。これは他人の物に勝手に手を伸ばしてよいという考えであり、盗みです。人間同士でも許されないことを、創造主に対してまかり通そうというのですから随分と大胆な居直りです。創造者への反逆であるにも関わらず、私たち人間には「このぐらいいいじゃないか」と些細なこととして扱おうとする性質があります。これが罪の本質なのです。
美味しそうな実が木になっていたら食べたい気持ちになりますし、誰かにそそのかされてつい手を伸ばしてしまったということはあるでしょうか。あなた以外の誰かが手を伸ばしたとして、「その気持ちわかるわ」と肯定や同情の思いが生じるものです。肯定や同情の感情は世の中一般では善意のうちに含まれるでしょう。つまりその「善意」という性質の中にも罪が入り込んでいるのだと聖書は真実を突き付けます。
この罪の性質を何とか清めようと掟を増やしていったのが、律法学者やファリサイ派の人々と呼ばれるユダヤの一派です。善意にさえ罪が含まれているのに、人間が掟を増やしたのでは罪に罪を上塗りするようなものです。
生まれながらに罪の中にあるので、私たちは罪と死の影響を骨の髄まで受けています。「必ず死ぬ」と言われたことが現実になったので、すべての人は死ぬのです。死が入ったので、死に至るあらゆる災いが私たちの内からも外からも生じるのです。善意さえも罪で汚染されているので人間の手段ではきよめることができず、ただ創造主である唯一の神様だけが聖でありきよめ主なのです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)
2.天地創造の初めから(マルコ10:1-12)
「ユダヤとヨルダン川の向こう側」(1)とはそれまでイエス様が活動されていたガリラヤ地方から見た呼び方です。いよいよ首都エルサレムに近く歩みを向けられたところです。行く手にはイエス様を歓迎する群衆ばかりではなく、ユダヤの掟の権威であるファリサイ派の人々が立ちはだかります。ファリサイ派の人々は「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(2)と不思議な質問をイエス様に投げかけました。
当時のユダヤで律法と呼ばれるものは十戒を含む旧約聖書で命じられている掟のほか、伝統的な戒律も含まれていました。体系化された種々の掟の根っこにあるものは、何といっても神の人モーセを通して主なる神様が与えた命令です。モーセこそ絶対的な権威であり、その掟は大原則なのです。
離縁についてイエス様はガリラヤで宣教を始められた当初から罪を犯すことになるのだと説かれました(マタイ5:31-32)。マタイが記している山上の説教はイエス様の説教集のですから、イエス様は行く先々でこれらの教えを説かれたということです。モーセが許しているのに、一介の教師にすぎないナザレのイエスが離縁を禁じたことになります。
律法における最大の権威であるモーセに逆うならば、他のどんな掟によっても言い逃れはできないファリサイ派の人たちは踏んだのです。逆にもしイエスが自身の教えを取り下げるならば、たった今ここで取り囲んでいる群衆たちは「なんだこれまでの教えはウソだったのか」と幻滅することでしょう。それこそファリサイ派の人たちの願うところ。目の仇であったガリラヤの一集団を解散させることができれば、完全勝利も目の前です。
しかしイエス様は奥の手を見せました。律法におけるいわば屁理屈に対し、モーセの律法以前である天地創造の摂理を切り出したのです(6)。このことはファリサイ派の人たちにとって、詰将棋で詰めの一手を差したところで盤ごとひっくり返されたようなものです。これまでの緻密な戦略がすべて根底から覆されてしまいました。
「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(5)と言われているように、モーセの律法は人間が頑なに罪を犯し続けていることを気づくようにと与えられたものです。律法では誰かが罪を犯したとき、その代価としての動物が屠られます。流された血と焼かれる煙を見た隣人もまた、自らも生まれ罪の性質をもって生きているのだと知るのです。
罪を犯した隣人とともに、自分も同じく罪のために神に憐れみと救いを求めるようにと導くのが本来の掟の役割でした。この箇所では離縁についての議論ですが、「天地創造の初めから」と仰っていることから一事が万事に通じるのです。
さて「家に戻ってから」(10)、すなわちイエス様と弟子たちだけになってから、改めてイエス様は弟子たちに教えられました。福音書が記された時代の教会において、特に注意を払われるべき問題や課題が扱われていることです(コリント一7章など)。
教会が異邦人世界へと広がると、婚姻外での男女の仲を許容しているローマ世界の文化で育った人たちも増えていきます。付き合ったの別れたのという男女の仲が教会から否まれると、「それじゃ、結婚すればいいんでしょ」と手続きだけのように結婚した者たちがあったのでしょう。別れ話とともに離婚し、次の相手を見つけるというわけです。
確かに籍を入れれれば姦通の罪には当たりませんし、律法の定めに則ったのなら離縁してもお咎めなしとの考えです。しかし体裁は繕うことができたとしても、実際の関係は姦通そのものではないかとイエス様は罪の本質を明らかにされました。
聖書のことば一つを取っても、その部分だけ抜き出して杓子定規に用いるのか、天地創造の初めからのみこころを求めているかので、人を殺すも生かすもできるのです。互いの権利を損ねあうために神様は人間を創ったわけではないということです。
<結び> 天地創造からの掟
人がエデンの園にいた頃はまだ罪を犯す前ですから、律法もなく、ただ神様の御心だけが天地創造からの掟でした。初めの人アダムにおいて罪を犯したので、人間は生まれながらには神を愛することも御心を行うこともできなくなってしまいました。
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」との命令は単に婚姻関係の問題にとどまらず、モーセの律法でさえも曲げてしまうほどに根深い私たち人間の罪深さを指摘します。離縁に限らず神様の御心に適わないあらゆるものが、罪の結果として生じたからです。
律法さえも曲げてしまい立ち帰る道をも見失った私たちを探して救うために、独り子である神が世に来てくださいました。この方こそイエス・キリスト、神の子、救い主です。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)と2000年ほど昔のユダヤの野辺に天使たちが現れて、野宿をしていた羊飼いたちに救い主の誕生を告げ知らせました。救い主がお生まれになったことは大変ありがたいことですが、なぜ私たちには救い主あるいは救いが必要なのでしょうか。
それはまず人間とは何者であるのかということにかかってくる問いです。イエス様が「天地創造の初めから」とおっしゃるところから、創世記を開いてみましょう。創世記2章には神様が人間をお創りになった経緯が記されています(創世記2:4-9)。
神様は「土を耕す人」(5)すなわち地を従わせ生き物を支配する者(1:28)として、人間を創られました。樹木や草花を創る前から定めておられ、人を土の塵で形づくりました。神様がおられる天に対して「地」に属していますから、創られたすべてを支配する者ではあったとしも神ではないのだと歴然とした区別がなされています。
それでも神様はお創りになられたすべての中でも特別な場所としてエデンの園を設け、人間がなに不自由しないようにと「見るからに好ましく、食べるによいものをもたらすあらゆる木」を生やしてくださいました(9)。耕す人と呼ばれていますが、耕す前から神様がとても良いものを備えてくださるほど、愛と祝福で満たされています。
「園の中央には、命の木と善悪の知識の木」が生えていました。命の木は文字通りその実を食べると永遠に生きるようになるものですが(3:22)、他方の善悪の知識の木については厳しい命令がありました。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ずしんでしまう」(17)というのです。ところが最初の人アダムが妻エバとともに善悪の知識の木から取って食べたために、この世界は呪われてしまい、罪と死の支配に置かれました。
聖書の学びをしていると次のような質問が挙がります。「どうして神様は食べてはならないものを人間の手が届くところに生やしたのでしょう。意地悪ではないでしょうか」と。神様がそのような木を生やしさえしなければ人間は罪を犯さずに済んだのではないか、ということです。おっしゃりたい気持ちはもっともなことです。
実はこの感覚が既に私たちが罪にどっぷりと犯されている証拠だと言えましょう。そもそも神様は創造者であり所有者でですから、どこに何を植えようと神様の自由です。他人の、しかも創造者である神様がなすことをとやかく言うことがそもそもの誤りです。
手が届いたののだから食べてしまったのは仕方がないことだ、と言ってよいものでしょうか。これは他人の物に勝手に手を伸ばしてよいという考えであり、盗みです。人間同士でも許されないことを、創造主に対してまかり通そうというのですから随分と大胆な居直りです。創造者への反逆であるにも関わらず、私たち人間には「このぐらいいいじゃないか」と些細なこととして扱おうとする性質があります。これが罪の本質なのです。
美味しそうな実が木になっていたら食べたい気持ちになりますし、誰かにそそのかされてつい手を伸ばしてしまったということはあるでしょうか。あなた以外の誰かが手を伸ばしたとして、「その気持ちわかるわ」と肯定や同情の思いが生じるものです。肯定や同情の感情は世の中一般では善意のうちに含まれるでしょう。つまりその「善意」という性質の中にも罪が入り込んでいるのだと聖書は真実を突き付けます。
この罪の性質を何とか清めようと掟を増やしていったのが、律法学者やファリサイ派の人々と呼ばれるユダヤの一派です。善意にさえ罪が含まれているのに、人間が掟を増やしたのでは罪に罪を上塗りするようなものです。
生まれながらに罪の中にあるので、私たちは罪と死の影響を骨の髄まで受けています。「必ず死ぬ」と言われたことが現実になったので、すべての人は死ぬのです。死が入ったので、死に至るあらゆる災いが私たちの内からも外からも生じるのです。善意さえも罪で汚染されているので人間の手段ではきよめることができず、ただ創造主である唯一の神様だけが聖でありきよめ主なのです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)
2.天地創造の初めから(マルコ10:1-12)
「ユダヤとヨルダン川の向こう側」(1)とはそれまでイエス様が活動されていたガリラヤ地方から見た呼び方です。いよいよ首都エルサレムに近く歩みを向けられたところです。行く手にはイエス様を歓迎する群衆ばかりではなく、ユダヤの掟の権威であるファリサイ派の人々が立ちはだかります。ファリサイ派の人々は「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(2)と不思議な質問をイエス様に投げかけました。
当時のユダヤで律法と呼ばれるものは十戒を含む旧約聖書で命じられている掟のほか、伝統的な戒律も含まれていました。体系化された種々の掟の根っこにあるものは、何といっても神の人モーセを通して主なる神様が与えた命令です。モーセこそ絶対的な権威であり、その掟は大原則なのです。
離縁についてイエス様はガリラヤで宣教を始められた当初から罪を犯すことになるのだと説かれました(マタイ5:31-32)。マタイが記している山上の説教はイエス様の説教集のですから、イエス様は行く先々でこれらの教えを説かれたということです。モーセが許しているのに、一介の教師にすぎないナザレのイエスが離縁を禁じたことになります。
律法における最大の権威であるモーセに逆うならば、他のどんな掟によっても言い逃れはできないファリサイ派の人たちは踏んだのです。逆にもしイエスが自身の教えを取り下げるならば、たった今ここで取り囲んでいる群衆たちは「なんだこれまでの教えはウソだったのか」と幻滅することでしょう。それこそファリサイ派の人たちの願うところ。目の仇であったガリラヤの一集団を解散させることができれば、完全勝利も目の前です。
しかしイエス様は奥の手を見せました。律法におけるいわば屁理屈に対し、モーセの律法以前である天地創造の摂理を切り出したのです(6)。このことはファリサイ派の人たちにとって、詰将棋で詰めの一手を差したところで盤ごとひっくり返されたようなものです。これまでの緻密な戦略がすべて根底から覆されてしまいました。
「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(5)と言われているように、モーセの律法は人間が頑なに罪を犯し続けていることを気づくようにと与えられたものです。律法では誰かが罪を犯したとき、その代価としての動物が屠られます。流された血と焼かれる煙を見た隣人もまた、自らも生まれ罪の性質をもって生きているのだと知るのです。
罪を犯した隣人とともに、自分も同じく罪のために神に憐れみと救いを求めるようにと導くのが本来の掟の役割でした。この箇所では離縁についての議論ですが、「天地創造の初めから」と仰っていることから一事が万事に通じるのです。
さて「家に戻ってから」(10)、すなわちイエス様と弟子たちだけになってから、改めてイエス様は弟子たちに教えられました。福音書が記された時代の教会において、特に注意を払われるべき問題や課題が扱われていることです(コリント一7章など)。
教会が異邦人世界へと広がると、婚姻外での男女の仲を許容しているローマ世界の文化で育った人たちも増えていきます。付き合ったの別れたのという男女の仲が教会から否まれると、「それじゃ、結婚すればいいんでしょ」と手続きだけのように結婚した者たちがあったのでしょう。別れ話とともに離婚し、次の相手を見つけるというわけです。
確かに籍を入れれれば姦通の罪には当たりませんし、律法の定めに則ったのなら離縁してもお咎めなしとの考えです。しかし体裁は繕うことができたとしても、実際の関係は姦通そのものではないかとイエス様は罪の本質を明らかにされました。
聖書のことば一つを取っても、その部分だけ抜き出して杓子定規に用いるのか、天地創造の初めからのみこころを求めているかので、人を殺すも生かすもできるのです。互いの権利を損ねあうために神様は人間を創ったわけではないということです。
<結び> 天地創造からの掟
人がエデンの園にいた頃はまだ罪を犯す前ですから、律法もなく、ただ神様の御心だけが天地創造からの掟でした。初めの人アダムにおいて罪を犯したので、人間は生まれながらには神を愛することも御心を行うこともできなくなってしまいました。
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」との命令は単に婚姻関係の問題にとどまらず、モーセの律法でさえも曲げてしまうほどに根深い私たち人間の罪深さを指摘します。離縁に限らず神様の御心に適わないあらゆるものが、罪の結果として生じたからです。
律法さえも曲げてしまい立ち帰る道をも見失った私たちを探して救うために、独り子である神が世に来てくださいました。この方こそイエス・キリスト、神の子、救い主です。