「神から生まれた人」マルコによる福音書7章14-23節
2021年10月31日
担任教師 武石晃正
本日(10/31)は宗教改革記念日です。1517年10月31日、ドイツにおいてマルティン・ルターが当時のローマ教会内の改革を望み95か条の提題をヴィッテンヴェルク城教会の扉に掲げました。この出来事を宗教改革の始まりとして、プロテスタント教会では10月31日を宗教改革記念日としています。
ルターが聖書をドイツ語に翻訳したことを端に、母国語で聖書を読むことができるようになりました。秘跡と呼ばれる儀式ではなく、信仰によって義と認められる信仰義認の教理はプロテスタント教会の要です。「聖書のみ」「信仰のみ」という教えはプロテスタントの伝統であり、聖書に基づく信仰告白(使徒信条など)と、信仰告白に照らされた聖書解釈という二つの車輪です。この両輪によって教会は道を外れることなく進むのです。
日本基督教団もまた使徒信条を含めた日本基督教団信仰告白を奉じています。旧新約聖書を教会の拠るべき唯一の正典とし、福音を正しく宣べ伝えます。秘跡と呼ばれる儀式を排し、ルター以来の伝統としてバプテスマと主の晩餐のみを聖礼典としています。
公の礼拝は説教と聖礼典によって成りますので、洗礼盤と聖餐台が備えられた礼拝堂で説教がなされます。主キリストの体である教会に集い、信仰告白(使徒信条)によって互いの信仰が確かなものとされます。本日もこの会堂がプロテスタントの伝統に立つ公の礼拝として開かれています。
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担任教師 武石晃正
本日(10/31)は宗教改革記念日です。1517年10月31日、ドイツにおいてマルティン・ルターが当時のローマ教会内の改革を望み95か条の提題をヴィッテンヴェルク城教会の扉に掲げました。この出来事を宗教改革の始まりとして、プロテスタント教会では10月31日を宗教改革記念日としています。
ルターが聖書をドイツ語に翻訳したことを端に、母国語で聖書を読むことができるようになりました。秘跡と呼ばれる儀式ではなく、信仰によって義と認められる信仰義認の教理はプロテスタント教会の要です。「聖書のみ」「信仰のみ」という教えはプロテスタントの伝統であり、聖書に基づく信仰告白(使徒信条など)と、信仰告白に照らされた聖書解釈という二つの車輪です。この両輪によって教会は道を外れることなく進むのです。
日本基督教団もまた使徒信条を含めた日本基督教団信仰告白を奉じています。旧新約聖書を教会の拠るべき唯一の正典とし、福音を正しく宣べ伝えます。秘跡と呼ばれる儀式を排し、ルター以来の伝統としてバプテスマと主の晩餐のみを聖礼典としています。
公の礼拝は説教と聖礼典によって成りますので、洗礼盤と聖餐台が備えられた礼拝堂で説教がなされます。主キリストの体である教会に集い、信仰告白(使徒信条)によって互いの信仰が確かなものとされます。本日もこの会堂がプロテスタントの伝統に立つ公の礼拝として開かれています。
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1.神から生まれた人とは(ヨハネの手紙一3:8-10)
今週は降誕前第8主日ですので、主イエス様のご降誕のことも覚えつつ聖書を読んでおりました。ルカによる福音書には系図が遡って記されており、「イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、(中略)エノシュ、セト、アダム。そして神に至る」(ルカ3:23,38)とあります。
この「神に至る」という部分を直訳で調べてみますと「神のものである」あるいは「神の子である」という意味があります。創造主である神様みずからが土の塵で形づくり、命の息を吹き入れて最初の人を創られました。それは天地創造の第6日のことですから、人間の創造をもって天地万物は完成され「見よ、それは極めて良かった」と言われたのです。
極めて良かった、お気に入りの最たる者として神様は人間を特別に愛しておられたことをルカの系図は示しています。「これはわたしの愛する子」と呼ばれた独り子なる神イエスが、系図によって「神のものアダム」と結ばれているからです。神様は「アダムから愛する子イエスに至るまですべて私のものだ」と言われているようです。
このように人間は当初は文字通り「神から生まれた人」であり、そう呼ばれるに相応しいものとして創られました。けれど最初の人アダムにおいて罪を犯し、その子孫と被造物すべてが罪の下に置かれてしまいました。従って生まれたままの人間は、「神から生まれた人だったのにね」と付けなければならないほどに見る影もない者となっています。
ところが神様は罪を犯し悪魔に属した人間を惜しまれ、その慈しみのゆえに何度も何度も救いの計画を人類にお示しになりました。聖書の中で巻頭の創世記からずっと続いています。イエス様が世に来られたのは今から2000年ほど前のことですが、そのまた2000年前にアブラハムを通して救いの約束が示されました。更に遡ること箱舟を創ったノアに、大洪水の後で主がお告げになられた約束について記されています。
救いのご計画を明らかにするために神様はアブラハムの子孫を選ばれ、イスラエルと呼びました。古代エジプトの時代に主はモーセを呼び出し、イスラエルへ選民としての契約と掟である律法をお与えになりました。エジプトから救い出されたイスラエルは不信仰のゆえに荒れ野を40年もさまよい、約束の地に入ってからもそれぞれ自分の目に正しいとすることを行い続けました(士師21:25)。
ダビデによって王国が樹立された後も、また南北に国が分裂してからも、イスラエルは契約に背き律法に対して罪を重ねました。幾度となく遣わされた預言者たちが悔い改めを叫びましたが、聞き入れなかった北王国はアッシリア帝国に滅ぼされてしまいました。それから遅れて南王国にも同様にバビロン捕囚と都の荒廃という裁きが下りました。
捕囚となって初めて背きの罪に気づき、主の契約と律法に立ち帰ろうという動きがイスラエルの中に起こります。都と神殿を失っても7日目の安息日だけは主の祭日として守ることができました。彼らの神の名は「みだりに唱えてはならない」と口に出すことを禁じられていましたが、その祝祭日から「安息日の主」とも呼ばれるようになりました。
バビロンから解放されエルサレムの神殿と都を復興してからも、イスラエルの人たちは安息日を重んじます。ギリシアやローマという異教徒の帝国の支配下に置かれると、偶像や汚れから身を清く保つために熱心さを増す人たちも現れました。律法をより正しく実行するための細則を定め、その掟を自らにも人にも守らせるようになりました。こうして福音書の中で律法学者やファリサイ派の人々と呼ばれるユダヤの一派が生まれました。
この人々は儀式や言い伝えに忠実で、きよめのきまりを守っていました。しかし彼らはイエス様から「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(10:5)と言われてしまうほど、律法の掟を読み違えていたのです。
ヨハネの手紙一に次のように書かれています。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです」(3:9)。残念ながら人から生まれたままの人はアダムからの罪を負っているので、いくら儀式や言い伝えを守っても自分自身をきよめることはできず、ただ罪を犯すばかりです。
自分たちが定めた規則や儀式にこだわるあまり、自分の兄弟を愛さない者(1ヨハネ3:10)となってしまうこともあり得るということです。それは立派な行いに見えても「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(マルコ7:8)ことであり、神様の目には「正しい生活をしない者」と映るのです。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル上16:7)との御言葉のとおりです。「この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです」(1ヨハネ3:9,10)。
2.何が人を汚すのか(マルコ7:14-23)
朗読いたしました福音書の箇所は、イエス様がファリサイ派の人々と律法学者たちと議論をした後での教えです。きよめと供え物、すなわち信仰生活の中心にあったはずのものについて「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」(13)とイエス様は退けます。「また、これと同じようなことをたくさん行っている」(13)と一事が万事であるのです。
ファリサイ派の人々は手や器などを念入りに洗うことで自らをきよいと考えていました。ところがイエス様は「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と群衆に教えます。更に同じ教えを弟子たちだけに重ねて説かれたとの記述から、使徒たちから始まった教会がどの時代においても気を付けなければならない誤解や誤信であると分かります。
ここでイエス様が言われている汚れとは、罪を犯していることや罪の状態にあることを指しています。では私たちは誤った行いによって罪に定められるのでしょうか、あるいは私たちが罪人であるから神様の前に過ちを犯すことになるのでしょうか。
「外から人の体に入るものは、人を汚すことはできない」と言われています。もし行いによって罪が入るのであれば、人の努力や行いによって罪を償うことができるでしょう。そもそも罪の性質を持っていなければ、すなわち「神から生まれた人」であったなら、罪を犯すことはできないと書かれています。
罪を犯した行為を見て、私たちは自他の内に潜む罪の存在に気づくことができます。罪に気がつくことができれば、悔い改めの機会も得られます。ところが目に映る行いを責められてしまうと、その人は悔い改める心まで摘まれてしまうでしょう。
「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」(21)と言われているとおりです。人間は最初の人アダムのときから罪を犯し、罪に定められているので、良心さえも罪の支配を受けています。ですから自分で自分を清めることはできず、ただ御子にこの望みをかけている人だけが清めていただくことができるのです。
行いによって清められることはありませんが、犯した罪によって心の中の悪や生まれ持った罪に気づくことはできます。信仰と生活との誤りなき規範である聖書のことばに示され、キリストの救いの恵みを受けるのです。救いの恵みにあずかるものに与えられた聖霊が、私たちを内側から清め、救いのみわざを成してくださいます。
<結び>
儀式や行いによっては罪を清めることはできませんが、聖霊による新生の恵み、聖化の恵みを受けることで私たちは内側から清められることができます。この救いについての知識は聖書によって示され、信仰告白を通して私たちはキリストを信じる信仰へと結び付けられています。
初めは「見よ、それは非常に良かった」と言われたはずなのに、「神から生まれた人」と呼ばれたはずなのに、罪が入ったために「はずなのにね」と言われても仕方のない者となりました。しかし罪の中に生まれ、罪から抜け出すことができない私たちを救うために、御子は罪を除くために世にお生まれになりました。
この方の十字架の死と三日目の復活とを自分の唯一の救いであると信じる者は、神の霊によって生まれ、新生の恵みにあずかります。再び「神から生まれた人」とされるのです。「この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」と証しされるところを目指して、きよめの恵みを求め続けましょう。
今週は降誕前第8主日ですので、主イエス様のご降誕のことも覚えつつ聖書を読んでおりました。ルカによる福音書には系図が遡って記されており、「イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、(中略)エノシュ、セト、アダム。そして神に至る」(ルカ3:23,38)とあります。
この「神に至る」という部分を直訳で調べてみますと「神のものである」あるいは「神の子である」という意味があります。創造主である神様みずからが土の塵で形づくり、命の息を吹き入れて最初の人を創られました。それは天地創造の第6日のことですから、人間の創造をもって天地万物は完成され「見よ、それは極めて良かった」と言われたのです。
極めて良かった、お気に入りの最たる者として神様は人間を特別に愛しておられたことをルカの系図は示しています。「これはわたしの愛する子」と呼ばれた独り子なる神イエスが、系図によって「神のものアダム」と結ばれているからです。神様は「アダムから愛する子イエスに至るまですべて私のものだ」と言われているようです。
このように人間は当初は文字通り「神から生まれた人」であり、そう呼ばれるに相応しいものとして創られました。けれど最初の人アダムにおいて罪を犯し、その子孫と被造物すべてが罪の下に置かれてしまいました。従って生まれたままの人間は、「神から生まれた人だったのにね」と付けなければならないほどに見る影もない者となっています。
ところが神様は罪を犯し悪魔に属した人間を惜しまれ、その慈しみのゆえに何度も何度も救いの計画を人類にお示しになりました。聖書の中で巻頭の創世記からずっと続いています。イエス様が世に来られたのは今から2000年ほど前のことですが、そのまた2000年前にアブラハムを通して救いの約束が示されました。更に遡ること箱舟を創ったノアに、大洪水の後で主がお告げになられた約束について記されています。
救いのご計画を明らかにするために神様はアブラハムの子孫を選ばれ、イスラエルと呼びました。古代エジプトの時代に主はモーセを呼び出し、イスラエルへ選民としての契約と掟である律法をお与えになりました。エジプトから救い出されたイスラエルは不信仰のゆえに荒れ野を40年もさまよい、約束の地に入ってからもそれぞれ自分の目に正しいとすることを行い続けました(士師21:25)。
ダビデによって王国が樹立された後も、また南北に国が分裂してからも、イスラエルは契約に背き律法に対して罪を重ねました。幾度となく遣わされた預言者たちが悔い改めを叫びましたが、聞き入れなかった北王国はアッシリア帝国に滅ぼされてしまいました。それから遅れて南王国にも同様にバビロン捕囚と都の荒廃という裁きが下りました。
捕囚となって初めて背きの罪に気づき、主の契約と律法に立ち帰ろうという動きがイスラエルの中に起こります。都と神殿を失っても7日目の安息日だけは主の祭日として守ることができました。彼らの神の名は「みだりに唱えてはならない」と口に出すことを禁じられていましたが、その祝祭日から「安息日の主」とも呼ばれるようになりました。
バビロンから解放されエルサレムの神殿と都を復興してからも、イスラエルの人たちは安息日を重んじます。ギリシアやローマという異教徒の帝国の支配下に置かれると、偶像や汚れから身を清く保つために熱心さを増す人たちも現れました。律法をより正しく実行するための細則を定め、その掟を自らにも人にも守らせるようになりました。こうして福音書の中で律法学者やファリサイ派の人々と呼ばれるユダヤの一派が生まれました。
この人々は儀式や言い伝えに忠実で、きよめのきまりを守っていました。しかし彼らはイエス様から「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(10:5)と言われてしまうほど、律法の掟を読み違えていたのです。
ヨハネの手紙一に次のように書かれています。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです」(3:9)。残念ながら人から生まれたままの人はアダムからの罪を負っているので、いくら儀式や言い伝えを守っても自分自身をきよめることはできず、ただ罪を犯すばかりです。
自分たちが定めた規則や儀式にこだわるあまり、自分の兄弟を愛さない者(1ヨハネ3:10)となってしまうこともあり得るということです。それは立派な行いに見えても「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(マルコ7:8)ことであり、神様の目には「正しい生活をしない者」と映るのです。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル上16:7)との御言葉のとおりです。「この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです」(1ヨハネ3:9,10)。
2.何が人を汚すのか(マルコ7:14-23)
朗読いたしました福音書の箇所は、イエス様がファリサイ派の人々と律法学者たちと議論をした後での教えです。きよめと供え物、すなわち信仰生活の中心にあったはずのものについて「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」(13)とイエス様は退けます。「また、これと同じようなことをたくさん行っている」(13)と一事が万事であるのです。
ファリサイ派の人々は手や器などを念入りに洗うことで自らをきよいと考えていました。ところがイエス様は「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と群衆に教えます。更に同じ教えを弟子たちだけに重ねて説かれたとの記述から、使徒たちから始まった教会がどの時代においても気を付けなければならない誤解や誤信であると分かります。
ここでイエス様が言われている汚れとは、罪を犯していることや罪の状態にあることを指しています。では私たちは誤った行いによって罪に定められるのでしょうか、あるいは私たちが罪人であるから神様の前に過ちを犯すことになるのでしょうか。
「外から人の体に入るものは、人を汚すことはできない」と言われています。もし行いによって罪が入るのであれば、人の努力や行いによって罪を償うことができるでしょう。そもそも罪の性質を持っていなければ、すなわち「神から生まれた人」であったなら、罪を犯すことはできないと書かれています。
罪を犯した行為を見て、私たちは自他の内に潜む罪の存在に気づくことができます。罪に気がつくことができれば、悔い改めの機会も得られます。ところが目に映る行いを責められてしまうと、その人は悔い改める心まで摘まれてしまうでしょう。
「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」(21)と言われているとおりです。人間は最初の人アダムのときから罪を犯し、罪に定められているので、良心さえも罪の支配を受けています。ですから自分で自分を清めることはできず、ただ御子にこの望みをかけている人だけが清めていただくことができるのです。
行いによって清められることはありませんが、犯した罪によって心の中の悪や生まれ持った罪に気づくことはできます。信仰と生活との誤りなき規範である聖書のことばに示され、キリストの救いの恵みを受けるのです。救いの恵みにあずかるものに与えられた聖霊が、私たちを内側から清め、救いのみわざを成してくださいます。
<結び>
儀式や行いによっては罪を清めることはできませんが、聖霊による新生の恵み、聖化の恵みを受けることで私たちは内側から清められることができます。この救いについての知識は聖書によって示され、信仰告白を通して私たちはキリストを信じる信仰へと結び付けられています。
初めは「見よ、それは非常に良かった」と言われたはずなのに、「神から生まれた人」と呼ばれたはずなのに、罪が入ったために「はずなのにね」と言われても仕方のない者となりました。しかし罪の中に生まれ、罪から抜け出すことができない私たちを救うために、御子は罪を除くために世にお生まれになりました。
この方の十字架の死と三日目の復活とを自分の唯一の救いであると信じる者は、神の霊によって生まれ、新生の恵みにあずかります。再び「神から生まれた人」とされるのです。「この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」と証しされるところを目指して、きよめの恵みを求め続けましょう。