「本国は天にあります」フィリピの信徒への手紙3章20-21節
2021年11月7日
担任教師 武石晃正
日本基督教団は毎年11月第1日曜日を「聖徒の日」と定め、多くの教会では私たちと同じように先に天に召された信徒を記念する礼拝を行っております。このような恵みに主が招いてくださり、ともに集うことが許されたことを感謝いたします。
私たちはキリストにある死者の魂が既に神のもとに置かれていると信じております。従って先に召された方々を崇めたり供養したりするのではなく、主イエス・キリストに対してこれらの方々と共に歩んでくださったことの感謝を捧げる意味で礼拝をいたします。
昨年の聖徒の日より本日までの間に4名の方を天に送る式をいたしました。ご遺族代表の方へ本日のご案内をお送りいたしまして、遠方からもおいでいただいております。また毎年この記念礼拝を覚えてご出席くださる皆さまともまたお会いできたことを主に感謝いたします。コロナ禍の波が引いて、互いに行き来ができる時期を迎えたことも主のお取り計らいであると感謝に堪えません。
本日はお読みしましたフィリピの信徒への手紙のほかにも、聖書のことばをいくつか交えながらキリストの救いの恵みをお分かちいたしましょう。
PDF版はこちら
担任教師 武石晃正
日本基督教団は毎年11月第1日曜日を「聖徒の日」と定め、多くの教会では私たちと同じように先に天に召された信徒を記念する礼拝を行っております。このような恵みに主が招いてくださり、ともに集うことが許されたことを感謝いたします。
私たちはキリストにある死者の魂が既に神のもとに置かれていると信じております。従って先に召された方々を崇めたり供養したりするのではなく、主イエス・キリストに対してこれらの方々と共に歩んでくださったことの感謝を捧げる意味で礼拝をいたします。
昨年の聖徒の日より本日までの間に4名の方を天に送る式をいたしました。ご遺族代表の方へ本日のご案内をお送りいたしまして、遠方からもおいでいただいております。また毎年この記念礼拝を覚えてご出席くださる皆さまともまたお会いできたことを主に感謝いたします。コロナ禍の波が引いて、互いに行き来ができる時期を迎えたことも主のお取り計らいであると感謝に堪えません。
本日はお読みしましたフィリピの信徒への手紙のほかにも、聖書のことばをいくつか交えながらキリストの救いの恵みをお分かちいたしましょう。
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1.既に眠りについた人たちについて
イエス・キリストについて神のことばである聖書は「独り子である神」(ヨハネ1:18)と証言しています。神であることと認めない立場であっても、イエスという人物を史実上の宗教家あるいは偉人の一人として認めています。
単なる宗教家や偉人の一人にすぎないのでしょうか。人の道を説いた人たち、賢者や聖者と呼ばれた人たちは歴史上に数えきれないほどいるでしょう。しかし「死にて葬られ」死人のうちよりよみがえり、永遠の命を明らかにされた方はキリストただ一人です。
救い主キリストを尊敬と親しみを込めて私たちは「イエス様」とお呼びしています。このイエス様は地上におられた時、弟子たちに次のように約束されました。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14:2-3)
葬られてから復活したばかりでなく、天に昇られて戻って来てくださるのです。天に昇られたのは私たちの場所を用意するためですから、既に天には十分なだけの場所があるのです。この方が天から来られた「独り子である神」なので、天に場所を備えることもそこから迎えに来ることもおできになります。
ではイエス様が神の子だから天に昇ることができたのだとしても、この地に生を受けた私たち人間が天へ行くことはできるのでしょうか。先に亡くなられた方々はお写真がここに並ぶだけでも30名ほど、名簿に残されているお名前は100名に上ります。「信じれば救われる」「天に召された」との言葉は、残された者たちへの気休めの慰めに過ぎないのでしょうか。
イエス様が天に帰られてから20年30年と経ちますと、教会の中にはいつまで待ってもイエス様は来ないのではないかという疑問が湧き始めました。そこにキリスト教への迫害や弾圧が加わると次々に殉教者が出まして、亡くなった信者は復活しないのではないかという不安が広まります。そこで使徒パウロを通して次の言葉が与えられました。
「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(1テサロニケ4:13-14)
キリストを信じるとは、ただ自分の思い煩いから助かることを求めるのではなく、イエス様が歩まれた道をたどることです。イエス様は神の愛と赦しについて、教えを説かれたばかりでなくご自身が手本をお示しになりました。この方が歩んだ道は、すなわち死んで葬られ、復活して天に昇られた道です。信じて従う者はみな同じ道を歩むことになります。
このようにイエス様を愛し、イエス様の愛をもって生きるので、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」と確信させてくださいます。罪の赦しを受けるばかりでなく、「身体のよみがへり、永遠の命を信ず」と告白する者には、キリストにあって復活の希望があるのです。
先に召された方々について、教会はキリストにおいてこの希望を証しします。ここにいる私たち一人一人もまたキリストを信じる信仰により、罪の赦しと復活との恵みを受けることができるのです。
2.本国は天にあります
ところで礼拝の中で唱和いたしました日本基督教団信仰告白において、またそこに含まれております使徒信条におきましても、キリストを信じる者が天国に行けるとは明言されていないのです。「聖なる公同の教会」の一端とは言え教団は地上における組織でありますから、天国に行ったときに「日本基督教団のみなさんはこちら、〇〇教団の方はあちら」と案内されることはないでしょう。
つまりは主が天に昇られたことと、この方を信じる信仰によって救われることが明らかであれば地上における信仰告白としては十分だということです。ではどのように天への希望を明らかにすることができるでしょうか。次のように聖書は示しています。
「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8:14)
イエス・キリストを神の子、救い主と信じる者には聖霊が与えられ、この聖霊が私たちを神の子としてくださるのです。神の霊によって新しい人に生まれ、神の子とされます。
なぜ神の子とされる必要があるのでしょう。天の国について考えるにあたって、国籍というものを念頭においてみます。この世においては、国籍を取得するのは親の国籍によるか(血統主義)、生まれた国によるのです(出生地主義)。
全ての人類は天地創造において最初に創られた人アダムの子孫です。すなわち人間はみなアダムの血統ですから、神の掟を破り、天の国に反逆した血統です。出生地においても天の国ではなく地上で生を受けた者です。天ではなく地に属するので、終わりの日に被造物として火で焼かれ滅ぼされることが定められています。
血統においても出生地においても生まれながらに天に国籍を持っていませんし、天国と国交を結んでいる国はないのでビザの発給を受けることもできないのです。従って、神の子としていただくことだけが天の国に籍を持つことができる唯一の道となります。そしてイエス・キリストだけがご自身を信じる人々に神の子となる資格を与えることができる、救い主なのです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)。
それにも関わらず「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです」(フィリピ3:18-19)。滅びに至る者が極めて多いなかで、イエス・キリストの恵みを受け取ることができた者たちがいます。この人たちは地上において既に神の子とされる資格が与えられ、本国をこの世から天に移されています。
生きていても死んだ後も「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」とキリストにある者には希望があります。そして「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20-21)
資格だけでなく、体をも神の子と同じに変えていただける約束です。復活や永遠の命といっても幽霊か何かのような得体のしれない存在でふわふわと漂っていることはなく、本国が天にあるのでこの世を去るなら直ちに神のみもとに召されるのです。そして、世に残されている私たちもまた、先に召された方々に続いて救いの希望のうちを歩むのです。
<結び>
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)
「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり」と信仰告白を奉じているように、一人一人が神と共に歩むと同時に、信仰によって一つの体として結び合わせれています。私たちは先に召された方々が神のもとに安らいでいることを証しするとともに、地上に生かされている者たちもキリストを信じて歩むなら神の憩いに招かれていると確信して励まし合いましょう。
イエス・キリストについて神のことばである聖書は「独り子である神」(ヨハネ1:18)と証言しています。神であることと認めない立場であっても、イエスという人物を史実上の宗教家あるいは偉人の一人として認めています。
単なる宗教家や偉人の一人にすぎないのでしょうか。人の道を説いた人たち、賢者や聖者と呼ばれた人たちは歴史上に数えきれないほどいるでしょう。しかし「死にて葬られ」死人のうちよりよみがえり、永遠の命を明らかにされた方はキリストただ一人です。
救い主キリストを尊敬と親しみを込めて私たちは「イエス様」とお呼びしています。このイエス様は地上におられた時、弟子たちに次のように約束されました。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14:2-3)
葬られてから復活したばかりでなく、天に昇られて戻って来てくださるのです。天に昇られたのは私たちの場所を用意するためですから、既に天には十分なだけの場所があるのです。この方が天から来られた「独り子である神」なので、天に場所を備えることもそこから迎えに来ることもおできになります。
ではイエス様が神の子だから天に昇ることができたのだとしても、この地に生を受けた私たち人間が天へ行くことはできるのでしょうか。先に亡くなられた方々はお写真がここに並ぶだけでも30名ほど、名簿に残されているお名前は100名に上ります。「信じれば救われる」「天に召された」との言葉は、残された者たちへの気休めの慰めに過ぎないのでしょうか。
イエス様が天に帰られてから20年30年と経ちますと、教会の中にはいつまで待ってもイエス様は来ないのではないかという疑問が湧き始めました。そこにキリスト教への迫害や弾圧が加わると次々に殉教者が出まして、亡くなった信者は復活しないのではないかという不安が広まります。そこで使徒パウロを通して次の言葉が与えられました。
「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(1テサロニケ4:13-14)
キリストを信じるとは、ただ自分の思い煩いから助かることを求めるのではなく、イエス様が歩まれた道をたどることです。イエス様は神の愛と赦しについて、教えを説かれたばかりでなくご自身が手本をお示しになりました。この方が歩んだ道は、すなわち死んで葬られ、復活して天に昇られた道です。信じて従う者はみな同じ道を歩むことになります。
このようにイエス様を愛し、イエス様の愛をもって生きるので、「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」と確信させてくださいます。罪の赦しを受けるばかりでなく、「身体のよみがへり、永遠の命を信ず」と告白する者には、キリストにあって復活の希望があるのです。
先に召された方々について、教会はキリストにおいてこの希望を証しします。ここにいる私たち一人一人もまたキリストを信じる信仰により、罪の赦しと復活との恵みを受けることができるのです。
2.本国は天にあります
ところで礼拝の中で唱和いたしました日本基督教団信仰告白において、またそこに含まれております使徒信条におきましても、キリストを信じる者が天国に行けるとは明言されていないのです。「聖なる公同の教会」の一端とは言え教団は地上における組織でありますから、天国に行ったときに「日本基督教団のみなさんはこちら、〇〇教団の方はあちら」と案内されることはないでしょう。
つまりは主が天に昇られたことと、この方を信じる信仰によって救われることが明らかであれば地上における信仰告白としては十分だということです。ではどのように天への希望を明らかにすることができるでしょうか。次のように聖書は示しています。
「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8:14)
イエス・キリストを神の子、救い主と信じる者には聖霊が与えられ、この聖霊が私たちを神の子としてくださるのです。神の霊によって新しい人に生まれ、神の子とされます。
なぜ神の子とされる必要があるのでしょう。天の国について考えるにあたって、国籍というものを念頭においてみます。この世においては、国籍を取得するのは親の国籍によるか(血統主義)、生まれた国によるのです(出生地主義)。
全ての人類は天地創造において最初に創られた人アダムの子孫です。すなわち人間はみなアダムの血統ですから、神の掟を破り、天の国に反逆した血統です。出生地においても天の国ではなく地上で生を受けた者です。天ではなく地に属するので、終わりの日に被造物として火で焼かれ滅ぼされることが定められています。
血統においても出生地においても生まれながらに天に国籍を持っていませんし、天国と国交を結んでいる国はないのでビザの発給を受けることもできないのです。従って、神の子としていただくことだけが天の国に籍を持つことができる唯一の道となります。そしてイエス・キリストだけがご自身を信じる人々に神の子となる資格を与えることができる、救い主なのです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)。
それにも関わらず「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです」(フィリピ3:18-19)。滅びに至る者が極めて多いなかで、イエス・キリストの恵みを受け取ることができた者たちがいます。この人たちは地上において既に神の子とされる資格が与えられ、本国をこの世から天に移されています。
生きていても死んだ後も「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」とキリストにある者には希望があります。そして「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20-21)
資格だけでなく、体をも神の子と同じに変えていただける約束です。復活や永遠の命といっても幽霊か何かのような得体のしれない存在でふわふわと漂っていることはなく、本国が天にあるのでこの世を去るなら直ちに神のみもとに召されるのです。そして、世に残されている私たちもまた、先に召された方々に続いて救いの希望のうちを歩むのです。
<結び>
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)
「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり」と信仰告白を奉じているように、一人一人が神と共に歩むと同時に、信仰によって一つの体として結び合わせれています。私たちは先に召された方々が神のもとに安らいでいることを証しするとともに、地上に生かされている者たちもキリストを信じて歩むなら神の憩いに招かれていると確信して励まし合いましょう。