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「王の職務」マルコによる福音書10章17-31節

2021年11月21日
担任教師 武石晃正

 教会暦は来週からアドヴェントに入りますが、それに先立ちまして日本基督教団では降誕前主日を数えています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」とユダヤの野辺で野宿していた羊飼いたちに主の天使が現れた晩、神の御子イエス様がお生まれになったことを覚えます。
 主メシアを待ち望むこと、キリストが世に来られたご目的について思いながら降誕前の週を歩みます。メシアすなわち神の働きのために油を注がれて任命された者、王・祭司・預言者の三職のすべてをお一人で備えておられる方です。本日はこのうち王の職務という一面についてみことばから思い巡らせましょう。
 
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1.永遠の王 (Iテモテ1:12-17)
 今から2000年ほど前のこと、古代ローマ帝国が支配していた地中海沿岸の国々にはユダヤ人が多く移り住んでいました。ユダヤの会堂には律法と預言者によって約束された救い主メシアが来られたという知らせが、ナザレ人イエスの十字架と復活とともに伝え広まりました。

 使徒パウロはかつてユダヤの保守派の一員として教会を迫害する者でしたが、キリスト者の一斉弾圧に臨む道すがらイエス様に出会い回心しました。迫害者からキリストの使徒へと生まれ変わったパウロは、各地のユダヤの会堂で聖書からナザレのイエスの福音を説く者となりました。
 教会を各地に興して弟子たちを育てたパウロは、キリストから委ねられた務めを愛弟子たちへと引き継ぎました。ユダヤ女性を母とし、異邦人を父にもつテモテという教師はパウロの一番弟子です。パウロはその手紙の中で弟子テモテへ次のように書き送りました。

 「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」(Iテモテ1:15)。キリストの降誕から召天までが約30年、この手紙が書かれたのは更に30年ほど経っています。ナザレのイエスと実際に会ったことがある人、会ったことはなく伝え聞いただけの人、後者が圧倒的多数を占めて参りますと降誕の出来事も復活の事実もだんだんに色あせようとする時代です。
 キリストの教えに様々な解釈を加えてしまい、思い思いの証言をする者たちも現れました。そこで「そのまま受け入れるに値します」と、かつてキリストを憎み教会を迫害した男が純粋な信仰をまっすぐに語ります。

 キリストを名乗るイエスと彼を信じている人々のことを主の名をけがす者だとみなし、正義を行っているという自負の上で教会を迫害した人がいました。ところがこのキリストが神の子だと知って、迫害者である自分こそが神を冒涜する者だったと気づきます。人々を捕えて牢に投げ込むような暴力をふるう者は、まさに「その罪人の中で最たる者です」。
 この迫害者の中でも最たる者だった過去は、その後の福音宣教の働きにおいてパウロの足かせとなったこともありました。ぬぐい去ることができない過去、今の若者風に言えば黒歴史です。しかし主は深い憐れみによってパウロの多くの罪を赦してくださったのです。

 イエス様が地上におられた頃、ある女性の回心について次のようにおっしゃいました。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7:47)。翻せば、多くの罪を赦されたキリストのご愛とはいかに大きいことでしょう。
 直接に手を下すことはなかったとしても、パウロは多くの人々を死に引き渡したような男でした。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(Iテモテ1:16)と、キリストはパウロのような罪人の中で最たる者であっても赦すことがおできなり、ご自分の益となるようにお用いになりました。

 さて、主メシアと呼ばれるキリストは「油を注がれた者」という意味があります。イスラエルにおいて任職のときにきよめの油が注がれるのは王、祭司、預言者の3つです。預言者は神のことばを伝え、祭司は人の罪やきよめを宣言する役目を負っています。王は自分の国民を守り導く者です。
 ダビデ王が犯した罪を知った上で預言者を遣わして悔い改めの機会を与えた主は、自らもまたダビデの子と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。パウロはこの方を「永遠の王」と呼んでいます(1:17)。イスラエルの王であり、世界を治める来たるべき王です。

 この王が治める御国の民とされる者にはいつでも主の恵みと愛があふれるほどに与えられます。主メシアは臣民に苦役と重税を課す暴君ではなく、私たちを恵みによって召し、罪から救い出される憐れみ深い王です。

2.王の職務(マルコ10:17-31)
 永遠の王である主メシアの国民になって、主の恵みと愛をあふれるほどに与えられたいと願います。いったいどうすればこの国に入ることができるのでしょうか。永遠の王による王国ですから、王の一存にかかっていると言えましょう。王であるイエス・キリストが神の国について説かれました。
 ユダヤの青年が登場します。彼は血筋の上では神の民イスラエルです。幼い時から律法と掟に親しんできましたから、何か尋ねられても「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と胸を張って答えることができました(19,20)。
先に触れました使徒パウロの弟子テモテもまた、「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです」と鼓判を捺されるほどに子どもの時からみことばによって育てられました。ではこの人とテモテとの違いはどこにあるのでしょうか。

 イエス様はこの人に「あなたに欠けているものが一つある」と迫りました(21)。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と命じられます。財産を売って施しなどの慈善を行えば神の国に入れるということなのでしょうか。
 この人の思い、あるいは信仰について考えてみましょう。イエス様は彼に「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言われましたが、この人は知っているだけではなく子供の時から守ってきたと答えました。知っているだけで行わない人とは大違いであると胸を張っているようです。

 ところが「~するな」「~せよ」と命じられたことは守るとしても、命じられたので仕方なく守ってきた様子がうかがえます。そのような人はもし掟がなければ殺したり盗んだりするのでしょうか。禁じられたからやらない、命じられたからやるというのでは善人ではなくただの指示待ち人間です。善悪についても他人まかせ、この人の内に正しさや正義が根付いていないので、自分から神の御心を行うこともできないということです。
 もし律法の掟を与えた神様のお心を自分の心とするならば、例えば次のような言葉も彼の中に生きたはずです。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」(申命記15:11)

 モーセの律法といえば大変厳しい教えのように聞こえるかも知れませんが、永遠の王でる方は貧しい者や弱っている者をいつも気に掛けておられることが分かります。イエス様は施しのことを指摘されていますが、この人に掟の心が欠けていると言い当てられたのです。この人が律法の掟を自分の心として守るならば、生活に苦しむ貧しい者を見かけたならおのずと手を大きく開くはずなのです。
 また、持っている物を売り払うとは「独り子である神」の御思いです。神であるのに罪の世に生まれ、死の呪いに捕らえられている民を救い出すために、キリストは神の身分を捨ておいて天から降ってこられました。捕らわれた者たちを解放する代価として、罪のない方がご自分の命さえ支払われたのです。

 さてイエス様は弟子たちに向け「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」と語りかけました(24)。財産のある者や金持ちと呼びつつも、財産そのものが何か悪さをするということではないでしょう。この世の富によって身を立てているのでそれを崩すことができず、財産に縛られているためにこの世の国から神の国へ身を移すことができなくなってしまいます。
 主は続けて言われます。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、この世で、迫害も受ける」と(29,30)。福音書が記された年代の教会は嵐のような迫害と弾圧の真っただ中にありました。キリストの名のために勘当された者、親兄弟が捕らわれ、拷問の末に殺された者たちが大勢おりました。故郷を追われ、帰る国がない人たちもいました。

 迫害によって民が受ける苦みをご覧になり、王はその苦しみをご自分が受けた打ち傷によって覚えておられます。捕えられ、裁きを受け、拷問され、大衆の前で晒され、磔にされるに至るまで、誰一人かばう者がいなかったと身をもって知っておられるからです。
 「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」との言葉は、順序が変わることがあっても最後の一人まで見捨てることがないという王様の約束です。

<結び> 
 王である祭司、預言者である主メシアはご自分の民を決して見捨てることがない王の職務を完成されます。
 「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」(Iテモテ1:15)と、今の私たちも招かれています。

 主キリストの体であり恵みにより召されたる者の集ひである教会にこの真実が委ねられています。そして神の国に招かれた私たち一人一人の上に、「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」
 主が再び来られるとき、先に召された者も地にある者たちキリストにある者はみな新しい栄光の体に変えられます。こうして主メシアであるイエス・キリストは、王の職務として救いのご計画を完成されるのです。この日を待ち望む者は幸いです。

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