FC2ブログ

「主の来臨の希望」マルコによる福音書13章21-37節

2021年11月28日
担任教師 武石晃正

 週報でも報告させていただいておりますとおり、昨日は関東教区の按手式が大宮教会を会場に行われました。教会の皆さんのお祈りとお支えによって検定試験に合格することができ、按手によって正式に日本基督教団の正教師として登録へと至りました。
 正教師になりますとこれまでの働きに加えて、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行うことができるようになります。これらは主イエス様が世の終わりまで弟子たちに委ねられた働きであり、教会はイエス様が再び来られることを待ち望んで守り行います。

 さて今週より教会暦はアドヴェントに入りました。アドヴェントは漢字で待降節と表します。主が天より降ってこられることを待ち望むという意味です。
 かつてユダヤの人々が預言者たちの言葉を信じて救い主を待ち望んだように、教会は「主の再び来たりたまふを待ち望む」と主の再臨に希望を持っています。
 本日はマルコによる福音書を中心に、主イエス様のご再臨とその備えについて心に留めて参りましょう。

PDF版はこちら


1.終わりの時が来る
 主のご再臨や天の御国に希望を抱くことは私たちの信仰の一つ、とくにホーリネスの信仰である四重の福音「新生、聖化、神癒、再臨」の行きつくところであります。これは使徒たちから受け継がれている信仰であり、たとえばパウロは「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)と確証し、ペトロもまた「義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(2ペトロ3:13)と新天新地への希望を証しています。
 新しいものを得るにはそれまでのものを終えなければならないという場面は、普段の生活の中でもしばしば経験するところでしょう。新しいものに希望があると分かっていても、古いものを手放すことを惜しんだり悲しんだりすることもあります。食後のデザートに美味しいケーキが待っているとして、今食べている美味しい食事が「ごちそうさま」の挨拶ひと言で終わってしまうことは、子ども心に何か喪失感のような失望や悲しみを感じたという覚えがあります。

 神様のみわざにも期限や終わりが定められています。新しい天と新しい地を迎えるには最初の天と最初の地は去って行くのです。私たちが朽ちないものに復活するのは、今いただいている朽ちるからだが死ななければならないということです。神様がお創りになられたすべてのものに終わりがあり、個々においても死があるのです。
 しかしながら天地創造のみわざを思えば、その完成において「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と宣言されています。せっかく良かったものだったのに、最初の人アダムとエバが「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17、新改訳)と言われた木から取って食べてしまったので、人類をはじめ被造物全体が罪と死の支配に置かれてしまいました。

 ですから神様はご自分の似姿に創られた人間を救い出し、新たに朽ちない者へと作り変えるご計画を備えておられました。天と地も極めて良かったと言われた時と同じかそれ以上に素晴らしいものに造り変えられるのです。そのためには今ある古いもの、罪の呪いに定められたものを終わらせなければならないということです。
 ノアやアブラハムといった選ばれた者を通して神様は段階的に救いのご計画を示されました。そして選ばれた民族イスラエルを通して、従う者には祝福を、背く者には懲らしめを、悔い改める者には赦しを報いられることを現わされたのです。

 イスラエルには預言者たちが遣わされ、後の時代における神様のご計画のことも語りました。一例では「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる」(エレミヤ16:16)とのエレミヤの言葉がありますが、これはイエス様が弟子たちを「人間をとる漁師」として遣わしたことで成就しました(マタイ4:19)。
 実はこのエレミヤの預言には「その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる」と続きがあります。漁師の後に狩人が遣わされる時、それは身を隠すことも逃れることもできない裁きの日であり、この時代の終わりです。

 イエス様のご降誕によって救い主が世に来られたと同時に、来たるべき「主の日」が始まりました。再び来られる時に狩人たちが遣わされます。再臨に希望を持つ者、既に漁師の網に釣り上げられた者だけが救われるのです。

2.終わりの日のしるし(マルコ13:21-37)
 「人間を漁師」を遣わされたイエス様は、彼らに世の終わりのことを明かされました。世の終わり、主の来臨にはどのようなことが起こるのでしょうか。
 まず偽メシアや偽預言者と、その証拠であるかのような不思議なわざを行う者たちが現れます。自分自身を復活したキリストであると騙る者や、天使から啓示を受けたと騙る者なども含まれるでしょう。いわゆる異端と呼ばれる教えです。非常に巧妙なので教会の中にまで入り込んでくることもありますから、私たちは隙間を作らないように愛と平和の絆を互いに保ち合うのです。

 迫害や偽の教えによる苦難は主の教会と聖徒たちに絶えず降りかかりますが、加えていよいよ世の終わりになると太陽や月星など天体に異変が起こります(24,25)。地上に生きるすべての者にとって大きな苦難また災害ですが、主を待ち望み耐え忍んだ者たちにとっては救い日です。
 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(26)と言われています。この方を信じて苦難の中でも期待をかけてきた人たちは集められ迎えられます。そうでない者たちは集められて燃え盛る炉の中に投げ込まれ、「悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ13:50)と言われたとおりになるのです。あなたならどちらを選びますか。

 果たしてこのようなことが一体いつ起こるのでしょうか。イエス様のお弟子さんたちも「そのことはいつ起こるのですか」「この時ですか」と気になって仕方がなかったようです。
 気を揉む弟子たちにイエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」とお答えになりました(32)。「子も知らない」とは父から全く何も知らされていないということではなく、むしろ「そんなことなど知りたくもない」と否まれているようです。 その日が来ればご自分の民がますます苦しみを受けるばかりでなく、非常に多くの人々が恐ろしい裁きを受けて滅されてしまうからです。

 いつであるかは分からなくても必ずその日が来ることをいちじくの木から教えられています。いちじくの木はオリーブの木やぶどうの木とならんでイスラエルではとても親しまれている樹木です。世の終わり、人の子が来られる日は普段の生活と隣り合わせであると示されます。
 「葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」と言われているように、ある時を境に一気に迫ってくるのです。そしてときに暑さが緩むことはあっても季節が春に戻ることがないように、人の子は確実に戸口に近づいているのです(29)。遅れることはあっても後戻りをすることはなく、これらのことが起こったときにはもはや手遅れなのです。

 世の終わりや人の子が「近づいている」とは既にそこまで来ている、あるいは準備が整っているという様子です。バプテスマのヨハネから教えられているとおり「斧は既に木の根元に置かれている」(マタイ3:10)のですから、今は何事もなく見える木でも斧が振り下ろされた途端に切り倒されてしまうということです。
 「いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」(35)。旅に出た主人は必ず帰ってきます。「目を覚ましていなさい」とはご再臨の日まで一睡してはならないということではなく、しもべはしもべ、門番は門番として昼夜それぞれに務めを果たすことです。途中で投げ出したり諦めたりせず、主にお会いする時まで命じられたことを守り行い続けることです。

 では私たちが目を覚ましているために何を命じられているでしょうか。イエス様は天に昇られる前、弟子たちに「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じられました(マタイ28:19,20)。この命令は今も教会に受け継がれています。
 教会は福音を正しく宣べ伝え、その教えを聞いて信じた者はバプテスマを受けてキリストの弟子とされます。主キリストの体に加えられ、新しい契約を受けた者として、教会はパンと杯による主の晩餐を行います。主人が突然帰って来る時まで、目を覚まして言いつけを守り行うのです。

 人の子すなわち主イエス様の来臨は信じない者にとっては裁きと滅びの日ですが、目を覚ましている者には救いの希望です。イエス様は念を押して言われます。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(37)。
 あなたは目を覚まして、主をお迎えする備えができていますか。

<結び> 
 主は終わりの日、ご自身の来臨の日のことを教えるために人の子として世に来られました。弟子たちと同じ目の高さで、天を指さしながら説かれたことでしょう。
 アドヴェントの待降とは「主の再び来たりたまふを待ち望む」という希望です。教会はクリスマス前の4週間だけでなく、バプテスマと主の晩餐との聖礼典においてもその日が近づいていることの希望を表しています。

 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコ13:33)
 今週から主を待ち望むアドヴェントです。その時がいつなのか分かりませんが、主イエス・キリストが救い主として再び来られるのを、わたしたちは楽しみに待ち望みましょう。

コンテンツ

お知らせ