「折が良くても悪くても」テモテへの手紙二3章14節-4章8節
2021年12月5日
牧師 武石晃正
12月はクリスマスが近づき、今年は昨年に比べて町の賑わいも戻って来たように感じられます。デパートや商店街など世間がウキウキした雰囲気だとすれば、本当のクリスマスを知っている教会とクリスチャンたちはどれほど喜びで満ち溢れていることでしょう。
ふと思い出したのは中学生の頃のことです。クリスチャンになったら悩み事がなくなって何もかもかハッピーになるのではないかと期待をしながら、CSや礼拝に出席しました。高校生になってバプテスマを授かりましたが、それから何一つ悩み事なく30年を過ごしたかどうかは皆さんの想像にお任せいたします。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と使徒パウロは教会を励ましています(テサロニケ一5:16-18)。クリスチャンになっても喜べない目に遭ったり、祈る言葉も出ない日があったりするわけです。信仰の道を永く歩まれている方ほど身に染みてご承知のことではないでしょうか。
神様に感謝することが難しい局面でこそ「喜べ、祈れ」と救い主に向けて心を高く挙げるのです。主を待ち望むアドヴェントにあたり、折が良くても悪くても私たちに授けられている恵みについてご一緒に考えて参りましょう。
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牧師 武石晃正
12月はクリスマスが近づき、今年は昨年に比べて町の賑わいも戻って来たように感じられます。デパートや商店街など世間がウキウキした雰囲気だとすれば、本当のクリスマスを知っている教会とクリスチャンたちはどれほど喜びで満ち溢れていることでしょう。
ふと思い出したのは中学生の頃のことです。クリスチャンになったら悩み事がなくなって何もかもかハッピーになるのではないかと期待をしながら、CSや礼拝に出席しました。高校生になってバプテスマを授かりましたが、それから何一つ悩み事なく30年を過ごしたかどうかは皆さんの想像にお任せいたします。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と使徒パウロは教会を励ましています(テサロニケ一5:16-18)。クリスチャンになっても喜べない目に遭ったり、祈る言葉も出ない日があったりするわけです。信仰の道を永く歩まれている方ほど身に染みてご承知のことではないでしょうか。
神様に感謝することが難しい局面でこそ「喜べ、祈れ」と救い主に向けて心を高く挙げるのです。主を待ち望むアドヴェントにあたり、折が良くても悪くても私たちに授けられている恵みについてご一緒に考えて参りましょう。
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1.健全な教えを保つこと
テモテへの手紙二は使徒パウロが獄中から弟子テモテへ送った書簡です。「わたし自身は・・・世を去る時が近づきました」(4:7)と記されているように、自身の最期が迫りつつある中で愛弟子の身を案じ、主から委ねられた務めと希望とを託した手紙です。
この時代はキリストの救いの知らせである福音が異文化世界へ広まる反面、この世的な困難が教会を惑わすようになりました。「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい」(3:1)とパウロは励ましつつ、テモテの胸中を察するように彼が直面しているであろう困難を一つ一つ挙げています。
主が来られる日が近いと自分に言い聞かせながら、パウロもまたこれらの困難を耐え忍んできました(3:11)。自分が地上で生きている間に主をお迎えすることが叶わないと知って、パウロは終わりの日への備えを弟子に託しました。テモテに宛てられたこの書簡は、代代の聖徒たちが守り行うようにと主の聖霊が聖書として収めました。私たちもこの書簡を読むことで主をお迎えする備えができるのです。
終わりの日の困難に勝ち得るものとして「学んで確信したこと」「だれから学んだか」(14)、「幼い日から聖書に親しんできたこと」(15)を思い起こすようにと勧められています。これらは「健全な教え」(4:3)と呼ばれていますが、世の人々はもちろんのこと教会の中にも耳を傾けない者たちが多く現れたからです。
「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(3:14)と言われるとき、その確信とはテモテが独学で得たものではないことは明らかです。書簡の冒頭のあいさつで「その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています」(1:5)と書かれているように、敬虔なユダヤ人女性である祖母と母から受け継いだ信仰です。
幼い日、あるいは生まれる前からユダヤ会堂で聖書の言葉を聞いてテモテは育てられました。父親はギリシア人でしたが、聖書の価値観の中に生まれ育ったのです。紆余曲折はあったにせよ、大きく道を逸れたり全くの異教的な文化に染まったりするなく歩んできました。
大人になってから聖書を読み、みことばに触れられてイエス様を自分の救い主として信じたという人もありましょう。むしろ日本の場合はこのような方が多いかと思われます。大人になって身に着けた信仰が健全な教えではないということはありませんが、この世の価値観で生きてきた年月が長いほどにみことばの理解への影響を受けやすいという一面があるでしょう。
「あなたは、それをだれから学んだかを知っており」(3:14)と手紙は続きます。テモテをパウロが同行した時には既にいくつかの教会でも評判のよい弟子でした(使徒16:1-2)。誰から学んだかとは単に家庭における信仰の継承を指すのではなく、教会の信仰告白にしっかりと立っていることを意味します。
ここで信仰告白というものを取り上げてみましょう。宇都宮上町教会は日本基督教団の教会として日本基督教団信仰告白を奉じます。それは「代代の聖徒とともに」使徒信条を告白することで、使徒的教会であることを示されています。私たちはバプテスマと主の晩餐との2つを聖礼典とするプロテスタントの信仰を受け継いでいます。
同時にホーリネスの信仰に立っています。日本のホーリネス運動の直接のルーツは19世紀のアメリカのリバイバルですが 、遡るところはジョン・ウェスレーのメソジスト運動です。テモテにとっての「祖母ロイスと母エウニケ」は、私たちの信仰において「プロテスタントとホーリネス」であると言えましょう。これらを知っていることで困難や迫害に遭ったとしても、健全な教えを保つことができるのです。
2.折が良くても悪くても
主が来られるからあわてて身を整えるのではなく、既にいつも主の御前にあることをパウロは思い出させます。折が良いとか悪いとか受け止め方に個人差はあるとしても、パウロに限って言えば折が良かったためしがなかったのではないかと思われるのです。テモテに書き送った数々の困難(3:2-9)は、実にパウロ自身が直面してきたことばかりです。
これらの困難は既にテモテにも降りかっていたことですから、師弟ともども踏んだり蹴ったりの生涯です。パウロが負った苦労についてはコリントの信徒への手紙二に記されています(コリント二11:23-28)。教会への迫害はユダヤとローマの双方から迫りますから、この時代に折が良いなどと誰が言えたものでしょう。
置かれている状況に関わらず励むようにと「折が良くても悪くても」との勧めです。なぜなら私たちにとって折が良くても悪くても、いつも神の御前に生かされており、主の裁きは必ずあるからです。終わりが近いと分かっていれば、何が何でも励むでしょう。
キリストを指して「その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」と、パウロはその御前であることに注意を向けます(4:1)。この方がすぐに来られると信じているか、まだ来ないだろうと高を括るかで生き方も考え方も大違いです。
もし主が来られないとすれば、神の民はすでに罪が赦されきよめられたということだけで胡坐をかいてしまうでしょう。この世で行うことができるもの、目で見て手で触れられることに力を注ぎます。行事や業績にこだわり、儀式を強調するでしょう。イエス様が最初に世に来られた時、この方をメシアと認めなかった人々の姿に見ることができます。
イエス様がおられた頃のユダヤの言い伝えは、人間の都合で律法の掟に細則を付け加えたものでした(マルコ7:3-4)。ファリサイ派や律法学者という指導者たちが率先しておりましたが、民衆もこれらを受け入れていました。
細かな規則が増えますが、自分たちが決めた規則なので簡単に償うことができるでしょう。香料や穀類をいくらか供えるとか、血を流すとしても鳩ぐらいで罪を償うことができるのです。お手軽な安心感を得られるので、人々に赦しを与える「先生」たちは相当に慕われたことでしょう。民衆もまた自分たちに都合の良い教師たちを求めたのです。
「だれも健全な教えを聞こうとしない時」とは、人々が自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集める時代です(テモテ二4:3)。イエス様の時代の民衆も、テモテが仕える教会にもこのような者が多くおりました。
これは今の時代にも当てはまるでしょう。インターネットが普及したことで、いつでもどこででも自分好みの礼拝を視聴することができる時代だからです。できることとそれを選ぶことは別物ですが、もしえり好みするならそれは礼拝だと言えるでしょうか。
旧約聖書には自宅に神殿を建て、個人の礼拝や信仰生活のために都合よく祭司を迎えた人の話が書かれています(士師17章)。その混乱した神の民について「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」と評価が下されています(同21:25)。
たとえ聖書のことばを聞いていても自分に都合の良いことを聞こうとするのであれば、その信仰姿勢は士師記の時代まで退行していることになりましょう。個々人であればまだ立ち帰る余地もありますが、教会の中にまかり通るようになったら世も末です。
翻って、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、務めを果たした者は幸いです(5)。私たちは礼拝堂に集まれないことを正直に受け入れ、初めて経験した緊急事態宣言の期間を耐え忍びました。そして再会できたときにはこの上ない喜びを味わいました。
主の再臨の希望があるので、折が良くても悪くてもしっかりと立つことができます。そしてイエス様とお会いした時に「ずっと会いたかったけど、とうとう会えたね」とその喜びはひときわ大きなものとなるでしょう。
<結び>
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」とパウロは獄中から書き送りました(7)。私たちもまた正しい審判者が来られる時まで、聖書と信仰告白によって道を外れずに走りとおしましょう。
キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。しかし信仰を守り抜いた者には、義の栄冠を授けてくださる希望があります。
「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(4:8)
主の再び来られることを待ち望むので、私たちは折が良くても悪くても愛のわざに励みましょう。