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「神の国を待ち望む」マルコによる福音書1章1-8節

2021年12月12日
牧師 武石晃正

 イエス様がお生まれになったのが何月のことだったのか、その日付を聖書が明らかにしていないことは不思議です。イスラエルの気候が今と2000年前とで大きく変わっていないとすれば、ベツレヘムの近くで羊飼いが放牧していたことから季節だけはある程度絞ることができそうです。
 とはいえ教会が12月25日をクリスマスと定めたのは4世紀になってからのことだと伝えられています。この日は当時のローマの暦で冬至の日とされておりましたから、一部を除く北半球では日没から日の出までが最も長い一日です。

 長い冬の厳しさがいよいよ増してゆき、暗闇が地を覆い、谷あいでは太陽を見ることができなくなります。そして実際に命を落とす方が多い季節でありましょう。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ9:1)との預言者イザヤの言葉のとおり、闇の中また死の陰の地において世の光として来られたイエス様をお迎えするクリスマスです。
 教会暦ではアドヴェントがもう一週ありますが、私たちは来週の日曜日にクリスマス礼拝を捧げます。一足早くクリスマスを祝うに先立って、今週は神の国を待ち望むことについて考えて参りましょう。

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1.主の道を整える者 
 私たちが手にしている聖書は旧約と新約との二つに分けられています。新約は文字通り神様との新しい契約という意味であり、それ以前のものを旧約と呼んでいます。新しい契約はキリストによりますので(ルカ22:20)、マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1)と書き出されています。
 福音の初めと記していながら、冒頭より旧約聖書から預言者イザヤの書が引用されています。新しい契約と呼ばれていますが神様はそれ以前の約束を反故にしたのではなく、数百年もの間ずっとこの時を備えておられたのです。

 神の民イスラエルの歴史を少しだけ振り返りますと、預言者イザヤが最初に活躍したのは紀元前8世紀です。北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされる前のことです。預言者たちが遣わされ悔い改めを説いたにも関わらず、罪を重ね続けたイスラエルはとうとう異邦人の手に落ちてしまいました。
 道を整えよという呼び声はイザヤ書の中に3度記されています。土を盛り上げて、高い所に広くて平らな道を作れというお触れです。平和のための道ではなく、早馬が駆けた後から馬にひかれた戦車が通る道です。

 北王国のサマリアをアッシリアが攻め落としました。追って南王国にはアッシリアを倒した勢いのままバビロニアが攻め込みました。どちらも整えられまっすぐにされた道を強大な軍隊が洪水のように押し寄せたのです。悔い改めを迫る預言者に耳を傾けなければどうなるのか、ユダヤの人たちは歴史を通して学んだはずでした。
 神の国が近づく時、それはアッシリアやバビロニアの王が攻めてくるよりもはるかに勢いがあり、容赦のないものであることをイザヤは告げています(イザヤ28章)。「荒れ野で叫ぶ者」が現れれたなら直ちに道が整えられ、時を待たずに神の裁きが洪水のように押し寄せるというのです。そしてそのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(4)。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。

 洗礼者ヨハネはメシアであるイエス様が公に現れるまで、その道を整えました。多くの人々がヨハネの説教を聞き、悔い改めのバプテスマを受けました。罪がない方であるのにイエス様が悔い改めのバプテスマを受けました。
 ヨハネの門下に入ったことでイエス様は宣教の当初からヨハネの弟子たちを率いることができ、本来であれば何年もかかるはずの備えが数か月で整いました。そして洗礼者ヨハネと同じく「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説いたので、群衆も心情的にナザレのイエスを受け入れやすかったのでしょう。

 ところで道を整えたのはこのヨハネばかりではなく、実は彼の母もまた同様に道を整える役割を担ったことをお気づきでしょうか。ヨハネを身ごもるにあたり、エリサベトは子を産むには既に年を取りすぎていました。しかし夫ザカリアへ天使が告げたとおり彼女は身ごもり、追って半年後に天使はとある少女に現れたのです。ご存じおとめマリアです。
 「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げた天使の言葉に「どうして、そのようなことがありえましょうか」と戸惑うおとめマリア(ルカ1:31,34)。「神にできないことは何一つない」と宣告するしるしとして、天使は「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている」と示しました。

 マリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた胸中は到底図り得ないものですが、とにかく彼女は急いで山里に向かいエリサベトのもとに身を寄せました。そしてエリサベトの臨月までの3か月、マリアはヨハネの母と暮らしたということです。
 エリサベトが到底あり得ないような妊娠をしたことを知って、困難を覚えつつもマリアは受胎告知を受け入れることができました。未婚のうちに子を宿せば本人ばかりか家族まで社会から排除されるのが当時のユダヤ社会ですが、エリサベトのおかげで妊娠初期の大切な時期を穏やかに過ごせました。この時期を通して、マリアは身に起こる出産までの体の変化や必要な備えについて知り得たでしょう。神の国が世に現れるためのマリアという道が、ヨハネの母エリサベトによって整えられたと言えましょう。

 イエス様の公の働きの道をヨハネが預言者の言葉の通りに整えました。神様はそればかりかこの二人が世に生まれる前から母たちをもってご自身の道を整えておられたことを覚えます。そしてこれらは更にその何百年も前からご計画されていたと知る時、主のお計らいとはなんと壮大であるかと驚くばかりです。

2.神の国は近づいた
 洗礼者ヨハネの出現からマルコによる福音書に記されていますが、そのヨハネ一派の教えの中心は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)です。後にナザレのイエスとその一派がこの呼び声をもって神の国の到来を宣べ伝えることになります。

 この「叫ぶ声」とはもともとは強大な侵略者たちが攻め込む道を建設するためのお触れですから、迎える側としてはこの声が聞こえたならば早かれ遅かれ攻め込まれることになります。誰が神の国に抗うことなどできましょうか。
 迎え撃つことができないと分かれば「敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」とイエス様も仰っています(ルカ14:32)。これは創世記においてイスラエルと呼ばれるヤコブが兄エサウに再開するときの様にも通じます(創世記33章)。

 神様はご自分の民に向け、このように旧約と新約とを通して「力を捨てよ、知れ/わたしは神」と圧倒的な力をお示しになります。アッシリアの侵攻あるいはバビロン捕囚はどちらも民が悔い改めなかったために及んだことですが、主の憐れみによって遣わされた預言者によってイスラエルが奇跡的に救い出されたこともありました(列王下19章ほか)。
 イザヤを彷彿させるヨハネの出現により、ユダヤの人たちの大勢が罪の告白とともに悔い改めを示すバプテスマを受けました。ヨルダン川に身を浸すため、身一つになって神の前に明け渡すのです。身分の高い者も低い者も神の前に等しく扱われます(ルカ1:52)。

 バプテスマを授けていたヨハネとしては、「後から来られる方」を迎えるための働きだったはずでした(7)。神の御子が世に来られ、公に現れようとしています。まもなくその時が来ると知って、神の国は近づいた、目と鼻の先まで来ていると訴えたのです。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ3:10)と尻に火が付くようです。
 そして常々ヨハネはこのように証ししていました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。(中略)わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:7-8)

 事実ヨハネより優れた方が後から来られ、罪人と同じくヨルダン川でバプテスマを受けられした。その時ある者たちは天から声、父なる神の声を聞きました。まさしく神の国がここに現れたのです。けれども国も世の中も何も変わらず、これまでどおりでした。
 この方がすべての罪の身代わりとして十字架に架かってくださった時も、ローマ兵が「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と言ったところで、ユダヤの国やローマ帝国に大きな変化があったでしょうか。復活から40日経ってこの方が天に昇って帰られたことも、その後に弟子たちへ聖霊が下ったことも、確かに不思議な出来事でした。しかし神の国の出現や神の裁きを見ることはなく、むしろ教会への迫害が強まるばかりでした。

 ある人たちはこう言いました。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(ペトロ二3:4)。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです(同9節)。
 荒れ野で叫ぶ者の声が聞こえますか。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。独り子なる神もまた、人として世にお生まれになり、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と私たち一人一人を招いてくださいました。ですから私たちは神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。

<結び> 
 早いもので今年もあと半月を残すばかりとなりました。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(ペトロ二3:8)との使徒ペトロの言葉が身に沁みます。
 この世はクリスマスの本当の意味を知らずにお祭り騒ぎかもしれませんが、しかしわたしたちは独り子なる神が救い主として世にお生まれになったことを知っています。そして再び天から来られ、私たちの救いを完成してくださるのです。

 主の昇天から間もなく2000年が経とうとしています。再び来られる主の日は盗人のようにやって来ます。私たちは困難やこの世の闇に打ち勝つ救い主のお生まれを祝いつつ、いよいよ神の国を待ち望みましょう。

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