「安らぎを得られる」マタイによる福音書11章25-30節
2022年元旦礼拝
牧師 武石晃正
新年おめでとうございます。主の2022年を迎えるにあたり、公の礼拝として皆さんと共に神様の御前に出られる恵みをありがたく思います。
昨年2021年を振り返りますと、敬愛する方々が御国へと凱旋され、主の御もとで安らいでいると知ってはおりますが一抹の寂しさはぬぐい切れないものです他方で、大病を患いまさに死の淵まで及ぼうかというところから、文字通り奇跡的に神様が快復させてくださった恵みもありました。
世の中では新型コロナウィルスの世界的流行の発生から2年目を過ぎ、ワクチン接種が進む傍らで変異株の脅威という不安が絶えない1年間でした。それでも主なる神様は憐れみ深く私たちに臨んでくださり、ある程度の自粛や制限はあったものの主の日毎に礼拝をささげることを赦してくださいました。
今年も礼拝から始まる1年を御前に整えようとしております。教会暦は主のご降誕を祝うクリスマスをもって1周しますが、私たちの生活の暦は元旦をもって年が改まります。教会はキリストの体ですからキリストに仕えるための暦と、地上にある体として生きるための暦との2つの暦によって歩みます。
教会を通してキリストに連なる一人一人もまた「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」(コリント一15:54)まで、2つの暦の間で生かされています。クリスマスにおいてイエス様を心の中心にお迎えし、元旦をもって改めて御言葉の上に立たせていただく思いです。
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牧師 武石晃正
新年おめでとうございます。主の2022年を迎えるにあたり、公の礼拝として皆さんと共に神様の御前に出られる恵みをありがたく思います。
昨年2021年を振り返りますと、敬愛する方々が御国へと凱旋され、主の御もとで安らいでいると知ってはおりますが一抹の寂しさはぬぐい切れないものです他方で、大病を患いまさに死の淵まで及ぼうかというところから、文字通り奇跡的に神様が快復させてくださった恵みもありました。
世の中では新型コロナウィルスの世界的流行の発生から2年目を過ぎ、ワクチン接種が進む傍らで変異株の脅威という不安が絶えない1年間でした。それでも主なる神様は憐れみ深く私たちに臨んでくださり、ある程度の自粛や制限はあったものの主の日毎に礼拝をささげることを赦してくださいました。
今年も礼拝から始まる1年を御前に整えようとしております。教会暦は主のご降誕を祝うクリスマスをもって1周しますが、私たちの生活の暦は元旦をもって年が改まります。教会はキリストの体ですからキリストに仕えるための暦と、地上にある体として生きるための暦との2つの暦によって歩みます。
教会を通してキリストに連なる一人一人もまた「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」(コリント一15:54)まで、2つの暦の間で生かされています。クリスマスにおいてイエス様を心の中心にお迎えし、元旦をもって改めて御言葉の上に立たせていただく思いです。
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1.安らぎを得られる軛
朗読いたしました箇所の中でも28節以下は暗唱あるいは愛唱されている方が非常に多いことでしょう。洋の東西に関わらずイエス様のお言葉をいただいて生きる者たちが、どれだけ慰められ支えられたことでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とのお言葉によってイエス様に全てを委ねることができたという方を何人か知っておりますし、私もまたそのひとりです。
前後の文脈はありますが、今日はイエス様がおっしゃるところの軛(くびき)というものについて取り上げて参りましょう。軛とは牛や馬などの家畜に荷車などを牽かせるために2頭の頸(くび)を連結させる器具です。
まだ十分に馴らされていない若い家畜は頸にこの木製の太い器具が据えられることを嫌がります。繋がれているのに思うままに動こうとするのでますます窮屈な思いをするのです。ところがよく馴らされている牛と一緒に繋がれると、その若い牛も軛を負いやすくなるそうです。
馴れていない者同士が繋がれたらどうなるでしょうか。体が大きく力のあるほうが首をもたげてぐいぐいと進めば、弱い者は無理やり引っ張られて苦しい思いをするでしょう。引っ張るほうもまた頸や肩が軛で擦れて痛い思いをするのです。
もしイエス様が「私は神の子だ」と首をもたげるなら、罪人であり弱さを負っている私たちは到底ついて行くことができないでしょう。あるいは迷いやすく時に疲れを覚える者に対して「私が道だ」とご自分の歩みを強いるなら、繋がれた者は軛を負うどころか引きずられてぼろぼろになってしまうでしょう。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(29)とイエス様は言われます。柔和な方なので罪のない方であるのに罪人と同じ高さまで首を下ろしてくださるのです。私たちの気持ちがうなだれてしまうときには、同じく地面に鼻先がついてしまうほどまでうなじを垂れてくださるのです。
謙遜な方なので杓子定規にまっすぐ進むのではなく、私たちの迷いに沿いながらも正しい道へと連れ戻してくださいます。苦しい目や痛い目に遭ったら二度と軛を負いたくないと思うかもしれませんが、「柔和で謙遜な者」から学ぶことで軛を苦しまずに負うことができるようになります。
軛の負いかたを学ぶとどうして安らぎを得られるのでしょうか。「疲れた者、重荷を負う者」はどのような負いかたをしていたと思われますか。荷役の家畜であれば一頭の背中に詰めるだけの荷を負わされているようなものです。人間であれば他人から負わされるものもありますし、自分で背負い込んでしまっているものもあるでしょう。
たとえ鞍をつけたとしても一頭の背に負わせることができる荷は限りがあります。しかも水や草をもらうときに歩みを止めたとしても、背中に重荷は載ったままなのです。軛がないので思うように首を振ることができますし、自分の歩調で歩くことができますから、ある意味では自由だと言えるでしょう。けれども長続きせず、疲れを覚えるのです。
自分の人生ですから他人に背負ってもらうことはできませんし、いくら重くても自分で荷を負わなければならないわけです。けれどイエス様の軛を負うことで同じ重荷でも荷は軽くなるのです。背負って来た重荷を一旦降ろして軛がかけられます。多少の窮屈はありますが、重荷は荷車に積まれていますから肩の荷は軛の重さだけということです。しかもイエス様が一緒に負ってくださるので軛の重さも半分ですから、とても軽くなりました。
荷を牽いているときは確かに重くて苦しいこともあるでしょう。軛で車を牽いていますから、これまでに自分が背負っていたよりも多くの荷を積まれることもありましょう。それは時に神様のご用であったり、時に迫害などの困難であったりします。
信仰の長い方であれば「自分がもしクリスチャンでなかったらこんな苦労や悩みなんか抱えなくて済んだのに」と思った場面は一度や二度ではないかと思います。確かにイエス様の軛を負うことがなければ余計な荷を牽かされることはなかったかもしれませんが、自分自身の重荷すら満足に背負えない者でもありました。
たとえ私が道なりに進むことができないような者であっても、イエス様は柔和な方なので同じ軛に繋がれて一緒に歩んでくださいます。時に悩みや悲しみによって私がうなだれるようなことがあっても、イエス様は謙遜な方なので同じくうなじを垂れてくださいます。重荷そのものは減ることがないとしても、軛は負いやすく、荷は軽く、安らぎを得られるのです。
2.わたしのもとに来なさい
この1,2年はコロナ禍において多くの人々が慢性的に不安と疲れを覚えていることです。また安らぎを得られないということに関連しては、近年では「生きづらさ」という言葉を耳にします。このような時代において「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」とのイエス様のお招きはどのように響くでしょうか。
教会においては予防のため密を避けて人と人との間隔を保つことは必要ですし、健康上の不安から礼拝堂に来ることができない方への配慮も続けていくことになります。インターネット上での配信によって普段は教会に来られない方が聖書の言葉を聞くことができるようにもなりました。その傍らで世間では特に若い世代を中心に「コロナ疲れ」「リモート疲れ」とも言われます。このような「重荷」を人々がイエス様のもとに降ろせる場所として、これからの教会はその役割を担うことになりましょう。
既にイエス・キリストを自分の救い主として信じ、キリストの弟子となっている方はイエス様の負いやすい軛をいただいていることです。主の日毎の礼拝を中心に聖徒の交わりを大切にし、互いに祈り労わり支え合うことで私たちは安らぎを得られます。
公の礼拝として門戸を開いているときに、イエス様が招いておられる方が教会に足を運ばれることもあるでしょう。しばらく休まれていた方や足が遠のいていた方を主が励まして連れ戻してくださることもあります。キリストの体である教会がイエス様のように柔和で謙遜な者であるとき、これらの方々も重荷から解かれて安息を得られるでしょう。
全く新しい方が見えることもあります。路傍伝道などが制限されているので、かつてのように配られたトラクトを握ってやってくるという方は稀でしょう。ホームページやオンライン配信を見て来られますから、ほとんどが私たちと全くの初対面です。礼拝堂に見ず知らずの人々が増えると落ち着かない気持ちになることもありますが、見ず知らずなのは1回目だけです。
最初のうちは私たちが互いに見慣れない者だとしても、イエス様はそれぞれを皆よく知っておられます。イエス様がこの方を「わたしのもとに来なさい」と招かれたので、教会もキリストの体としてイエス様に代わって軛をともに負うのです。
<結び>
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様が招かれます。教会には疲れた人や重荷を負っている人ばかりが来ることになるでしょう。
イエス様を信じている者でも時には疲れますし、時には重荷を背負いこんでしまうこともあります。その時はもう一度お言葉を思い出して、重荷ではなくイエス様と繋がれる軛を負わせていただきましょう。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」
イエス様から学ぶので、私たちは柔和で謙遜な者としてイエス様の軛を負うことができます。主が「わたしのもとに来なさい」と招かれている人たちを私たちは歓迎します。
2022年の初めにあたり、主が宇都宮上町教会を通して、信徒お一人一人とそのご家族ご近親の皆さまに、負いやすい軛と安らぎとを賜りますことをお祈りいたします。
朗読いたしました箇所の中でも28節以下は暗唱あるいは愛唱されている方が非常に多いことでしょう。洋の東西に関わらずイエス様のお言葉をいただいて生きる者たちが、どれだけ慰められ支えられたことでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とのお言葉によってイエス様に全てを委ねることができたという方を何人か知っておりますし、私もまたそのひとりです。
前後の文脈はありますが、今日はイエス様がおっしゃるところの軛(くびき)というものについて取り上げて参りましょう。軛とは牛や馬などの家畜に荷車などを牽かせるために2頭の頸(くび)を連結させる器具です。
まだ十分に馴らされていない若い家畜は頸にこの木製の太い器具が据えられることを嫌がります。繋がれているのに思うままに動こうとするのでますます窮屈な思いをするのです。ところがよく馴らされている牛と一緒に繋がれると、その若い牛も軛を負いやすくなるそうです。
馴れていない者同士が繋がれたらどうなるでしょうか。体が大きく力のあるほうが首をもたげてぐいぐいと進めば、弱い者は無理やり引っ張られて苦しい思いをするでしょう。引っ張るほうもまた頸や肩が軛で擦れて痛い思いをするのです。
もしイエス様が「私は神の子だ」と首をもたげるなら、罪人であり弱さを負っている私たちは到底ついて行くことができないでしょう。あるいは迷いやすく時に疲れを覚える者に対して「私が道だ」とご自分の歩みを強いるなら、繋がれた者は軛を負うどころか引きずられてぼろぼろになってしまうでしょう。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(29)とイエス様は言われます。柔和な方なので罪のない方であるのに罪人と同じ高さまで首を下ろしてくださるのです。私たちの気持ちがうなだれてしまうときには、同じく地面に鼻先がついてしまうほどまでうなじを垂れてくださるのです。
謙遜な方なので杓子定規にまっすぐ進むのではなく、私たちの迷いに沿いながらも正しい道へと連れ戻してくださいます。苦しい目や痛い目に遭ったら二度と軛を負いたくないと思うかもしれませんが、「柔和で謙遜な者」から学ぶことで軛を苦しまずに負うことができるようになります。
軛の負いかたを学ぶとどうして安らぎを得られるのでしょうか。「疲れた者、重荷を負う者」はどのような負いかたをしていたと思われますか。荷役の家畜であれば一頭の背中に詰めるだけの荷を負わされているようなものです。人間であれば他人から負わされるものもありますし、自分で背負い込んでしまっているものもあるでしょう。
たとえ鞍をつけたとしても一頭の背に負わせることができる荷は限りがあります。しかも水や草をもらうときに歩みを止めたとしても、背中に重荷は載ったままなのです。軛がないので思うように首を振ることができますし、自分の歩調で歩くことができますから、ある意味では自由だと言えるでしょう。けれども長続きせず、疲れを覚えるのです。
自分の人生ですから他人に背負ってもらうことはできませんし、いくら重くても自分で荷を負わなければならないわけです。けれどイエス様の軛を負うことで同じ重荷でも荷は軽くなるのです。背負って来た重荷を一旦降ろして軛がかけられます。多少の窮屈はありますが、重荷は荷車に積まれていますから肩の荷は軛の重さだけということです。しかもイエス様が一緒に負ってくださるので軛の重さも半分ですから、とても軽くなりました。
荷を牽いているときは確かに重くて苦しいこともあるでしょう。軛で車を牽いていますから、これまでに自分が背負っていたよりも多くの荷を積まれることもありましょう。それは時に神様のご用であったり、時に迫害などの困難であったりします。
信仰の長い方であれば「自分がもしクリスチャンでなかったらこんな苦労や悩みなんか抱えなくて済んだのに」と思った場面は一度や二度ではないかと思います。確かにイエス様の軛を負うことがなければ余計な荷を牽かされることはなかったかもしれませんが、自分自身の重荷すら満足に背負えない者でもありました。
たとえ私が道なりに進むことができないような者であっても、イエス様は柔和な方なので同じ軛に繋がれて一緒に歩んでくださいます。時に悩みや悲しみによって私がうなだれるようなことがあっても、イエス様は謙遜な方なので同じくうなじを垂れてくださいます。重荷そのものは減ることがないとしても、軛は負いやすく、荷は軽く、安らぎを得られるのです。
2.わたしのもとに来なさい
この1,2年はコロナ禍において多くの人々が慢性的に不安と疲れを覚えていることです。また安らぎを得られないということに関連しては、近年では「生きづらさ」という言葉を耳にします。このような時代において「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」とのイエス様のお招きはどのように響くでしょうか。
教会においては予防のため密を避けて人と人との間隔を保つことは必要ですし、健康上の不安から礼拝堂に来ることができない方への配慮も続けていくことになります。インターネット上での配信によって普段は教会に来られない方が聖書の言葉を聞くことができるようにもなりました。その傍らで世間では特に若い世代を中心に「コロナ疲れ」「リモート疲れ」とも言われます。このような「重荷」を人々がイエス様のもとに降ろせる場所として、これからの教会はその役割を担うことになりましょう。
既にイエス・キリストを自分の救い主として信じ、キリストの弟子となっている方はイエス様の負いやすい軛をいただいていることです。主の日毎の礼拝を中心に聖徒の交わりを大切にし、互いに祈り労わり支え合うことで私たちは安らぎを得られます。
公の礼拝として門戸を開いているときに、イエス様が招いておられる方が教会に足を運ばれることもあるでしょう。しばらく休まれていた方や足が遠のいていた方を主が励まして連れ戻してくださることもあります。キリストの体である教会がイエス様のように柔和で謙遜な者であるとき、これらの方々も重荷から解かれて安息を得られるでしょう。
全く新しい方が見えることもあります。路傍伝道などが制限されているので、かつてのように配られたトラクトを握ってやってくるという方は稀でしょう。ホームページやオンライン配信を見て来られますから、ほとんどが私たちと全くの初対面です。礼拝堂に見ず知らずの人々が増えると落ち着かない気持ちになることもありますが、見ず知らずなのは1回目だけです。
最初のうちは私たちが互いに見慣れない者だとしても、イエス様はそれぞれを皆よく知っておられます。イエス様がこの方を「わたしのもとに来なさい」と招かれたので、教会もキリストの体としてイエス様に代わって軛をともに負うのです。
<結び>
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様が招かれます。教会には疲れた人や重荷を負っている人ばかりが来ることになるでしょう。
イエス様を信じている者でも時には疲れますし、時には重荷を背負いこんでしまうこともあります。その時はもう一度お言葉を思い出して、重荷ではなくイエス様と繋がれる軛を負わせていただきましょう。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」
イエス様から学ぶので、私たちは柔和で謙遜な者としてイエス様の軛を負うことができます。主が「わたしのもとに来なさい」と招かれている人たちを私たちは歓迎します。
2022年の初めにあたり、主が宇都宮上町教会を通して、信徒お一人一人とそのご家族ご近親の皆さまに、負いやすい軛と安らぎとを賜りますことをお祈りいたします。