「神と人とに愛された」ルカによる福音書2章41-52節
2022年1月2日
牧師 武石晃正
明けましておめでとうございます。昨日は元旦礼拝を主の御前にお捧げいたしましたが、主の日毎の礼拝は本日より2022年を迎えます。
昨年を振り返りますと、2021年も敬愛する方々を御国へ見送りましたので何とも言えない寂しさを感じるところであります。他方で、大病により入院され生死の境をさまよわれた方が、奇跡的な癒しの恵みにあずかって生還されたことも記憶に新しいことです。
新型コロナウィルスの爆発的な流行の発生から2年が経ち、今もなお変異株の脅威という不安をぬぐえない毎日です。それでもこの2年間は主なる神様が特別に憐れみ深く臨んでくださり、私たちは公の礼拝を欠かすことなく歩ませていただきました。神様の豊かな恵みであるとともに、礼拝者の皆さんのご理解ご協力をもって感染予防が徹底されたことによることと深く感謝を申し上げます。
さて教会暦ではクリスマスから新たな1年を数えまして、本日は降誕節第2主日となっております。降誕節は独り子なる神が全き人としてこの世を歩まれたことを特に覚える期間です。人として歩まれたイエス様のお姿をルカによる福音書からお読みいたします。
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牧師 武石晃正
明けましておめでとうございます。昨日は元旦礼拝を主の御前にお捧げいたしましたが、主の日毎の礼拝は本日より2022年を迎えます。
昨年を振り返りますと、2021年も敬愛する方々を御国へ見送りましたので何とも言えない寂しさを感じるところであります。他方で、大病により入院され生死の境をさまよわれた方が、奇跡的な癒しの恵みにあずかって生還されたことも記憶に新しいことです。
新型コロナウィルスの爆発的な流行の発生から2年が経ち、今もなお変異株の脅威という不安をぬぐえない毎日です。それでもこの2年間は主なる神様が特別に憐れみ深く臨んでくださり、私たちは公の礼拝を欠かすことなく歩ませていただきました。神様の豊かな恵みであるとともに、礼拝者の皆さんのご理解ご協力をもって感染予防が徹底されたことによることと深く感謝を申し上げます。
さて教会暦ではクリスマスから新たな1年を数えまして、本日は降誕節第2主日となっております。降誕節は独り子なる神が全き人としてこの世を歩まれたことを特に覚える期間です。人として歩まれたイエス様のお姿をルカによる福音書からお読みいたします。
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1.イスラエルの「正しい人」の息子イエス
ルカによる福音書は使徒パウロの同行者であるルカがテオフィロという人物に宛てたイエス・キリストについての報告書として書かれています(1:3)。ルカ自身はイエス様にお会いする機会はなかったようですが、綿密に調査をして福音書を記しました。
同じく福音書を記した人でもマタイのようにイスラエルの地で生まれたユダヤ人にとっては、ユダヤの掟や祭りあるいは地理などは生まれ育った文化の中ですので特に断りなく取り上げることができます。逆に非ユダヤの文化圏で筆を執るルカは、彼自身も丁寧に聞き取りを行ったでしょうし、読み手に対しても説明を補いながら出来事を書き記しているという特徴があります。ユダヤ人にとっては当たり前の習慣を言葉にして著しています。
「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」とルカは記していますが、ユダヤの人たちであれば「年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない」(出23:17)との掟がありますから当然のようにエルサレムへ上るのです。マタイは「正しい人」と呼ぶことで、マリアの夫ヨセフが過越祭の規定もその他の掟もきちんと守っていたことを言い含めています。ですから「(イエスの)両親は」というルカの記述はマリアとヨセフが特に熱心に毎年巡礼したということではなく、彼らがユダヤのご多分に漏れずに過越祭を守ったという意味合いになります。
13歳になるとユダヤの男の子は宗教上の成人とされます。成人の儀式をエルサレムで受けるため、その年に13歳になる男の子たちが会堂ごとに集められ、過越祭の巡礼に併せて都へ上りました。「イエスが十二歳になったとき」とは、イエス様が成人式を受けて神殿の境内に入れるようになった年ということです。儀式を終えて一人前になった少年たちは神殿の境内に集められ、お祝いのもてなしを受けたり掟の心得を教えられたりと親たちから離れて祭りの期間を過ごしたそうです。
ですから「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった」ということは決して不思議なことではなく、親子それぞれ別の集団で帰路についたなら十分に起こり得ることです。行って戻って3日目に両親が迎えに来たわけですが、それまで少年イエスが無事だったのはユダヤの人たちの兄弟愛の篤さを物語っています。
12歳の少年が神殿の境内で学者たちの真ん中に座って話を聞いたり質問したりしていたということですが、親から離れて3日間もそこにいたとは驚きです。成人式を終えたばかりの少年たちの面倒を見ている中で、気のいいおじさんたちが受け答えに優れた利発な子に目をかけて可愛がっていたということでしょう。
聞いていた人たちの驚きようも大きかったと思われますが、3日かかって息子を見つけ出したときの両親の胸中はいかほどかと察します。ヨセフは呆れて物も言えなかったのでしょうか、母マリアが先に口を開きます。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
ここでマリアはヨセフのことを「あなたの父」と呼んでいます。あのクリスマスから12年、天使のお告げから13年です。イエス様の後に弟や妹たちが生まれていますから、ヨセフとマリアの間の子たちもいるわけです。ヨセフにとってイエス様は血のつながっていない子どもでしたが、分け隔てなく大切に育てた様子がマリアの言葉から伝わります。ヨセフがどれほどの愛をマリアと幼子に注いだのか、天の父に代わって御子の保護者の務めを十分に果たしたことを推して知るところです。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(1:35)と天使のお告げのとおりにマリアは子を宿し、イザヤの預言のとおりイエス様はベツレヘムで生まれました。しかしマリアがヨセフをイエスの父と呼んだことから、幼子は人として当たり前の育ち方をしたことが分かります。神の霊によって生まれた神の子であっても、この世においては特権を持ち合わないということです。
この後イエス様は両親であるヨセフとマリアといっしょにナザレへ帰ります。「両親に仕えてお暮らしになった」とあるように、あの幼子は父ヨセフと母マリアの愛情を注がれて成人を迎えました。ユダヤの掟において「正しい人」の息子は「あなたの父母を敬え」をはじめとする律法を全うして歩まれました(出20:12)。
こうして「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とルカは少年期のイエス様について結びます。神の子であっても人として生まれたので、人の生きる時間に沿って歩まれました。キリストの体である教会もまた相応しい時間をかけながら成長し、整えられるものです。
神の子として神から愛され、人の子として人から愛されたイエス様のお姿です。キリストによって神の子とされた私たちも、神と人とに愛される者と変えていただくのです。
2.神と人とに愛される
神と人とに愛されるに越したことはないのですが、果たしてそれは口で言うほど容易いことなのでしょうか。「信じる者には何でもできる」(マルコ9:23)とイエス様のお言葉もありますので、できないことではないでしょう。神に愛されることと人に愛されることに分けながら考えてみます。
神に愛されるということは生きている上で最高に幸せなことでしょう。イエス様は聖霊によって宿られた独り子なる神ですから、天の父に愛されることは疑いようのないことです。ところが私たち人間は罪の世において罪の性質をもって生まれた者ですので、罪や汚れを負ったままでは神様の愛から遠ざけられています。
聖書に登場する律法学者やファリサイ派の人たちは律法の行いや言い伝えを守ることで自らを義、つまり罪がないきよめられた者と考えていました。しかし罪の中にある者がどれほど己の身を清めようとしても、それはどぶや肥溜めに落ちた者が自分の手で顔に付いた汚れを拭おうとするようなものです。神に受け入れられるには程遠いどころか、正反対の結果となります。
神の子であることだけが神様に愛される唯一の確証です。「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)と聖書にありますから、イエス・キリストを救い主として信じた者は神の子としていただけるのです。神様は憐れみによって私たちを救ってくださり、この救いとは私たちを聖霊によって新しく生まれさせるものです(テトス3:5)。
聖霊によって生まれた者は人であっても神の子であると、イエス様ご自身がお生まれになって示してくださいました。ただしイエス様もまた「知恵が増し、背丈も伸び」と言われているように年月をかけて成長されました。聖霊をいただけば瞬時に神の子とされますが、神の子とされた人もまた時間をかけながら神の愛をその身に受けてゆくのです。
人に愛されたイエス様のお姿はエルサレム神殿の境内に見ることができましょう。両親が帰路についてから3日間、実際にはその前から人々に囲まれて可愛がられていました。
賢い受け答えをしていたので皆が驚き感心しましたが、もしも「私は神の子だから当然です」などと胸を張っていたら事情が違ったと思われます。まして「モーセに律法を授けたのは私ですから、私が皆さんにお教えしましょう」とか「私は救い主メシアですから時が来ればあなたがたを救ってあげます」などと言い始めたら大変です。学者たちは両親を呼び出して、この子の躾について問いただすことになったでしょう。
イエス様は罪を犯すことはありませんでしたが、神の子としての特権を振りかざすことなく人として歩まれました。湖の上を歩くことができる方なのに、自分のために舟を出すよう漁師たちに頼みました(5:3)。お言葉ひとつで岩から水を出すことができるのに、「水を飲ませてください」とサマリアの女に頼んだこともありました(ヨハネ4:7)。
ご存じのとおり多くの奇跡をなさいましたが、それらはイエス様自身の必要のためではなく、神から遣わされたメシアであることを示すためのわざでした。普段は何かをしてあげるという上からの強い姿勢ではなく、人の助けを借りなければならないという弱さを神の子は人々の前でお示しになったのです。立場や権利を誇示すれば愛ではなく力による支配が生じますが、神の子は柔和と謙遜によって人から愛されるのです。
<結び>
「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(25)
聖霊によって宿りおとめマリアより生まれた救い主は、両親に育てられ、私たちと同じように年月を重ねて人として歩まれました。神の子だからといって一足飛びに大人になったわけでもなく、「正しい人」の息子としてユダヤ人らしく成長されました。
この方はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです(ヘブライ4:15)。この方を信じる者は聖霊によって新しく生まれるので、人であってもイエス様と同じように神の子として神の御前に生きることができるのです。
キリストの体である教会も、その枝である私たち一人一人も、「神と人とに愛された」と振り返ることができる1年を歩ませていただきましょう。