「イエスの洗礼」マルコによる福音書1章9-11節
2022年1月9日
牧師 武石晃正
クリスマスから受難節までの期間を降誕節と数え、主の日毎の礼拝では主に人として世を歩まれたイエス・キリストに思いを寄せます。イエスとは誰なのか、神の子である者が地上を生きるとはどのようなものであるかを私たちは知るのです。
この期間を通して肉体を持たれた神の子の姿を見、またキリストに似る者とされる恵みを受けましょう。本日はマルコによる福音書より「イエスの洗礼」と題してお話を進めて参ります。
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牧師 武石晃正
クリスマスから受難節までの期間を降誕節と数え、主の日毎の礼拝では主に人として世を歩まれたイエス・キリストに思いを寄せます。イエスとは誰なのか、神の子である者が地上を生きるとはどのようなものであるかを私たちは知るのです。
この期間を通して肉体を持たれた神の子の姿を見、またキリストに似る者とされる恵みを受けましょう。本日はマルコによる福音書より「イエスの洗礼」と題してお話を進めて参ります。
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1.イエスが受けた洗礼
新約聖書には福音書が4つ収められており、そのうちマタイ、マルコ、ルカの3つについて共観福音書と呼ばれています。共観とは共通の見解という意味ですので、筆者によって多少の差異はあってもだいたい同じ出来事が扱われています。右目と左目とで見える角度が違うので立体感や奥行きを感じられるように、2,3の福音書を照らすことでイエス様や弟子たちについてより深く知ることができるのです。
共観福音書でもマルコによる福音書はもっとも短く、一つ一つの出来事についてもとても手短に記されています。イエス様のご降誕については触れておらず、当時ユダヤで広く知られていた洗礼者ヨハネから始まります。時代を代表する著名人を挙げることで、年代や世相などが連想されるのです。懐かしの歌手や俳優の名前や写真を見た時に、平成生まれの若者であっても「ああ、昭和の頃ね」と見当がつく時代感覚に通じます。
洗礼者ヨハネについてはマタイによる福音書がその教えについてマルコより詳しく扱っています。彼の活動の様子についてはヨハネによる福音書を読むと前後の話も知ることができます。このヨハネはユダヤの荒れ野に現れて「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説いては、罪の赦しを得させるために人々へ悔い改めのバプテスマを授けていました。
新共同訳聖書では漢字で洗礼と書いたところへカタカナでバプテスマと振ってあります。もともとは水に浸すという動詞から転じたことばで、きよめのために器などを水の中へ沈める儀式あるは所作でした。人々が罪からきよめられるべくヨハネはバプテスマを授けていたのですが、そこへ何と救い主メシアその人が来られたので大変です。罪の赦しを得るための悔い改めであるのに、独り子である神は悔い改める罪など一切ないお方です。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と戸惑うヨハネでしたが、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様に押し切られてしまいます(マタイ3:15)。罪があろうとなかろうと、神ご自身がこれをせよと仰るのでは断りようもないことです。言われるままにヨハネはイエス様のお身体をヨルダン川へと沈めてバプテスマを授け、水の中から起こしあげました。
ヨルダン川という川は、かつてエジプトより脱出してから40年も荒れ野をさまよったイスラエルが、とうとう約束の地カナンへ入るというときに渡った川です(ヨシュア3章)。現代では灌漑などのために川の水は汲み上げられ小川のようになってしまったそうですが、その昔は季節によっては堤を越えんばかりに満ちていた豊かな川でした。
エジプトを出たときに成人していた古い人たちは神様の前に罪を犯したので死骸を荒れ野にさらしました。新しく生まれた世代が彼らに替わってヨルダン川を渡り、カナンの地という神様の約束を得たのです。ヨハネが授けたバプテスマは、荒れ野で声を聞いた者が罪を悔い改め古い自分に死んで、ヨルダン川を通って神様の前に生かされるというしるしでした。
川に沈められた者が水の中から引き起こされ、罪に対して死んだ者が新しい人として生まれ変わります。バプテスマという語が浸すという動詞に語源を見るとしても、沈めることが目的ではなく水の中から上げられることに意義があるのです。新生児が水の中から取り上げられるように、バプテスマは神の子として新しく生まれたことを象徴します。
イエス様は生まれながらに神の子、生まれる以前から独り子である神でありましたが、川から上がられるや天が裂けて神の霊が降ってきました。水から上がった者が息を吸い、生まれた赤子が産声を上げるように、神の子は神の霊によって生きるのです。
水の上を神の霊が鳩のように飛ぶ様は、天地創造(創世記1:2)と新しい契約の始まり(同8:9-12)を暗示します。そこへ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天の父なる神様の声が聞こえました。父と子と聖霊によるバプテスマは、罪のない方が罪人としてお受けになられたことで、罪人をも天地創造のみわざによって罪なしと新たに生まれさせるのです。
2.バプテスマと主の晩餐
ヨハネのバプテスマは、その人が罪を悔い改めて神の前に生かされるという赦しを得させるものでした。また実質的にはヨハネの教えを奉じる者として一門に下ることを意味します。「履物のひもを解く」(7)との主従関係をヨハネは言い含めていますので、師匠が弟子に白と言えば白、黒と言えば黒という明確な上下関係が神の御前にあるのです。ですから内心では従う気がないのに形式だけバプテスマを受けようとする者たちがやって来た時には、ヨハネは彼らを厳しく責めて門前払いにしたこともありました(マタイ3:7)。
実際のところイエス様も門下生として師匠に倣って荒れ野に身を置かれ、40日40夜を過ごされました(11,12)。荒れ野から戻られたイエス様は、ヨハネから譲り受けた幾人かの弟子とともにその一派としてバプテスマを授けていた時期もありました(ヨハネ3:22)。ガリラヤでの宣教も「悔い改めよ。天の国は近づいた」とヨハネの教えそのものでした。つまりバプテスマを受けることは教養として教えを聞くだけでなく、生き方においてもその一門において文字通りどっぷりと浸るということを意味します。
さてイエス様のバプテスマからしばらく時を下りまして、十字架と復活の後のお話です。ヨハネからバプテスマを引き継いだイエス様が、今度はご自分の弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19-20)とバプテスマを授ける権威をお委ねになりました。
この命令を細かく見ていきますと主たる命令は「弟子にしなさい」という動詞にあり、その内訳として「バプテスマを授け」と「すべて守るよう教える」と2つの分詞にかかっています。バプテスマについては先に述べておりますので、イエス様が「すべて守るように教える」ことのほうについても少し掘り下げてみましょう。
山上の説教をはじめ福音書にはイエス様の命令や教えがたくさん記されています。「わたしが来たのは律法や預言者を(中略) 廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と言われていますから、旧約の教えも含まれます。旧新約聖書を正典とし、福音を正しく宣べ伝えることがイエス様の「命じておいたこと」の一つです。
もう一つ使徒たちを通して教会が特別に守ってきた命令があります。それはパンを裂くことであり、使徒言行録には単なる食事とは別に扱われています(使徒2:42、20:7)。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とイエス様が特に重きをおいて「命じておいたこと」でした(ルカ22:19)。
パンを裂く前後にイエス様は弟子たちに杯を回し、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました(コリント一11:25)。パンも杯もどちらも「記念」ですから、これを守ることによって独り子である神と私たちとの間に救いの契約が成り立つのです。
このパンと杯による記念は使徒たちを経て教会にゆだねられ、主の晩餐あるいは聖餐式として執り行われます。ここでイエス様が使徒たちに与えたご命令「すべての民をわたしの弟子にしなさい」について整理すると、要点が三つ挙げられます。バプテスマを授けて弟子とすること、弟子となった者たちへ教えを説くことと、主の晩餐を守らせることです。
これらは使徒たちへの命令ですから、私たちとしては受ける立場で言い換えたほうが分かりやすいでしょう。バプテスマを授かってキリストの弟子とされ、みことばと主の晩餐との恵みによって生かされるということです。イエス様の前では履物の紐を解けるか解けないかという弟子の立場ですから、私たち個々人の希望や都合で受けたいから受けるのではなく、主がキリストの体である教会を通してこれらを授けてくださるのです。
「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ」との信仰告白は、イエス様の大命令を21世紀に生きる私たちが実現するものです。バプテスマによって弟子とされた者が裂かれたパンと杯を受けることで、キリストの体とその契約にあずかります。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(コリント一11:26)と使徒パウロが示すように、バプテスマにおいて主の死と再臨を自分の身に負うものがパンと杯にあずかります。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:21)との思いをもって、主の晩餐を味わいましょう。
<結び>
「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(11)
この出来事はイエス様ご自身においてもバプテスマを授けたヨハネの口からも、その場に居合わせた弟子たちからも事実として語り告げられました。聖霊によって宿りおとめマリアより生まれた方は、紛れもなく神の子でした。
父と子と聖霊の名によって授けられるバプテスマは使徒たちを経て教会に委ねられました。かしらであるキリストがバプテスマを受けられたので、体である教会もバプテスマの恵みにあずかります。
主イエスのバプテスマはこの方を信じた者が罪人であっても神の子とされ、聖霊によって新しく生まれたことを証しします。誰でもキリストを信じて新しく生まれた者はバプテスマを受けるのです。これからバプテスマを受けようする方々を主が豊かに祝福し、力強く導いてくださるよう祈ります。