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「キリストの弟子となる」マルコによる福音書1章14-20節

2022年1月16日
牧師 武石晃正

 今年の降誕節はマルコによる福音書を中心に、地上を生きられた神の子イエス・キリストについて思いを深めております。その名を信じる人々には神の子となる資格が与えられますので、神の子とされた者たちはイエス様が歩まれたお姿に倣って生きるのです。
 この方を信じて救いの恵みをいただいた者には大きく2つの資格があると言えましょう。一つは先に述べました神の子となる資格です。もう一つはイエス様に倣って生きるわけですから、キリストの弟子となる資格だと言えましょう。

 最初の弟子たちがイエス様に従った時の記事を通して、私たちがキリストの弟子となるということについて考えて参りましょう。

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1.最初の弟子たち(マルコ1:14-20)
 洗礼者ヨハネよりバプテスマを受けたイエス様は、父なる神様から御国の権威を授かった神の子としてご自身を公に現わされました。すると何ということか、それほど時を経ずしてヨハネが逮捕されてしまったのです。
 ヨハネの逮捕を機に彼の弟子集団は解散、弟子たちは出身地へ帰るとそれぞれの職業に戻りました。ところがイエス様はガリラヤ地方へ退いたものの、ナザレの大工にお戻りになることなく福音宣教の働きを始められました(14)。

 「悔い改めて福音を信じなさい」との教えは一世を風靡したヨハネに始まり、一大旋風を巻き起こしたナザレのイエスへ引き継がれ、後にその弟子たちに託されます。願いが聞かれたとか病が癒されたとか言うご利益信仰ではなく、福音には悔い改めが先に立ちます。利益を求めてきた者はただの群衆に、悔い改めて従った者は弟子となりました。
 ある日のこと、イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いておられると、二人の漁師が湖で網を打っているのを御覧になりました(16)。イエス様は故郷のナザレを離れてわざわざガリラヤ湖畔のカファルナウムに住まわれましたので、予めこの漁師たちをご存じで、見つけ出すために歩いておられたのです。このシモンと兄弟アンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子であり、ヨハネが彼らをイエス様に引き合わせていたのです(ヨハネ1:35-42)。

 イエス様が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われると、この2人はすぐに網を捨てて従いました(17,18)。更に進んでいくと同じく漁師であるゼベダイの子ら、ヤコブとヨハネをもイエス様は弟子に招かれました(19,20)。なんと網元である父とその雇い人たちを残して、この2人もまたイエス様に従ったというのです。
 ヨルダン川におけるヨハネの一門が解散した際に、この漁師たちはイエス様から予め活動再開を待つよう指示を受けていたのでしょう。一般の人であれば「人間をとる漁師にしよう」と言われても話が通じないところを、その時が来たことを示す合言葉のように彼らは知っていたのです。

 最初の弟子たちに3つの特徴を見ることができます。まず彼らは暇を持て余して面白半分について行ったのではなく、手に職を持って働いていたことです。これはイエス様におかれても、バプテスマを受けられるまでは大工として働かれていたことに通じます。次いで、彼らはみな既にみことばを聞いており、備えがあったことです。そして最も大切なことはイエス様が彼らを選び、お招きになったということです。
 この後もイエス様に従った者たちがおりますが、彼らもまた職業人でした。ヨハネを通して天の国が近づいたことを聞いており、イエス様のほうから彼らに近づいてくださったのです。イエス様がお選びになり招いて下さったので、キリストの弟子となることができました。

2.キリストの弟子となったパウロ(使徒9:1-9)
 最初の弟子たちの中からイエス様は12人を呼び寄せられ、使徒と名付けられました(3:14)。主は天に昇られた後、この使徒たちを土台としてご自分の教会をお建てになりました(エフェソ2:20)。教会はキリストの体として人々をイエス様の弟子とならせ、その勢いはある時には1日に3000人ほどが仲間に加わったほどでした(使徒2:41)。
 宣教の勢いが強まるにつれ、教会への迫害が強まります。エルサレムで最初の殉教者が出るや、大迫害のために弟子たちはユダヤとサマリアの地方に散らされました(使徒8:1)。

 その日エルサレムにいた者の中にサウロという男がおりました。彼は主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司から許可証を取り付けるために都に上っていたのです(9:1)。キリストの弟子が殉教者の死を悲しんでいる傍らで、サウロは教会を荒らしては男女を問わず牢に入れるために引きずり出していました。ですから教会の中でサウロの名が聞こえたならば、誰もが恐ろしさで身を震わせたことでしょう。
 サウロは悪意を持って教会を迫害していたわけではなく、彼らが神として拝んでいる対象が十字架という極刑に処せられた重罪人だということが許しがたい問題だったのです。彼はきっすいのユダヤ人として生まれ、ファリサイ派という一流の学派の教師であり、律法においては非の打ち所がない者でした。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)と命じられて育ったのですから、この方の名が冒瀆されるようなことがあれば全身全霊をもって排除したということです。

 神を畏れ敬い、行いにおいても掟に適い、責任感の強い善良な青年です。悔い改めなければならないような罪とは一切無縁なはずでした。ところがその途上においてサウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞くことになります(4)。
 そこで彼は急に目が見えなくなりました。当時のユダヤでは目が見えないということは本人か親か先祖が犯した罪に対する報いであると考えられていました。神様の前に正しくあることだけが生き甲斐のような男が、一転して神に呪われた罪人となったのです。

 失意のどん底、絶望の淵に落とされたサウロへ「あなたが迫害しているイエスである」と名乗る声が語り掛けます。「起きて町へ入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」とのお告げです。
 この後ダマスコの町に入ったサウロは回心してキリストの弟子となるわけですが、このようにイエス様はご自分が選んだ者を招くためにはどんな方法でもお用いになるのです。サウロが回心しなければキリストの弟子となることはありませんでしたが、主はご自身を迫害している者でさえお選びになって招かれました。

 これまでのサウロから見れば教会が、逆に教会から見ればサウロは、互いに神をも畏れぬ非道な者でした。しかし「天の国が近づいた」ことにより人の目から見た善悪ではなく、神様の正義がなされます。「なすべきことが知らされる」とは本人の意思によるのではなく、主がお入り用なので一人一人が召されているということなのす。
 回心においても宣教の道においても使徒パウロは本人が望まないような出来事、人から見れば不幸としか言えないような目に遭い続けました。イエス様は教会の人々が到底受け入れられないような人物さえもご自分の弟子となるように選びます。そしてときに教会が断固として猛反発することがあっても、パウロを用いるために別な道をも備えられました。

 「あなたのなすべきことが知らされる」との御声に従った者がキリストの弟子となるのです。イエス様はご自分が選んだ者を決して見放さず、どんな道をも備えてくださいます。
 
3.キリストの弟子となる
 弟子となるとは言うものの、弟子を取る側に主導権があるわけです。むしろイエス様が弟子としたいと思って声をかけておられるのに、本人が気づいていないこともあり得ます。
 あるいは自分のような者がキリストの弟子となるなどとんでもない、到底かなわないことだと思われる方もおられるでしょう。けれども私たちの思いに関わらずイエス様が一人一人を選び、必要とされるのです。

 エルサレムに入られる際にイエス様は見栄えのする立派な馬には乗らず、ロバの子に乗られたということがありました。そのロバを連れてくる際に弟子たちは「主がお入り用なのです」と持ち主たちに言いました。肝心なのは弟子たちの努力でも持ち主たちの気前よさでもなく、主がお入り用であるということです。
 湖の漁師にユダヤの教師が務まるでしょうか。異邦人や罪人たちと同列に見られていた徴税人が天の国の教えを口にするならば、人々からは神への冒涜だと罵られたでしょう。しかし主がお入り用なので、彼らはイエス様に弟子となるよう招かれたのです。

 教会への迫害者だとしても、主はお赦しになって弟子とされたのです。そしてキリストの体である教会も、この迫害者を受け入れました。同じく私たちがどんな罪人であろうとも、弟子にしようと決めておられるイエス様にとってそれらの罪は何の妨げにもならないのです。
 そして私たちが主なる神様への背きを悔い改めるなら、イエス様はすべての罪を帳消しにして赦してくださいます(マタイ18:27)。たとえあなたがかつてキリストの敵だったとしても、悔い改めてこの方の名を信じるなら神の子となる資格が与えられます。新しく生まれ変わり、キリストの弟子となるのです。

<結び>
 「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マルコ1:17-18)
 この漁師たちがこの日初めてイエス様を知ったわけではないように、今日ここに初めて来られたという方であってもこれまでにどこかでキリストの名を聞かれたはずです。それはイエス様のほうから既にあなたを招いて、弟子としようとされていたからです。

 キリストの弟子となるのですから、これから入門して色々と習い学んでいくのです。イエス・キリストを唯一の救い主として信じるなら、あなたも神の子となる資格が与えられます。キリストの弟子となって神の子として生きる道を一緒に歩みませんか。
 明日ではなく、今日、網を捨ててイエス様に従いましょう。

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