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「神の栄光を現わす体」マルコによる福音書1章40-45節

2022年1月30日
牧師 武石晃正

 礼拝の中で唱和いたします日本基督教団信仰告白において「教会は主キリストの体にして」と証しされます。人として地上にお生まれになった神の子イエス・キリストの歩みは、神の子となる資格を与えられた者たち一人一人が倣うべきものであり、主キリストの体である教会もまたこれに倣います。
 恵みによりて召されたる者たちが整えられるべく、その集いである教会の中で神の言葉である聖書が読まます。神の子とされて救われただけに留まらず、自分の体で神の栄光を現わすことができるなら信仰者としても教会としても豊かな実を結ぶことでしょう。

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1.御心ならば(マルコ1:40-45)
 ヨルダン川で洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたイエス様は、一旦ヨハネの門下に入ります。ヨハネが逮捕されたことで一門が解散すると、今度はイエス様ご自身が神の国の福音を宣べ伝えながら弟子を集めていかれました。
 ガリラヤのナザレでお育ちになったイエス様は、故郷を離れて弟子たちの住むカファルナウムへ移られました。このカファルナウムを中心に初期のガリラヤ宣教と弟子たちの訓練とが行われました。

 神の国の福音を宣教するにあたって、イエス様は行く先々で多くの病人を癒されました。旧約聖書の中には預言者たちが病人を癒したり死んだ者をよみがえらせたりと数多くの奇跡が記されています。イエス様は独り子である神ご自身ではありますが、預言者たちと同じく癒しのわざを行うことで神から遣わされた者であることを人々に示されたのです。
 ここへ重い皮膚病を患っている人がイエス様のところにやってきました。当時この病にかかった者はけがれた者とされ、この人が触ったか触られたかどちらであっても触れた者もけがれるとされていました。

 病を患っていたこの人はイエス様に願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。日本語で「御心ならば」と申しますと、御心でないかもしれないという遠慮を含んだ不確かな響きに聞こえるでしょうか。
 元の言葉を調べてみますと、この「御心ならば」は「あなたが望むこと」という語が用いられているようです。この人の意を汲めば「死に至る病に冒されている者をお見捨てになるなどあなたの御心ではないでしょう、この者をお癒しになることこそあなたの御心です」とも読みとれます。詩編にはこのような神様への嘆願がたくさん詠まれておりますので、この人にはイエス様が神から遣わされた方であると確信があったと分かります。

 お答えとして「よろしい」と訳されている部分は「わたしは望む」という動詞が用いられています。イエス様のお言葉が「あなたが清められることを私は望む」と力強く響きます。家臣の申出を承認した君主の姿のようにも映ります。王が発した勅令が必ず実現されるように、お言葉通りにその人は清くなったのです。
 この人の信仰は自分自身が癒されたいという以上に、この方がどなたであるのかをはっきりと告白したところにあります。天地創造において神様は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と人間を創られましたので、ご自分の似姿である者を病やけがれの中に見捨てておかれるはずがないのだという期待に満ちた信仰です。

 癒しは恵みですから求める者であればだれにでも与えられます。せっかく恵みを与えられるとしても、信じない者や疑う者はそれに気がつかないか受け取り損ねてしまうでしょう。イエス様は重い皮膚病を患っている人の信仰に応えられました。独り子なる神がご自分の民を通してその栄光を現わされたのです。

2.「重い皮膚病」について
 当時のユダヤではいろいろな病気は悪霊によるものであり、難病や障がいは本人あるいは先祖が罪を犯したことへの報いだと考えられていました。病気であるとか治ったとかの判断は神に仕える祭司たちに委ねられましたが、祭司たち自身できることは病気の癒しではなく判断を下すことだけでした。不治の病や難病あるいは障がいなどは人の手に負えないので、人知を超えた災いであると見なされていたことでしょう。
 その中でも本日の箇所にも挙げられている重い皮膚病と呼ばれる病については、律法の規定として旧約聖書の中に記されています(レビ13章)。ただしこの「重い皮膚病」と訳されている語はカタカナでツァラアトと音訳している翻訳もあるように、皮膚病に限ったものではなく衣服や建物に生じたかびにも用いられています(レビ14:34)。

 更には人体においても様々な症状があり、軽いものから重いものまで「重い皮膚病」と訳されているツァラアトとという語は含んでいます。近現代の医学であれば微生物などの病原によって病名をつけるところでしょうし、医学でも十分に研究がなされていないとか余地が残されている分野もあるでしょう。
 ツァラアトと音訳される「重い皮膚病」は軽いものであっても原因や治し方が分からず、悪性のものであれば人が命を落とす病です。律法が与えられたのは顕微鏡もない時代ですので、律法の規定と医学上の病名とを重ねることは難しいように思われます。手の施しようがないので隔離するしかなかったという事情もあったでしょう。しかしその後の時代において特定の疾患がこの「重い皮膚病」と結び付けられ、迷信的な偏見によって非常に大きな差別の対象となったことにとても心が痛みます。

3.主のためにある体(コリント一6:12-20)
 ガリラヤで重い皮膚病を癒されたイエス様は、清くなったその人に何を求めたでしょう。もし「この良いわざを人々に見せて、わたしが神から遣わされた者であることを伝えなさい」と命じれば、それを聞いた人々が大勢イエス様のところへ来るはずです。福音の宣教が一気に進められる格好の機会であるにも関わらず、何と「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意されました。

 「ただ、行って祭司に体を見せ、(中略) 人々に証明しなさい」(44)と祭司のところへ行くことを命じられました。神ご自身が清めを宣言したのですからそれ以上のことは必要ないはずですが、イエス様は地上においてユダヤ人として律法の規定に従ったのです。
 たとえ病が癒されたとしても祭司の宣言によって証明されなければ、人々はこの人をいつまでもけがれた者として扱うことでしょう。そうならないためにも、祭司に見せるまでは人々との接触を避けるようにとイエス様は戒められたわけです。せっかくの良いわざがなされても、手順を間違うことで台無しになっては勿体ないことです。

 ところで、イエス様が天に昇られた後のことです。地中海を囲むローマ帝国の世界に福音が伝えられ、教会が広がっていきます。ギリシャの因習が根強いコリントという町がありまして、そこでは教会の中にしばしば道徳的な混乱が生じました。
 神の子となる資格を与えられたのだから何をしても許されるという考え違いをした人たちがいました。確かにイエス様は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と仰いました。しかしここで使徒パウロは「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない」と戒めています(コリント一6:12)。

 ある人たちはせっかくキリストの弟子となったにも関わらず非常に不道徳で偶像に身を委ねるような行いに走りました。勿論これは第1世紀のコリントという町の特殊な文化背景おける問題だと言えましょう。とはいえ、そこまであからさまに悪いことではなくとも、赦しやきよめという言葉に隠れて私たち一人ひとりや教会の中に罪やけがれの問題が適切に処理されずに残ってしまうこともあり得るのです。
 イエス様に癒された人は自らを重い皮膚病であると明らかにしたので癒しを受けることができました。そして、病気だった体を祭司に見せて初めてきよめを証明できるのです。赦しにおいても、何が赦されたのか明らかにされて赦しが宣言されましょう。

 もちろん恥を受けたりさらし者にされたりしてしまったら、立ち帰る場所を失ってしまいます。そうならないためにも教会の中で悔い改めと赦しとが正しく取り扱われる必要があります。独り子である神が肉体をとることで、病人を癒すために手で触れてくださいました。教会は主キリストの体として、癒しと赦しのために人々に手を差し伸べるのです。
 地上にある以上、教会もキリストの弟子たちも病んでしまったり過ちを犯したりすることもあり得ます。惨めな姿を憂うことになりますが、病にあるので癒しの恵みを受ける必要に気づかされるでしょう。悔い改めた者が赦され、罪がきよめられるならば、救い主である神の栄光が現わされるのです。

 健やかなるときも病める時も、教会は主イエス・キリストの体です。その一部である私たち一人ひとりも主のためにある体なのです。使徒パウロを通して主が命じられます。「だから、自分の体で神の栄光を現わしなさい」。重い皮膚病を患っていた人は、その体をもって主イエス様の栄光を現わしました。
 
<結び>
 「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マルコ1:41-42)
 病を病であると自覚しなければ癒しを求めることができないように、大小に関わらず罪は罪であると明らかにされて初めて赦しという恵みを受けことができるのです。きよめを求めてイエス様のもとへ来た人は、その体をもってイエス様の栄光を現わしました。

 罪を告白し赦しを受けた者は赦し主である神の栄光を現わすことができます。もちろん神様を試すように自ら進んで罪を犯そうなどとは愚かなことですが、迷いや過ちというものは誰にでも起こり得ます。互いに赦し合うことによって、赦された者も赦した者も教会も、神の栄光を現わす体となりましょう。

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