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「隠されている神の国」マルコによる福音書4章21-34節

2022年2月6日
牧師 武石晃正

 今週も主の日毎の礼拝を宇都宮上町教会は礼拝堂において捧げております。第6波と呼ばれる状況において礼拝者の皆様が自主的自発的に対応してくださったことにより、礼拝堂を閉ざすことなく続けられております。
 インターネット環境の普及により日本国内でも多くの教会が礼拝の一部または全部をオンラインで公開することができるようになりました。礼拝堂に来ることができなくても家庭礼拝や個人礼拝として主の日を守ることができることは大きな恵みです。

 福音書の舞台となった時代には御言葉は聞く者すべてに語られましたが、主に求めた者たちだけに秘密が説き明かされました。礼拝堂においても各々の場所にありましても、主ご自身が私たちにお語り下さることを切に願います。

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1.たとえで語るキリスト
 本日の朗読箇所にはいくつかのたとえ話が記されております。イエス様や洗礼者ヨハネばかりでなく、当時のユダヤではたとえによって物事を説くという教え方が広く行われていました。とはいえイエス様のもとには「おびただしい群衆」(1)が集まったというのですから、その人気ぶりは相当のものです。

 それほど多くの人たちが「種を蒔く人」のたとえを聞いたにも関わらず、その説き明かしを受けることができたのは12人の弟子たちと周りにいた人たちだけでした(10)。説き明かしを求めた弟子たちだけが、ひそかにすべてを説明されたのです(34)。
 「種を蒔く人」のたとえの説明の後に「ともし火」と「秤」のたとえが記されているのはルカによる福音書も同じです。マルコによる福音書はその後に「成長する種」「からし種」の2つのたとえを記しています。種にまつわるたとえ話の中にあえて「ともし火」や「秤」の話を挟まれていることはとても興味深いところです。

 ともし火と呼ばれているものは深みのある皿のような土の器に油を注ぎ、浸した芯に火を灯したものです。燃料にはオリーブ油が使われたということですから、一度火が消えてしまうと点けなおすことは一苦労。
 部屋の中の明かりであるとともに、ともし火は生活に必要な火種でもありました。油を切らさないことは勿論のこと、普段は不意に吹き込む風に消されないよう升の下や寝台の下で守られているわけです。

 油が満たされたともし火は昼の内は升の下に置かれ、人々の就寝の際には寝台の下に置かれます。隠されている間はともし火を持っていないのと同じように見えますが、空っぽの升の下からともし火は出てくることはないわけです。
 升の下や寝台の下に隠されていても、ともし火を持っている人は燭台の上に置くことができます。見た目は同じ升でも、その中にともし火を持っているかいないかで大違いです。

 「何を聞いているかに注意しなさい」とイエス様は続けます。秤とは長い棒の両端に物を載せるための皿を吊るした天秤のことです。なぜ急にともし火の話から秤の話になったのかは分かりにくいのですが、どうやら家の中にある升とのつながりのようです。
 旧約聖書に「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない」と正しい秤を用いるように教えられています(申命記25:13-14)。他にもおもり石の使い分けや升の使い分けはいずれも主の憎まれることであると戒められており(箴言20:10)、秤と升とで一つの対をなしています。升に続けて秤が出てきて初めて一つの話と収まるようです。

 いずれにおいても神の国あるいは信仰というものは目に見えないものであり、普段は隠されているようなものです。升の下にあるようでも持っているならあらわにできますし、多少なりとも持っているなら更に与えられ増し加えられます。

3.2つの種のたとえ
 草花にしても作物にしても、蒔かれた種から芽生えてくるのを見ることは嬉しいものです。イスラエルという国は草木が豊かな日本と比べて非常に乾燥した気候と聞いておりますので、種や芽生えというものは私たちが感じる以上に希望と喜びを表すことでしょう。解き明かしまで求めずに「あぁ、今日は種の話が聞けてよかった。いい話だった」と満足して帰っていく人々の後ろ姿が目に浮かぶようです。
 蒔かれた種は芽を出して成長します。人は土に水を撒くことはできるとしても、芽を出すかどうかは種まかせ土まかせです。種が蒔かれても土を被ってしまえば、芽が出てくるまでは種があるところとないところの区別をするのは難しいでしょう。

 「土はひとりでに実を結ばせる」と一言で済まされておりますが、実際に豊かな実を結ぶ畑はとても深く掘り起こして土から作られているものです。蒔かれた種も土に隠されていますが、人知れぬ苦労と知恵とが土の中に隠されていることを豊かな実が示します。
 土の表面だけ耕した畑も、深く掘り起こして土から作った畑も、種を蒔いたときの見た目はほとんど変わらないでしょう。実が熟し、収穫の時を迎えるところに神の国がたとえられています。升の下から出され燭台の上に置かれたともし火と重なります。

 からし種と呼ばれている植物を目の当たりにしたことはないのですが、その種がとても小さいということだけはこのたとえ話からわかります。もし野菜のカラシナと近い品種であればナノハナの仲間ですから、刈らずに放っておけば1m以上の丈になるでしょう。
 丈の高い草が生えていると葉陰の地面に鳥が巣を作ることがあります。庭にライ麦を蒔いてみたところ、人の背丈ほどの草むらの地面にヒバリお椀のような巣を作りました。イスラエルでは大きく育ったからし種の葉陰で鳥が子育てをするのでしょう。

 空の鳥と申しますと「種を蒔く人」のたとえの中で出てくる鳥のことを思い出されます(4:4)。神の言葉を聞いても悟らない者からサタンが御言葉を奪い去ってしまうと説き明かされています(15)。
 サタンとは福音書では「誘惑する者」を意味しています(マタイ4:3)。イエス様が弟子のペトロを叱る時に「サタン、引き下がれ」と言われたように、誘惑する者や逆らう者という意味で用いられていたようです。

 神の国が蒔かれるときは目に見えないぐらい小さくても、成長するとどんどん大きくなります。からし種も成長してしまえば、葉の陰に鳥が巣を作ったところで何ということはないのです。持っている人は更に与えられるという秤のたとえに通じます。

3.隠されている神の国
 イエス様はたとえを用いて神の国について説かれ、今は隠されており、後にあらわにされると教えています。具体的には何を指しているのでしょう。

 一つ目はイエス様ご自身のことです。「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)とご自分を指して言われました。私たちはイエス様について独り子である神が聖霊によってマリアに宿ったことを信じています。しかし信じない者、特に当時のユダヤの人々はイエス様を「ナザレのイエス」「ヨセフの子」として普通の人間だと考えていました。イエス様は十字架上で私たち罪人の身代わりと代価となるなるために、私たち罪人と同じ肉体を取ってくださったからです。
 死ぬべき肉体の中に隠されていた神の国は、十字架の死と葬りの後3日目に主キリストの復活として現されました。外から見れば朽ちる体でも、中に永遠の命があったのです。

 二つ目はキリストの弟子たちです。御子を信じる者は神の子とされる資格が与えられ、バプテスマによってキリストの弟子なります。体は生まれながらの朽ちゆくものでありますから、見た目はただの人のままなのです。しかし神の霊をいただき新生の恵みにあずかりましたから、滅びる肉体の中に神の国が隠されているのです。
 見た目はただの升であり、変哲もない土なのです。その中にともし火あるいは種があるかないかで大違いです。隠されている神の国を信仰と言い換えることもできるでしょう。時にその信仰の小ささく弱いので自分自身にがっかりすることもありますが、小さかろうと弱かろうと不格好だろうとみっともなかろうと持っていることが大事なのです。秤を持っている人には更に与えられ、からし種はどんな種より小さくても成長して大きくなるからです。

 三つ目は教会です。教会は主キリストの体であり聖徒の交わりですから、この中に神の国があることは疑うべくもないことです。そしてそれは特に迫害の中で試され、公にされるでしょう。
 福音書が書かれた使徒たちの時代に最初の迫害が起こり、信仰ゆえに逮捕者され殉教する者が続きました。逮捕され投獄されるわけですから、理由はともかく傍から見れば犯罪者です。残された者たちは深い悲しみのうちにやもめやみなしごとなりますが、世間からは犯罪者の家族として冷たくあしらわれます。

 この人たちをどのように扱うのか、迫害に窮する中で教会と一人一人の信仰が問われます。自分の量る秤で量り与えることで、隠されている神の国があらわにされます。迫害者や密告者がやもめやみなしごを装って紛れ込む恐れがあったとしても、からし種が大きく成長するなら妨げる者でさえも身を宿すほどに豊かに枝を張るからです。

<結び>
 「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(22)

 復活の命は朽ちる体の中に隠されており、独り子である神キリストも肉体をとって世に来られました。死ぬべき体に隠されていますから見た目は罪人と同じですが、間違いなく神の国がそこにあるのです。十字架にかかり死んで葬られたイエス様は、三日目に死人の内よりよみがえられたことで隠されていたものを公に現わされました。
 その名を信じる者にとって死に打ち勝つ復活の主であり、弟子たちもまた主と同じ道を歩むのです。信仰を持っている人は地上における救いの確信だけでなく、更に復活の命も再臨の恵みも与えられるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい。」 

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