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「教えるキリスト」マルコによる福音書4章1-9節

2022年2月13日
牧師 武石晃正

 何人かの方より礼拝をお休みされるとのご連絡をいただいております。顔と顔を合わせて一つ所に集まれないことは残念ではありますが、互いに無理をしないことによって今週も教会は礼拝堂を開いて礼拝を捧げることができております。
 かつてのように気兼ねなくいつでも礼拝堂に集えるようになることを願いつつも、世界的なこの困難を通して教会と礼拝者の信仰が問われ確かめられているように思います。

 季節はいまだ寒さが厳しいものの春の日差しを感じられる日も増えて参りました。厳しい冬を耐え忍んで春の訪れを待ちわびるように、キリストの救いの完成を見る時まで信仰と希望をしっかりと保つよう励まし合いましょう。

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1.カファルナウムでの教え
 イエス・キリストが洗礼者ヨハネよりバプテスマを受け、神の福音を宣べ伝え始めたのはイスラエルの国でも北部にあるガリラヤ地方でのことでした。ガリラヤにはイエス様がお育ちになられた故郷ナザレがありましたが、弟子たちを呼び集めて教えるためにガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムに住まわれました(マタイ4:13)。
 主にガリラヤ地方において行われたイエス様の初期の伝道活動はこのカファルナウムを拠点としておりました。安息日には会堂を訪れ、週日は町の病人を見舞っては、郊外の山で教えを説いておられました。

 エルサレムの都であれば街並みも大きく道幅も広いでしょうから、人々に教えを説くにも通りの辻などを用いることができたでしょう。カファルナウムは湖に面していますから漁業はもちろんこと、シリアの諸地方との交易によって栄えていたそうです。
 とはいえ地方の町ですから都ほどの大きさはありませんし、更にはローマの百人隊長が駐留しておりました(マタイ8:5)。町の中で人だかりができては何かと不都合だったようで、群衆が集まってきそうなるとイエス様は湖のほとりへ出て行かれました。広くてなだらかなので大勢が集まるにはおあつらえ向きの場所であり、更にペトロたち漁師がイエス様を舟に乗せれば群衆は岸いっぱいまで寄ることができました(1)。

 どれほど多くの人々が集まったのでしょうか。大勢と言われているのであれば町の路地が埋まって往来ができないほどですから、数十人から100人以上の人だかりです。群衆ともなればその一桁上ともなりますので、少なく見ても200ないし300人というところです。
 今はコロナ禍のために大勢が集まるということはできませんが、それ以前においても日本の地域教会で300人も集まると言ったらかなり大きな集会ではないでしょうか。伝道集会であれば初めて聖書の話を聞く人たちをも何とか引きつけようと、分かりやすい例話を用いたり抑揚をつけて情に訴えたりする講師の姿が壇上にあるわけです。路傍伝道であっても道行く人や立ち止まった人が分かりやすいように、丁寧に説き明かすでしょう。

 ところがイエス様はたとえでいろいろと教えられましたが、群衆には面白い話だけをして解き明かしはなさらなかったというのです。マルコだけでなくマタイとルカも異口同音に記していますから、イエス様が天に帰られた後は弟子たちも同じくせよという手本であると言えましょう。
 新共同訳聖書では小見出しにあるように、ここでは「種を蒔く人」のたとえが記されています。ほかにいくつものたとえが教えられたうち、福音書の記者たちは3人ともこのたとえを後代へと残しました。

 たとえの説明は弟子たちだけになされました。たとえが示す真理は一つですから、種を蒔く人は神の言葉を蒔く人であり、この場ではイエス様ご自身を指しています。後に弟子たちに委ねる働きについて教えているので、「聞く耳のある者」つまり弟子の心得がある者だけに説き明かされます。
 種はどこにでも落ちます。道端、石だらけの所、茨の中、良い土地それぞれに落ちた種はその土地に応じた結果を生じます。「良い土地」は30倍60倍100倍と差異はあっても豊かな実を結ばせました。大いににぎわった集会の興奮で満足することなく、御言葉を聞いて受け入れた「聞く耳のある者」たちです。彼らは自分の満足に留まらず、イエス様の投げかけた招きに対して応答したのです。

 他の土地はどうでしょうか、過程に違いはありますがいずれも実ることはありませんでした。同じ場所で同じ時に同じ種である神の言葉が蒔かれたにも関わらず、「聞く耳のある者」とは全く異なる結果となりました。イエス様がわざわざ「よく聞きなさい」と前置きされたのに、ほとんどの人たちは話を聞くだけ聞いて帰って行きました。きっと自分たちが道端や石だらけの所であると言われたとは気づきもしなかったのでしょう。
 このたとえはイエス様が弟子たちに説き明かされ福音書にも残されていますから、使徒たちだけでなく教会にも与えられている真理です。礼拝堂であれオンラインであれ、神の言葉はその場にいる人々に向けて種のように一様に蒔かれています。

 群衆に向かってイエス様は噛んで含んでまでは教えを説こうとはなさらず、聞いて求めてきた者にだけ理解できるまで解き明かされました。話を聞くだけで帰る者は何百人もおりましたが、イエス様に尋ねたのは12人とその周りにいた者だけでした。聞く耳のある者は尋ね求めるので、御言葉を受け入れて実を結びます。私たちはどちらでしょうか。

2.知恵を授けるのは主
 ガリラヤのカファルナウムでイエス様の教えを聞いたのはイスラエルの人たちでした。彼らは契約の民であり、律法を与えられた神の民です。洗礼者ヨハネは神の民に向かって悔い改めを説き、イエス様は神の民を「聞く耳のある者」とそうでない者とに分けられました。見た目は同じ神の民だとしても、実る者と実らない者とがいるのです。

 とはいえ、本日の箇所だけで扱ってしまうとイエス様が群衆と呼ばれている人たちを突き放した意地悪な人のように見えてしまいます。しかし旧約聖書の中には主を畏れることを悟り神を知ることに到達する秘訣として、みことばを受け入れ自ら求めるようにとの諭しが与えられているのです(箴言2:1-9)。
 神様はご自分の民を「わが子」と呼んで慈しみをもって諭しておられます。神の言葉と戒めを大切にし、主の知恵と分別を銀や宝物を求めるように尋ね探すようにと繰り返されています。神の民だとしても求めなければ与えられない、むしろ神の民だからこそ主の教えを銀や宝物以上の価値があると知って求めることができるからです。この方を信じていないものは求めることはできないのですが、求める者に知恵を授けるのは主なのです。

 では実際にこの神様に知恵を求めようとするとき、私たちはいったいどこを探し誰に尋ねればよいのでしょうか。もし仮に天まで届く梯子があったとしても、私たちは罪人として生まれていますから神様の御前に出ることなどとんでもないことです。
 人間が自分たちの力では罪についても知恵についてもどうすることもできないとご存じなので、御子がこの世に降って来られました。聖霊によっておとめマリヤに宿り、救い主イエス・キリストとしてお生まれくださったのです。

 たとえを用いてわざわざ隠さなくてもよいのではないかと思われる方もおられるでしょう。でももし尋ね求めていない人に対して一方的に言葉を与えるなら、それは教えではなく命令です。旧約の律法や掟と同じですから、御子が世に来られたことが台無しになってしまいます。
 求めていない者にまで重荷を負わせるなら律法学者やファリサイ派の人々と同じでしょう。「わたしのところへ来なさい」と招いてくださる方は、求める者には知恵すなわち神の国の秘密を教えるキリストなのです。

 聞く耳のある者にだけ秘密が明かされることについて、使徒パウロも書簡の中に記しています。「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」(コリント一2:6)。そしてこれは「隠されていた、神秘としての神の知恵」とも言われています(同7)。
 教会の中であっても誰彼構わず語られるのではなく、信仰に成熟した人たちの間で知恵を語ると教えられます。信仰に成熟した人たちとは、イエス様がおっしゃるところの「聞く耳のある者」たちのことです。ここで言われる知恵とは十字架の言葉です。

 十字架は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、救われる者には神の力です。種を蒔く人のたとえだけ聞いて馬鹿馬鹿しい話だと耳を貸さなかった者もあったでしょう。しかしイエス様の弟子である者たちだけがその秘密を尋ねました。たとえによって教えるキリストを唯一の救いであると信じて、そこから初めて聖書の言葉も十字架の恵みも解き明かされるようになるのです。

<結び>
 「よく聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」「何を聞いているかに注意しなさい」とイエス様は繰り返し聞き方について求められました。
 ガリラヤ湖畔でも山辺でもイエス様は大勢の群衆に教えられましたが、そのほとんどが自分の満足に至る聞き方をするだけで帰っていきました。コリントでも多くの人々に福音は告げ知らされましたが、この世の知恵や富という力にまかせた人たちが十字架の救いと聖餐の恵みをゆがめたことがありました。

 今や礼拝堂は開かれており誰でも御国の言葉を聞くことができます。礼拝堂に来なくともインターネットで視聴できる時代です。聞くだけであれば群衆でもできますが、私たちの救い主は尋ね求める者にだけ聖霊によって真理を教えるキリストなのです。
 そしてキリストの体である教会を通して、主は今もなお「聞く耳のある者」に十字架の救いと復活の希望を教えておられます。

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