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「いやすキリスト」マルコによる福音書2章1-12節

2022年2月20日
牧師 武石晃正

 教会暦において年末のクリスマスの後から初春に始まる受難節(レント)までの間を降誕節と数え、イエス様の地上でのご生涯とそのお働きについて思いを寄せます。4つの福音書はそれぞれの角度からイエス様と弟子たちの歩みについて私たちに教えていますが、今年はその中でもマルコによる福音書を中心に読み進めております。
 聖書の中でイエス様が直接におっしゃたわけではありませんが、キリストの働きについて「救い主」「きよめ主」「癒し主」「再臨の王」と4つに分けて覚えることができます。この教えが日本にもたらされた時に「新生」「聖化」「神癒」「再臨」と私たちが受ける4つの恵みとして伝えられ、ホーリネスの信仰である「四重の福音」となりました。

 本日はマルコによる福音書から癒し主としてイエス・キリストについて、いやすキリストと題して読んで参りましょう。

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1.中風の人をいやす
 本日の箇所は、新共同訳聖書では「中風の人をいやす」と小見出しが付けられております。マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書はそれぞれに知り得た角度からこの出来事について記しています。イエス様はメシアとして宣教の働きを始めた当初からユダヤの町々を巡回し、御国の福音を宣べ伝えてはさまざまな病気を癒されました。
 ユダヤでは週の7日目は安息日なので町を離れることはできませんから、「数日後」(1)とあるように平日のうちにイエス様はガリラヤの町々を巡られました。カファルナウムに戻って来られるや、噂を聞きつけた大勢の人々が病人をいやしてもらおうとやってきます。家の外では道が埋め尽くされるほどの人だかりです。

 どんな病でも癒すことができるとのうわさを聞いて、4人の男たちが中風の人を運んできました(3)。自分で歩くことができないほど重い症状で苦しんでいたのでしょう、マタイは床に寝かせたまま連れてきたと記しています(マタイ9:2)。しかし道は群衆に阻まれておりイエス様のいる家に入ることができず、何とこの4人は屋根に上って屋根をはがして穴をあけたというのです(4)。
 屋根とは申しましても、当時のユダヤでは「家の上の部屋」あるいは屋上の部屋と呼ばれる上階が備えられている家もありました(使徒1:13)。日本の瓦屋根のようなところへ床に乗せた病人を担ぎ上げたのでは危なくて仕方ありませんが、外階段がある陸屋根やルーフバルコニーであれば足元が平坦なので安心です。それにしても突然の出来事に家の中にいた人たちはどれほど驚いたことでしょうか。

 どうして彼らはこのような突拍子もないことをしたのでしょうか。彼らは仲間を床に寝かせて連れて来たのですからカファルナウムの町の人たちだということは分かります。遠くの町で噂を聞いたのではないので、イエス様ことは普段から耳に入っていたはずです。
 ところがイエス様は大勢の人々が集まると漁港のある湖畔や山辺の開けたところへ出て行かれてしまいます(4:1)。床に寝かせたまま病人を町はずれまで連れて行くことは難しいのです。

 しかしこの日は違いました。町の中、しかも家の中におられたのです。外は群衆に囲まれていますのでこの4人が中に入れないばかりでなく、イエス様もどこへも逃げることができないのです。彼らにとってまさに千載一遇です。
 この方のほかに救いはない、この機を逃したら次はない、今日この日イエス様にすがるしか道がないとの決心です。イエス様のところに連れて行けば必ず仲間は助かるという強い信頼です。この信仰が4人をなりふり構わぬ行動へと突き動かしました。

 4人は病人の寝ている床をイエス様がおられるあたりへ吊り降ろしました。ところがイエス様がまずご覧になられたのは病人ではなく「その人たちの信仰」でした(5)。それから中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。
 ここにイエス様の視点、あるいはイエス様からの見え方が示されています。「あなたの罪は赦される」と語り掛けられた「あなた」は中風の人ですが、主がご覧になったのは病人その人だけではなく「その人たちの」信仰でした。これは3つの福音書ともに「彼の」信仰ではなく「彼らの」信仰と書かれています。

 すなわちイエス様はこの病人の個人的な必要や信仰心というものだけではなく、屋根から吊り降ろした彼の友人たちの信仰を見ておられたのです。訳される元の言葉を調べてみますと「信仰」という語は単数形で記されています。一つの信仰です。中風の人と4人の仲間は心を一つにし、唯一イエス様に期待をかけたのです。
 癒してもらえるならどこの誰のところでもよいという行きあたり的な動機ではなく、主イエスただ一人に彼らの思いが向けられていたのです。心の中であれこれと考えている律法学者たちを尻目に、イエス様はご自身が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせました。

 罪が支払う報酬は死です(ローマ6:23)。そしてすべての病も苦しみも死に至る前触れだと言えましょう。罪を赦す権威を持っているキリストは罪の報酬である死をも滅ぼします。ですから罪の赦しが病の癒しに先立つのです。こうしてすべての罪を贖う方は、あらゆる病を癒すことがおできになります。
 中風の人に罪の赦しを宣言された後、イエス様は「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。するとその人は起き上がり、すぐに床を担いで出て行きました(11,12)。後遺症もなく機能回復の時間もとらずに、直ちに治ったのです。罪を赦してくださる私たちの救い主は病をもいやすキリストです。

2.信仰に基づく祈り
 祈りのグループなどで聖書を学びんでおりますと、ときに「イエス様は神様だから何でもおできになるよね」といった感想が交わされます。その言葉の真意は人それぞれおありだとして、概ねは人間に過ぎない自分とは縁のない出来事であるということでしょうか。
 もちろんイエス様は神の子であり、メシアとしての奇跡を数多くなされました。しかし今日の箇所でイエス様がご覧になられたのは「その人たちの信仰」です。そしてこの出来事から20年ないし30年ほどの年月を経て、この信仰について教会の中で記されました。時を経ても所が変わっても信仰のあるところにいやすキリストは共におられます。

 その頃、主の兄弟と知られるヤコブという人がいました(ガラテヤ1:19)。イエス様と同じ母から生まれ同じ父に育てられたこともあってか、ヤコブの手紙は山上の説教などイエス様の教えによく似ているところがあります。その中で次のように記されています。
 「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」(ヤコブ5:14-15)

 神さまの癒しの恵みについて説かれ、病の人々を見舞い励ますときに引用されることが多い聖句の一つです。この箇所でも信仰が問われており、罪の告白と赦しを受けることが勧められています。
 このヤコブの手紙が書かれた第1世紀には、教会が非常に厳しい迫害を受けていました。パレスチナからローマに向かって福音が伝えられていった時代ですが、神の国が進みゆくほどにこの世の抵抗と迫害とが厳しくなっていきました。

 迫害によって一家の養い手が捕らえられると妻はやもめに、子どもたちはみなしごとなります。経済的にも乏しいばかりでなく人目を阻んで生きていますから、病気になっても医者を呼ぶこともできず薬を買うこともできない状況に置かれてしまうのです。
 信仰を捨て仲間を売れば自由と幾ばくかのお金が手に入るでしょう。手にしたお金で医者に診てもらったり薬を買ったりすれば、病気を治すことができるのです。小さな目印ひとつ、例えばユダヤ式の接吻と呼ばれる挨拶だけで周りに気づかれずに裏切りが起こります。これは大きな誘惑です。迫害や困難の中で信仰が試されます。

 ヤコブもイエス様も医者に掛かってはならないとは言っていないのです。医者を呼べば密告されかねない迫害の中でヤコブは手紙を書いています。信仰を捨て仲間を売るのか、死んで葬られ三日目に復活したイエス・キリストだけを頼りの綱とするのか、二者択一です。いえ、選ぶべきは一つです。一度でも疑ったのならその罪を告白し、赦しを求めて祈るように勧められるのです。
 神様のいやしは恵みですから受け取る者には与えられます。イエス様は「その人たちの信仰」すなわち恵みを受けとる備えのある者たちに罪の赦しを宣言し、病の床にあった者を起き上がらせました。

 信仰に基づく祈りは病人を救います。私たちの主は疑った者の罪をも赦し、求める者をいやすキリストです。

<結び>
 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(5)
 この信仰は願いが叶うか叶わないかと天秤にかけるような二心ではなく、イエス様だけにまっすぐに向いている一つの心です。一人の思いだけではなく、祈りを合わせ心を合わせた一つの信仰です。

 「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した」(12)と結ばれています。
 私たちは罪を赦された者としてキリストのからだである教会に集っています。主は私たちの罪を赦しただけでなく、身も心も魂もいやしてくださいます。

 教会が心を一つにして祈る時、その信仰を主がご覧になります。主が罪の赦しと癒しの恵みとを賜る時、私たちを通してキリストのみわざが現れます。私たちばかりでなく世の人々もまた、罪を赦し病をいやすキリストを見ることになるのです。

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