「奇跡を行うキリスト」マルコによる福音書4章35-41節
2022年2月27日
牧師 武石晃正
来週からレント(受難節)が始まりますので、今年の降誕節は第10主日をもって終わります。降誕節が終わってもイエス様の公生涯について学び思いめぐらすことはよいことですが、本日で一つの区切りといたします。
救い主メシア「油を注がれた者」としてイエス様はイスラエルの王また祭司、そして預言者という3つの職分を持っておられます。そのうち神の国を説き人々に悔い改めを迫るのは預言者であり、神様から遣わされたしるしである奇跡を数多く行われました。
本日は多くの奇跡のうちマルコによる福音書から一つの場面を開いております。
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牧師 武石晃正
来週からレント(受難節)が始まりますので、今年の降誕節は第10主日をもって終わります。降誕節が終わってもイエス様の公生涯について学び思いめぐらすことはよいことですが、本日で一つの区切りといたします。
救い主メシア「油を注がれた者」としてイエス様はイスラエルの王また祭司、そして預言者という3つの職分を持っておられます。そのうち神の国を説き人々に悔い改めを迫るのは預言者であり、神様から遣わされたしるしである奇跡を数多く行われました。
本日は多くの奇跡のうちマルコによる福音書から一つの場面を開いております。
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1.突風を静める
初期ガリラヤ宣教と知られるイエス様のお働きにおいて、癒しのみわざを行いながら神の国が宣べ伝えられました。行く先々でイエス様は律法学者のようにではなく権威ある者としてお教えになったので、人々は驚きつつも親しみをもつようになりました。
群衆にはたとえの話を聞かせ、弟子たちには聞く力に応じて説き明かされ、更に聞く耳のある使徒たちにはひそかにすべてを説明されました。使徒たちは他の人々よりもイエス様についても神の国についてもよく知っているという自負があったでしょう。
ある日の出来事です。この弟子たちに呼びかけてイエス様が「向こう岸に渡ろう」と仰ったのは夕方のことでした(35)。ガリラヤ湖は周りの地形のために夜間は突風や強風が吹くので、舟を出すのは危険なのだそうです。それでも日が暮れようというのに舟を出せるのは、普段から夜通し魚をとっている漁師だからできることです。
一艘にイエス様を乗せ、もう一艘の舟も出ます(36)。この2艘はペトロとアンデレの家の舟と、ゼベダイの家の舟でしょう。湖の上でペトロたちの腕自慢が始まります。
しばらくすると案の定ガリラヤ湖名物の激しい突風が起こりました(37)。漁に出れば波をかぶって水浸しになることは珍しくもありませんが、驚くべきはイエス様です。なんとこの波風の中、舟の後ろのほうに横になって眠っておられたというのです(38)。
弟子たちは慌てた様子でイエス様を起こしました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とは恐らく4人の漁師たち以外の言葉でしょう。「先生、あなたが言い出したおかげで私たちまで危ない目に遭っているじゃないですか」と言わんばかり。
漁師たちは舟を操ることで手一杯だったとしても、大工ひとりを起こしたところで当てにならないことぐらい重々承知です。大騒ぎをされるよりも寝ていてくれたほうがむしろ助かるぐらいです。
それでも弟子たちが起こそうとするものですから、イエス様はとうとう起き上がって「黙れ、静まれ」と叱られました。聖書は後から書かれたのでイエス様が風と湖に命じられたと明らかにしていますが、まずはその声を聞いた弟子たちが身を縮めたことでしょう。寝入っているのを邪魔したので怒られたかと思いきや、なんと風や湖までが恐縮して静まったというのですから驚きです。
さすがにこれには漁師たちも肝を抜かれたことでしょう。波風だって任せてくださいと、湖の上ならイエス様より自分たちのほうが物事をわきまえているつもりでした。大工風情に舟のことなど分かるはずもないと、寝るがままにさせていたのです。
これが儀式のような仕草を重ねながら長々と祈りを唱えて「風よ静まれ」と叫んだのであれば、ユダヤ人である弟子たちは預言者のわざを期待したことでしょう。ところが寝起きに弟子たちへ物を言いつけるようなひと言だけで、いともたやすく湖を静まり返らせてしまったので「いったい、この方はどなたなのだろう」と絶句したのです。
預言者であればいくら優れていてもイエス様は自分たちと同じ人間ですが、想像をはるかに超えた存在であると改めて弟子たちは知ることになりました。その様子は「弟子たちは非常に恐れて」(41)と記されています。直訳を試みますと「大きな恐れを恐れた」と書かれており、恐れに恐れを重ねた弟子たちの胸の内が刻まれているようです。
恐ろしさのあまり心の底から震え上がった弟子たちは、イエス様に向けて口を開くことができず互いに一言二言かわすのが精いっぱいだったという次第です。
2.この方はどなたなのだろう
神様を信じるか信じないかという話になりますと、しばしば「奇跡を見せてくれるなら信じてもいい」と言われる方にお目にかかることがあります。果たして私たちは見たものをそのまま神様のみわざであると信じることができるものでしょうか。
「いったい、この方はどなたなのだろう」と互いに口にした弟子たちは、普段からイエス様と癒しのわざを見ていました。あまりにも身近すぎたので、自分たちの尺度で量ることしかできなかったものと思われます。
4人の漁師たちはイエス様がバプテスマを受けられる前から洗礼者ヨハネの門下にありましたので、ガリラヤ宣教を始められる前からナザレのイエスと知り合っていました。ヨハネが「見よ、神の小羊」と呼び、自らを「その方の履物のひもを解く値打ちもない」と述べたほどですから相当にすごい人であると知識としては知っていたのです。
実際に弟子となってみると、その教えぶりには権威があり多くの人が癒されるのですから最初のうちは驚くことだらけです。ところがそれが毎日のこととなれば少なからず慣れというものが生じるものです。
カファルナウムへイエス様が移り住んだのは弟子たちを探すためでしたが、故郷のナザレを離れたことにも事情がありました。カファルナウムでの逗留先は恐らくペトロの実家でしょう。弟子は食べ物の好みや普段の癖までほかの誰よりも知ることになります。
旅の教師や預言者を家に招くことは当時のユダヤの美徳だったとは言え、家主からすればイエス様は下宿人あるいは居候です。身の回りの世話をどの程度したのか分かりませんが、ペトロたちは大勢の人が集まれば岸から離れるために舟を出すなど何かとこまめに仕えています。「イエス様は教えも立派だし不思議なわざも行うけれど、俺たちが手を貸してやらないとどこにも行けないんだよな」というような思いが胸の片隅に湧いてきます。
その人物を昔からよく知っていると、正しい評価ができなくなることはしばしば起こります。ナザレ人イエスを子どもの頃から知っていた者は「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」と言うのです(6:3)。
そのマリアにしても天使のお告げをうけて聖霊によって身ごもったのですから、特別な経験は忘れようもないはずなのです。ところが親戚の婚礼の席でぶどう酒が足りなくなるや、イエス様に向かって「ぶどう酒がなくなりました」とまるでお遣いに出すかのような言葉が口をついて出てしまうのです。知識と経験の上では神の子あると知っていても、毎日の生活が目に映っている人物を自分の子であると認識させるのです。
信仰生活においても似たようなことが起こり得ます。祈りが生活の一部、むしろ生活のすべてであると言えることは幸いです。ところが生活習慣の一部となってしまうと要注意。歯を磨くこと、顔を洗うこと、トイレから出るときに手を洗うことなどと同じ並びの習慣になってしまうと、祈りの対象が自分の目の高さかそれ以下になってしまうことがあるのです。いちいち祈ってあげなければ私の必要に気づくこともできないような存在として、無意識ながらにイエス様を低く見積もってしまうということが起こり得るのです。
あるいはクリスチャンホームやキリスト教学校の子どもたちは幼いうちから聖書に親しみ、イエス・キリストの名を知っています。主の祈り、十戒、使徒信条なども、毎日の習慣として暗唱できるようになります。それは素晴らしいことです。
その中からある人たちは自分の信仰として生涯をイエス様に従うようになりますが、残念ながら日本では多くの方が離れていってしまいます。日常生活の習慣として身に付けたものは、親元を離れれば新しい生活習慣に置き換えられてしまいます。学校生活で身に付いた習慣であれば、卒業に併せて祈りの生活からも巣立ってしまうのです。
祈りや聖書を読むことがより良い習慣の一つに留まるなら、イエス様を日常生活の付加価値に過ぎないものとしてしまうことになるでしょう。使徒たちも当初は自分の生活をより良いものにしてくれると思ってイエス様の弟子になりました。弟子なので立場上はイエス様に従っていましたが、生き方や考え方においては自分自身が主人だったのです。
「風や湖さえも従うではないか」との一言はキリストを自分と対等な人間だと思っていたから出た言葉です。神の子を自分の生活の付加価値程度へ引き降ろすのか、私が風や湖のようにこの方に従うのか、その違いは日々の祈り一つの積み方によるところでしょう。
<結び>
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(40)
奇跡を行うキリストを見て弟子たちはこの方がどなたであるのかと、これまで寝起きを共にしてきた愛する主イエス様について考え直す機会が与えられました。ここから始まって何度も何度もいろいろな角度からイエス様を見て、どなたであるのかと考えました。
私たちは日々イエス様のお名前によって祈ります。イエス様を救い主として愛し親しみつつも、天地創造の神として畏れ敬います。私たちの救い主は天において創造主である神、地において奇跡を行うキリストです。