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「悪と戦うキリスト」マルコによる福音書3章20-30節

2022年3月13日
牧師 武石晃正

 人生において誰しも大なり小なり何らかの困難をいつも抱えているのではないでしょうか。幼い子どもであれば、今日は「むずかしい」「できない」ということでも明日には「できる」と変わっていく期待が大きいものです。信仰も日々新たにされるという点において、同様の希望があるはずなのです。
 ところが「そうすればたましいに安らぎを得られる」と御言葉をいただいてイエス様を信じたのに、信仰生活においては安らぐどころか困難や戦いばかりだと感じている場面も多々あります。友人や知人から「キリストを信じて何か得することがあるのか」と聞かれて答えに詰まることもありましょう。

 先週より受難節に入り、御子ご自身が地上において神の子でありながらも苦難の中を歩まれたことを福音書より学んでおります。悪と戦うキリストと題して進めて参りましょう。

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1.ベルゼブル論争
 唐突ですが皆さんは有名人になりたいと思ったことはおありですか。ある程度の大人になると自分の身の丈をわきまえるものですが、若くて未成熟なうちはスターと呼ばれるスポーツ選手や俳優、歌手などにあこがれる思いもあるでしょう。人気者へのあこがれです。
 どこを行くにも人だかりができるほどの有名人といったら、その暮らしぶりはどれほど華やかなものでしょうか。人だかりができるという意味ではイエス様がまさにそうでした。ちょっと出歩けば「あそこにいた、ここにいた」と群衆がついて回るほどの有名人です。

 散歩どころか静かに祈ることさえままならない毎日です。家に帰っても群衆が集まってしまうので、その有様は「一同は食事の暇もないほどであった」と記されています(20)。「安らぎなんてとんでもない、見たことも聞いたこともない」と弟子たちの口からこぼれそうです。
 噂を聞いてやってきたのはカファルナウムの人々ばかりではなく、遠くの町々からの人影もありました。イエス様の「身内の人たち」と言えば同じガリラヤ地方でもナザレの人たちです(21、31)。「あの男は気が変になっている」と聞いて、なんと数十キロメートルもの道のりをやって来ました。

 なんと更にはるばるエルサレムから律法学者たちまで下って来たというのです(22)。大ごとになったといえば大ごとですが、家族が連れ戻しに来たり都のお偉いさんが来たりとしっちゃかめっちゃかな様子が思い浮かびます。人の話もろくに聞かないで「気が変になっている」だの「ベルゼブルに取りつかれている」だのと、てんでんばらばらに言いたいだけ言うのです。
 普段のイエス様であれば律法学者たちが口々につぶやく場面において、彼らがあっけにとられるようなことを言って力の差を見せるものです。「あなたの罪は赦される」と神様のほか誰もできない罪の赦しを宣言しては、どんな医者でも直せなかった中風の人をたちまち起き上がらせたこともありました(2章)。

 ところが今回ばかりは様子が違っていました。何という言葉で切り出されたのかまでは記されていませんが、人様に向かってベルゼブルや悪霊の頭などと呼ばわる無礼な者たちを呼び寄せられたということです(23)。穏やかではない空気が漂っています。
 「どうして、サタンがサタンを追い出せよう」とは言わば反語というもので、そんなことはそもそもあり得ないだろうとの強い語気を感じます。「サタンがサタンを追い出すだと、そんなことあるわけないだろう」と、売り言葉に買い言葉の勢いです。

 更に「国が」「家が」「サタンが」と言葉を重ね、内輪で争えば成り立たないことまくし立てているようです。翻訳ですし聖書ですから丁寧な語調の日本語で記されていますが、イエス様と言えば波風をものともしない漁師たちでさえ縮み上がるほどに湖を叱りつけたこともありました。声を荒らげることもあれば啖呵を切ることもあろうものです。
 福音書に残されているイエス様の教えの中でも引用されることが多いのは「愛しなさい」「赦しなさい」という優しく穏やかな響きがある言葉でしょう。事実イエス様は御父の愛を現わされたことです。

 しかし聖書にはイエス様がお怒りになったり感情を露にされたりする場面もあります。特に罪や死については神のご性質のゆえに相容れませんし、御自分を含めた父子聖霊に対する冒瀆は決して受け入れることはないのです。美化しすぎて「イエス・キリスト」という名を冠した偶像を作り上げることのないよう気をつけたいものです。
 28節の言葉だけ取り上げれば罪や冒瀆がすべて赦されるように言われていますが、それはあくまでも後から罪を認めて悔い改めたときの話です。むしろイエス様が罪や冒瀆について触れているのは引き合いのためであって、たとえこれらのものが赦されるとしても永遠に赦されないものがあるのだということを強調しておられるわけです。

 聖霊によりて宿りおとめマリヤより生まれた方をベルゼブルつまり悪霊の頭と呼ぶなどとんでもないことです。罪のない方が罪ある者と同じく生まれて来られるためにどれほど大きな犠牲を払われたことでしょう。そのことも知らずに、聖霊によってなされた癒しのみわざをも悪霊の頭の力だという者がどうしてこの方の救いを求めることができましょう。
 罪の中に生まれた罪人は罪があることさえ息を吸って吐くようなものです。聖霊すなわち神の息を吹き込まれて、初めて自分が罪の中に溺れていたことに気づきます。

 ところがその聖霊を拒む汚す者は、罪に気づくことができないままです。悔い改めもできませんから、赦される機会を永遠に逸してしまうと恐れがあります。
 「悔い改めて福音を信じなさい」と言われた方は、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えます。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました(二コリ1:22)。私たちの救い主は、この霊を侮り汚そうとする悪と戦うキリストです。

2.神の国の内輪もめ
 地上にイエス様がおられたとき、このように律法学者やファリサイ派の人々というユダヤの指導者たちとしばしば衝突したことは福音書から知ることができます。そしてこの出来事について共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの3書がともに記しています。
 教会において重要あるいは重篤なことについて聖書は大切なので1度しか記さないか、大切なので繰り返して示すかのどちらかです。今回のできごとは3度示されています。

 歴史的に見ればイエス様を悪霊呼ばわりした人たちとその末裔は紀元70年にエルサレム陥落とともに「国」を失い、イスラエルの「家」が地上から姿を消しました。イエス様のお言葉どおりになりました。それを機にローマによるキリスト者への迫害が強まると、かつてのユダヤの人々のことが教会にとっても対岸の火事では済まなくなってきます。
 着目すべきは、マルコだけでなくマタイもルカもこの論争に関してイエス様が律法学者を論破したとは結論してはいないということです。つまりイエス様が意地悪な人たちをやっつけてくれてありがとう、という勧善懲悪論ではないということです。

 出来事としては事実でありますが、記された目的は外敵ではなく教会の中に向けられています。大切なことが繰り返して記され、「内輪で争えば成り立たない」と教会内の問題を取り上げているのです。気づくか気づかないかは読み手に委ねられており、人を指さすか自分の胸に手を当てるかは私自身に問われています。
 実はルカによる福音書がこの読み方の示唆を与えています。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とのイエス様の教えの直後に、ベルゼブル論争を記しています。

 この聖霊を与えられた人たちによって主キリストの体である教会が建てられてゆく様を使徒言行録として記したのがルカなのです。すなわち教会という文脈の中でルカはイエス様と弟子たちについて福音書を記したということです。
 聖霊を受けた者同士が互いに責め合えば、相手の内にある聖霊を冒瀆することになりましょう。内輪もめをするならば自ら破滅を招くことになるのだと福音書は戒めています。

 「国が内輪で争えば」「家が内輪で争えば」とイエス様は仰いました。国とは何でしょうか、家とは何を指すでしょうか。マルコもまたルカと同じく神の国、神の家すなわち教会を言い含めていることがわかるでしょう。
 犯した罪であれば悔い改めによって赦されます。しかしその人を責めてしまうことで、本人が意固地になってしまったらどうなるでしょうか。悔い改める機会を逸してその人が滅びるばかりでなく、周りの者たちにも躓きを与えることにならないでしょうか。3つの福音書が同じイエス様のお言葉を記すことで教会にいつも問いかけているのです。

 誰も「永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負う」ことを望んでいる人はいないわけです。ですから私たちもイエス様に倣って、罪は罪、悪は悪であると明らかにしながらも互いに赦し合うのです。
 
<結び> 
 「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」(28)
 すべて赦されるから罪を犯しても冒瀆の言葉を吐いてもよいということではないことは、勿論ご承知の通りです。とはいえ自分自身も隣人も過ちうる罪人ですから、霊の助けをいただかなければ悔い改めることすらままならないのも事実です。主の兄弟ヤコブの手紙より引用して結びます。

 「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」(ヤコブ5:19-20)
 私たちは神の霊を与えられた者であり、教会は地上において神の国、神の家です。父なる神の名の下に、聖霊によって建てられた、主イエス・キリストの体です。その頭は悔い改める者を赦す神、聖霊を冒瀆する悪と戦うキリストです。
 

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