「受難の予告」マルコによる福音書8章27-38節
2022年3月20日
牧師 武石晃正
受難節第3主日を迎えました。春分を明日に控えていることを思いますと、今年のレント(受難節)は例年よりかなり遅いことがに気づかされます。
イースター(復活節)が「春分の日を過ぎた直後の満月の次にくる主日」(ニカイア公会議、325年)と暦の上で定められておりまして、レントはそこからさかのぼって数えます。今年は2,3日前の晩に大きくて丸いおぼろ月を見上げたばかりですので、イースターは次の満月とともに4月の中旬に迎えます。
公生涯と呼ばれるイエス・キリストの歩みを福音書より学ぶ中、受難節においては特に私たち罪人のためにお受けになられた苦しみ悩みについて思い巡らせましょう。
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牧師 武石晃正
受難節第3主日を迎えました。春分を明日に控えていることを思いますと、今年のレント(受難節)は例年よりかなり遅いことがに気づかされます。
イースター(復活節)が「春分の日を過ぎた直後の満月の次にくる主日」(ニカイア公会議、325年)と暦の上で定められておりまして、レントはそこからさかのぼって数えます。今年は2,3日前の晩に大きくて丸いおぼろ月を見上げたばかりですので、イースターは次の満月とともに4月の中旬に迎えます。
公生涯と呼ばれるイエス・キリストの歩みを福音書より学ぶ中、受難節においては特に私たち罪人のためにお受けになられた苦しみ悩みについて思い巡らせましょう。
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1.人々の信仰の告白
洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた時からイエス様は世にご自身を示されるようになりました。そのヨハネがヘロデ王に捕らえられたことを機にイエス様はイスラエルの北部にあるガリラヤ地方へ退かれました(1:14)。
ガリラヤ湖畔の町カファルナウムを拠点とした時期の活動を初期ガリラヤ宣教などと呼ばれております。とは申しましても、湖を渡って行ったこともあれば、シリア・フェニキアを訪れるなど(7:21)、異邦人が住む地域へも足を運ばれたこともあります。
マルコによる福音書では8章までにガリラヤにおけるイエス様の宣教と奇跡のわざが記されています。4000人がパンと魚で空腹を満たされました。マタイはその前に既に男だけで5000人、つまり女性と子どもを数えれば2万人近くにも上る群衆がパンと魚で満たされたことを記しています。とにかくこの時点で既にイエス様は人気を博しており、ガリラヤとその周辺から人々が集まってくるほどだったのです。
するとかねてよりナザレ人イエスに目をつけていたファリサイ派の人々が具体的に接触を試み始めました(8:11)。本日の朗読箇所はフィリポ・カイサリア地方から始まりますが、ここはガリラヤ地方の北の外れです(27)。追手を避けたというばかりでなく、弟子たちを教えて訓練するために十分な時間と場所を確保されたということです。
その途上のことでした。イエス様は弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは実際に彼らが先々で耳にしたことを報告します。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と列挙されます。人々がばらばらに勝手なことを言っているようにも見えますが、実のところユダヤの人々にとっては同じものを指しているのです。
来たるべき主の日に際して、前もって神から遣わされる者がいると旧約の預言にあります。「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ3:23)と名指しされていますが、エリヤその人が来るかエリヤの名を冠した預言者が新たに起こされるのです。
その人こそ洗礼者ヨハネであるとイエス様が示されていますので、「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」と呼び方は違えど同じものを指しています。一方で、人々はイエス様のことを神様から遣わされた方であると認めつつも、預言者の一人にすぎないと言ったわけです。
「あなたがたはわたしを何者だというのか」と尋ねられた弟子たちを代表して、ペトロが「あなたは、メシアです」と答えました。時代の終わりに現れる方ではありますが、先に遣わされる者ではなく世界を治める来たるべき王だというのです。
とても非常に危険な答えです。当時のユダヤはヘロデ王が治めていましたが、王とは言ってもローマから任命された者でした。ユダヤ人自治区の統治者に過ぎず、領主と呼ばれます。ほかにも当時のパレスチナにはローマの総督が置かれていました。すべての権威の上にローマ皇帝が神として君臨していた時代ですから、ローマに服しない権威はすべて皇帝への反逆ということになります。
ですから人々は祖国を解放してくれるメシアを求めつつも、明言することを避けて先駆けとしてくるエリヤを待望したのでしょう。あるいはエリヤという名も大きすぎるために「預言者の一人」と濁したわけです。
ナザレ人イエスについて、この方が神から遣わされた者であるという告白までは人々も弟子たちも違いがないのです。預言者であると告白しても、メシアの職分である「王、祭司、預言者」の一つは言い得ていますから嘘はついていないことになります。
ところが王であると言えばローマへの反逆であり、祭司であると認めれば神殿への冒瀆としてユダヤ人社会から排除されてしまうのです。どちらを取ってもそこに待っているのは死です。そして皇帝への反逆は十字架というローマの残虐な処刑法が待っています。
言葉を選んで噓にならない程度に明言を避けて言い逃れるか、「イエス・キリストは神の子、救い主です」と告白するか、その違いは紙一重ですが大違いです。弟子たちはイエス様のことを単なる預言者ではなく、王である祭司メシアだと告白しました。
2.自分の十字架を背負う
そこでイエス様は弟子たちに、御自分のことをだれにも話さないようにと口止めをされました。これはイエス様がおられることを秘密にせよということではなく、預言者たちとは別のメシアであるということで人々と議論をするなということでしょう。
その上で改めて弟子たちにこれからご自身に起こることを教えられました。ここでは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と概要だけ記されています(31)。「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」(32)とありますから、ガリラヤの最果てからエルサレムの都へ臨む道のりを含めて具体的な話をされたようです。
ユダヤ指導者たちから受ける迫害のために、時にはサマリア人の地を通ることにもなるでしょう。サマリア人とユダヤ人とは仲たがいしていたので危険が伴います。エルサレムには例年通り過越祭の時期に巡礼するとして、宿は都の中ではなくベタニアにいる旧知の者を頼ることになります。これらについても順を追って教えられたでしょう。
ロバに乗って王様として群衆に迎えられる計画までは良かったのです。都に行けば捕らえられて殺されるから、3日目の復活を待ちなさいと仰られたのでしょう。そのひと言を耳にするとペトロが居ても立っても居られない様子、我慢できずにイエス様をわきへ連れ出していさめたというのです。
ペトロは何を求めていたのでしょうか。イエス様がメシアとしてエルサレムに入り、イスラエルの王として君臨することです。そうすれば弟子たちは領主として任命され、フィリポやヘロデの代わりに領地をいただけることでしょう。この世の権威を得たいと願っていたのはペトロばかりでなく、ゼベダイの子と知られるヤコブとヨハネも同じでした。
マタイはペトロのことばとして「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と記しています(マタイ16:22)。何がとんでもないのかと真意を汲んで読み替えますと、「先生、それでは話が違うじゃないですか。あなたが殺されてしまったら、わたしが受けるはずの褒美はどうなるってしまうですか」という響きでしょう。
イエス様はペトロの心を見抜いて「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とお叱りになりました(33)。「サタン、引き下がれ」とはあまりにも強い語調です。
他の弟子も内心ではペトロと同じことを考えていたことも、イエス様はお見通しです。本当は弟子たちだけに話を聞かせるつもりでしたが、群衆をも共に呼び寄せられました(34)。「やめ、やめ。仕切り直して全員集合」と、弟子たちが初心に帰るよう促されました。
改めてイエス様は「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。十字架とは当時のローマの極刑であり、死刑囚は自分がはりつけにされる十字架の横木を刑場まで背負わされました。
十字架の横木を背負わされた時点から刑が執行されていますので、背負って歩いていても既に死んだも同然です。数十kgという重荷を背負って運んでも、報いとして与えられるのは暴力と死だけです。イエス様はこの何の得もない苦しみを「自分の十字架」と呼び、ご自身が背負わされた上に吊るされて殺されたのです。
損か得かという点について申しますと、そもそも独り子である神が人間になった時点ですべてを捨てた大損です。多くの苦しみを受ける受けない以前の問題です。しかも罪がない方が罪人として死刑に処せられるのですから、大損も大損です。
受難も十字架の死も、イエス様ご自身にとっては得することなど何一つないのに、私たちの救いのために受けてくださいました。この救いの恵みを感謝しつつ信仰によって受けていますが、本来であれば私たちこそイエス様に「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と申し上げるべきところでしょう。
弟子として従いたいと思う者にイエス様が求められた「自分の十字架」について3つの福音書が共に同じく記しています。つまり、福音書が記された時代において教会の中で「自分の十字架」を背負うことが求められる必要があったということを示しています。
そして福音書に聴くすべての者に「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とキリストは招かれます。従うための道を示すため、まずご自分の受難の予告をしてくださいました。
<結び>
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:35)
予め知らされたとしても困難をすんなりと受け入れることは難しいでしょう。けれど知らされていなければ私たちの苦しみは理解しがたい徒労に過ぎず、この生涯は骨折り損のくたびれ儲けで終わってしまうことでしょう。
「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」との約束なしには耐え難いものでした。主が受難の予告をした上で十字架につけられ殺されて、3日目に復活してくださったので私たちはこの確証をいただくことができました。
レント(受難節)にあたり、改めて自分を捨て自分の十字架を背負わされることを覚えます。受難はキリストの死に終わるものではなく、復活の恵みに至る希望です。