「エリヤかメシアか」マルコによる福音書9章2-13節
2022年3月27日
牧師 武石晃正
2021年度も最後の週を迎えました。年度の初めと半ばに愛する姉妹また兄弟を主の御もとへとお送りした年でした。キリストに愛されて生きる生涯が死で終わるものではなく、神の栄光のためであることを覚えます。
また死の淵からの生還ともいうべき癒しの恵みを主は私たちに見せてくださいました。イエス様は姉妹を通して患難の中でも共におられることをお示しになりました。
長らくの病や悩み苦しみを負われている方々もおられます。日常の大小さまざまな試練は絶えず私たちを悩ませます。しかし主は私たちがどんな状態にあっても、遣わされているその場所おいて恵みを受け継がせてくださったと信じます。
本日は受難節第4主日にあたり、主が苦しみをお受けになる前に弟子たちにご栄光をお示しになられた箇所を開いております。
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牧師 武石晃正
2021年度も最後の週を迎えました。年度の初めと半ばに愛する姉妹また兄弟を主の御もとへとお送りした年でした。キリストに愛されて生きる生涯が死で終わるものではなく、神の栄光のためであることを覚えます。
また死の淵からの生還ともいうべき癒しの恵みを主は私たちに見せてくださいました。イエス様は姉妹を通して患難の中でも共におられることをお示しになりました。
長らくの病や悩み苦しみを負われている方々もおられます。日常の大小さまざまな試練は絶えず私たちを悩ませます。しかし主は私たちがどんな状態にあっても、遣わされているその場所おいて恵みを受け継がせてくださったと信じます。
本日は受難節第4主日にあたり、主が苦しみをお受けになる前に弟子たちにご栄光をお示しになられた箇所を開いております。
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1.栄光を現わされた御子
人々にご自身がこれから受けられる苦しみを明かしたイエス様は、自分の十字架を背負って従うようにと弟子としての覚悟を求められました。ガリラヤでの宣教活動からいよいよエルサレムへと進路を定められた時のことです。
それから6日後のこと、イエス様は3人の弟子だけを連れて高い山に登られました(2)。同じ出来事を記したルカによる福音書では「八日ほどだったとき」とありますが(ルカ9:28)、安息日を含めて数えれば8日目ということでしょう。またユダヤの暦は夕刻を一日の始まりとしますので、安息日はローマの日付では2日にまたがるのです。
3人の弟子たちとはペトロ、ヤコブ、ヨハネです。特別な目的のために3人を名指しして山に同行させた様は、まるで旧約聖書のモーセがシナイ山に登った時のようです (出24:1)。
この山がフィリポ・カイサリアから遠くないところにあることから、ヘルモン山ではないかと言われています。標高が約2800mもあるとても高い山です。後に雲で覆われたとありますから、山頂までではなくほどよいところまで登られたことが分かります。
突如、イエス様のお姿が弟子たちの目の前で変わり、服は真っ白に輝きました(3)。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど」とありますから、この世のものとは思えない光景にペトロたちは息を飲むばかり。
呆気にとられて弟子たちが見ていると、イエス様の前に2人の姿が現れました。モーセとエリヤです(4)。もちろんペトロたちは実際にモーセやエリヤとは面識がありませんから、イエス様が呼びかけた名前を聞いて大いに驚くわけです。ようやくペトロが口を開くことができたところで、その口からうわ言のような言葉が発せられたほどの感激です(5)。
エリヤとモーセに共通するところは偉大な人物であることのほかにもあります。エリヤは天に上げられ(列下2:11)、モーセは葬られた場所を知る者がいないということです(申34:6)。そして2人は世を去った後もなお生きており、輝きをもって現れました。
何を語り合っていたのかについてはルカによる福音書から知ることができます(ルカ9:31)。エルサレムでイエス様がお受けになる苦しみと死、復活のことです。マルコは下山の途中でイエス様が弟子たちに受難と復活について説かれたことを述べています。
律法をモーセに与え御言葉をエリヤに預けた神ご自身は、今さらこの2人に教えを乞う必要はないはずです。しかし神である方がいまや肉体をとって全き人であるがゆえに、私たちと同じ弱さを負われていたということです。
かつてシナイ山で顔と顔を合わせて語り合ったモーセであり、世の支配者からの迫害によって命を奪われそうになったエリヤです。この両名とは今や立場を入れ替えて、全き人として律法と預言者とを成就するための励ましをお受けになりました。神である方にとって死というものは本質的に相反するものであり、受け入れられないものだからです。
もうこの山から下りたら後戻りはできず、エルサレムで遂げようとしておられる最期があるだけです。いよいよメシアとしてエルサレムへ向かわれるにあたり、イエス様の緊張は高まっていきます。方や弟子たちはこの世のものではない光景に置かれて、ひどい眠気を覚えたとルカは記しています(ルカ9:32)。雲に覆われて御父の声が聞こえた時、3人は我に返りました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(7)
山を降りるにあたり、イエス様はまた弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と口止めされました。喋るなと言われると人に喋りたくなるのが人情ですし、人の口に戸は立てられぬとも申します。
モーセとエリヤを前につい口を挟んでしまったペトロについて、ある人たちは軽率な言動であったと評します。ところが他の二人は数日後に「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とイエス様に願い出ました(9:38)。これは山の上で知り得た知識がなければ思いもよらない願いです。
マタイによれば彼らの母もまた同じ願いをしています(マタイ20:20-21)。口止めされていたにも関わらず、ヤコブとヨハネは山で見たことの一部を母親へ漏らしていたわけです。山の上でのペトロを軽率だと言うならば、この2人の兄弟たちを何と言えましょうか。
話を戻します。肝心なのは死者の中からの復活であり、律法と預言者を成就するために神である方がメシアとして死ななれるということです。山を降りながらイエス様はエルサレムで遂げようとしておられる最期について、改めて弟子たちに説かれました。
後に弟子たちは復活されたイエス様とガリラヤの山で再会することになります。あらかじめ指示を与えておられたというので、恐らくこの山だと思われます(マタイ28:16)。イエス様がエルサレムへ向けて十字架の道を歩みだされた山の上で、弟子は自分の十字架を背負って世界宣教へと遣わされることになります。
2.聖書に書いてあるように
山を下りる道すがら3人の弟子たちが「死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」と記されています(10)。弟子たちにとってメシアが人々に殺されるということは受け入れがたいことですし、まして死者の中からの復活などは理解が及ばないことです。
弟子たちがイエス様に尋ねることができたのは「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」ということでした(11)。少し話題を反らした格好にも見えます。
時代の終わりについて旧約の預言書のうちマラキ書にモーセとエリヤについて記されています(マラキ3:22-23)。律法学者たちはそれを根拠にまずエリヤが来るはずだと言っていたということです。彼らが主張していたことは、モーセとエリヤを目の当たりにした弟子たちの中でも符合しました。
「聖書に書いてある」とイエス様のお言葉として重ねて記されています。この時点で聖書とは私たちで言うところの旧約までですが、それは律法学者たちも弟子たちも同じ条件です。同じ聖書に書いてあることであるのに、なぜ律法学者たちと弟子たちとの間に隔たりが生じたのでしょうか。
一番の違いは「信仰告白」です。弟子たちは不十分ながらもイエス様を「あなたは、メシアです」と告白しました(29)。イエス様はこの信仰告白のゆえに弟子たちへ受難を予告したり、山の上へ連れて行ったりなさいました。信仰告白に照らして聖書が正しく説かれるのです。
「まずエリヤが来るはずだ」と聖書を読むにしても、イエス様をメシアだと信じかどうかでその解釈が変わってしまいます。メシアであると信じるならば、先に遣わされた洗礼者ヨハネがマラキ書の示すエリヤその人であることは明らかです。
ナザレのイエスがメシアであるはずがない、まだエリヤが来るはずがない、このような立場であればどうなるでしょうか。いくら聖書に書いてあることでも正しく読むことができず、自分勝手な解釈を施すことになりましょう。
「エリヤは来たが」とヨハネのことをイエス様は語ります。「人々は好きなようにあしらった」とは詰まるところ彼の首を跳ねた王宮の私利私欲と言えますが、「蝮(まむし)の子らよ」と叱責されて逆恨みをした者もありました。ヨハネが捕らえられるや弟子たちは蜘蛛の子を散らすように雲散霧消したのです。
エリヤかメシアか、と洗礼者ヨハネやナザレ人イエスについてユダヤの人々は値踏みをしました。彼らは先に遣わされた預言者エリヤすなわち洗礼者ヨハネを好きなようにあしらいましたが、実のところ彼らがあしらったのは聖書の言葉そのものだったと言えます。
私たちがもしイエス様から直接聞くことができても、山の上で神々しい光景を目の当たりにしても、信仰なしには正しく理解することができないことを聖書は示しています。聖書に書かれていることでも、信仰告白に立って初めてエリヤかメシアかと見定めることができるのです。
たとえ私たちが不十分であったとしても正しい信仰告白に照らせば、イエス様が聖書から真理を説いてくださいます。
<結び>
「イエスは言われた。『確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。』」(12)
ご自分の栄光を3人の弟子たちだけにイエス様は山の上でお見せになりました。エルサレムで彼らが驚き恐れることが起こっても、見てそれを悟るようにとあらかじめお示しになられたのです。
世の人々は洗礼者ヨハネについてもナザレ人イエスについても、エリヤかメシアかともてはやしては旗色が変わると背を向けました。「あなたは、メシアです」と信仰を告白した者たちだけにイエス様は受難と復活、そして受けるべき栄光をお与えになります。
2021年度を締めくくりにあたり振り返っては、この一年も困難ではありましたが主の慈しみによってここまで守られて参りました。この先もまた難かしい局面が続くとしても、主ご自身が苦しみを共に負ってくださいます。
信仰告白の上に立ち、みことばの光に照らされて、十字架と復活の恵みに生かされて参りましょう。