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「十字架の勝利」マルコによる福音書10章32-45節

2022年4月3日
牧師 武石晃正

 新年度を迎えて最初の主日礼拝を皆さまと共に捧げることができる幸いを感謝いたします。昨年度がイースターの主日礼拝から始まったことを覚えつつ、今年は受難週の只中で年度を改めました。
 復活と言う華々しい主にある喜びをもって一年を始めるもよし、受難においてはキリストご自身が苦しいことも辛いことも私たちといつも供に背負ってくださるという恵みをかみしめることができましょう。

 マルコによる福音書からイエス様の3度目の受難予告の箇所を開き、「十字架の勝利」と題してお分かちいたします。

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1.3度の受難の予告
 今年のレント(受難節、四旬節)はマルコによる福音書から読み進めております。新約聖書に収められている4つの福音書はいずれもイエス・キリストの福音を記しており、時代は紀元1世紀の初め、場所は地中海を西に臨む中東の国イスラエルです。
 神の選びの民であるイスラエルは、当時のローマ帝国の属州として支配を受けていました。人々は帝国の圧政から解放する救い主メシアを求めていました。

 このイスラエルの国でも都があるのは南のユダヤ地方、イエス様が宣教を始められたのは北部ガリラヤ地方です。ガリラヤ湖畔のカファルナウムという町で弟子たちを集められ、地方の町々へ神の福音を宣べ伝えながら弟子たちを訓育されました。
 多くの病人を癒し、数々の奇跡を行ったことでガリラヤばかりでなく周辺の地方にもナザレ人イエスの名が知れ渡りました。人々はナザレ人イエスをあの洗礼者ヨハネの再来か、あるいは旧約聖書で約束されてた預言者エリヤかともてはやしたました。

 群衆がナザレ人イエスになびいて行く様子を見て、ユダヤの指導者たちは妬みを燃やします。ファリサイ派の人々と律法学者たちはナザレ人イエスを殺そうという企み始めました。他方イエス様はまず多くの人々に神の福音を伝えようと、異邦人が住む地域やガリラヤの北に位置するフィリポ・カイサリア地方へ向かわれました。
 迫害が強まる中、ユダヤの暦で新らしい年を迎えようという頃、イエス様は最初の受難の予告をしました。救い主メシアとしてエルサレムへと進路を転じた時のことです。

 弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と信仰のほどを問い、「あなたは、メシアです」と答えた者たちだけにご自分に起こる受難について明かされました (8:27-38)。
 それから6日後のこと、イエス様は3人の弟子だけを連れて高い山に登られました。そこでまばゆい姿に変わられたイエス様は、弟子たちの前でモーセとエリヤという旧約を代表する預言者2人と語り合いました。エルサレムでいよいよお受けになる苦しみと死、復活のことが話し合われたのです(9:2-13)。

 2度目の予告は、その高い山を降りてフィリポ・カイサリアからガリラヤへ戻られた時でした (9:30-32)。1度目の時のように軽はずみな受け答えをする者はおりませんでしたが、何とその直後にだれがいちばんえらいかと議論していたというのです(34)。
 そこから更に歩みを進めてユダヤ地方に入るや、いよいよエルサレムへ上って行く途中で3度目の受難の予告がありました。するとイエス様と高い山に登った3人のうち、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが何やら願い出ます。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とは、イエス様の栄光の姿を見たが故に受難と聞いて湧いた願いです(38)。

 エルサレムへと向かう途上の要所要所でイエス様は弟子たちに受難を予告し、自分の十字架を背負って従うよう求められました。しかしイエス様の御心とは裏腹に、弟子たちの思いはますます的が外れていくようです。

2.蒔かれた御言葉
 愛する先生が引き渡されて殺されると打ち明けているというのに、ヤコブとヨハネの胸中は手柄や褒美を求める思いで覆われていました。
 時と場所を変えてはイエス様が3度も語られた受難の予告と、聞いていた弟子たちの反応から一つのたとえ話による教えが浮かんで参ります。ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにおられた時、おびただしい群衆が押し寄せたのでイエス様はペトロたちに舟を出させて湖上から岸に向かって説かれたことがありました。その「種を蒔く人」のたとえです(4章)。

 たとえの教えにある4つの種になぞらえながら、受難の予告と弟子たちとを思い返してみましょう。1つ目は道端に落ちた種で、御言葉が蒔かれてもすぐに奪いさられてしまいます。1度目の受難の予告は全くと言ってよいほど弟子たちの心に入っていかず、まさに道端に落ちた種のようでした。
 2度目の予告は石だらけの所に落ちた種のよう、「怖くて尋ねられなかった」(9:32)とあるように艱難や迫害の前につまずきました。3度目はゼベダイの子ら、復活の希望が語られたのにこの世の富と名声を求めたのです。まさに茨の中に蒔かれた種のよう、富の誘惑や欲望が心に入り込んで御言葉を覆いふさいでしまいました。

 3度の受難の予告で弟子たちの信仰が試され、「種を蒔く人」のたとえで照らすことができる結果となりました。イエス様の逮捕によって彼らが離散することはエルサレムに上る前から火を見るより明らかになりました。
 ここまで付き従ってきた弟子たちは皆、あの日ガリラヤ湖畔で群衆が帰った後でたとえの説明を受けた人たちです。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」とまで言われた者たちであっても、心が整っていなければイエス様の死と復活を理解するのは難しかったということしょう。

 では受難の予告すなわちメシアの死と復活の御言葉を聞いて、受け入れた人はいたのでしょうか。それはこの後で一行が訪れるエルサレム郊外のベタニアで見ることができます。
 そこには一人の女性がおりました。彼女はある時イエス様の足もとに座り、心を乱さず御言葉に耳を傾けました(ルカ10:39)。そしてイエス様が告げられた受難の意味を悟り、葬りの日のために高価な香油を取っておいたのです。

 十字架までついて行くことはできなくとも、足を拭ったことで彼女はキリストの奴隷となりました。自分の髪で香油を拭い、イエス様と共に葬りの備えを身にまとったのです。
 「すべての人の僕になりなさい」との御言葉をベタニアのマリアは身をもって表しました。そして彼女のことは世界中どこでも福音が伝えられる所で語り伝えられ、その信仰は30倍60倍、100倍以上の実を結びました。

3.十字架の勝利
 さて3度目の受難の予告の後、一悶着においてイエス様は「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」とヤコブとヨハネ一刀両断されました(40)。死の覚悟をされていますから、そんなことは知りたくも考えたくもないと仰るところです。
 他の弟子たちも心が定まっていたわけではないのです。時はユダヤの暦で年の初め、過越祭の月でした。ガリラヤからエルサレムまでの街道は巡礼者の一団が行き交いますから、大勢でイエス様を囲んで行けばエルサレムまで見つからずに済むという算段でしょう。

 それにも関わらずイエス様が先頭に立って行かれたので、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」わけです。見つかったら最後、捕まったら殺されるという恐れです。神のことを思わず、人間のことを思っているのはあの3人ばかりではなかったことが明らかです。
 イエス様は神の子だから逃げも隠れもせずに先頭に立たれたのでしょうか。尻込みして誰も発とうとしないので、独りででもエルサレムに向かおうとされたようにも映ります。

 「軛を負わされたなら黙して、独り座っているがよい。 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない」(哀歌3:28-29)。哀歌から引用しましたが、まさにイエス様の胸中を詠んでいるようです。
 「異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」という恐ろしい出来事がエルサレムでは待ち構えています(34)。死と葬りで終わるだけの生涯ならどれほどむなしいことでしょうか。

 「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」(哀歌3:30-31)とあるように、イエス様はメシアとして苦しみを受け、御父は御子を葬りから3日目に復活させました。復活こそ十字架の勝利なのです。
 この世にあるかぎり苦しみは常に私たちを悩ませます。罪ばかりでなく悩み苦しみをもイエス様が私と同じ軛によって負ってくださるので、苦しみの中でも私は心強いのです。キリストは死にまで従われたことにより、弱い者たちに同情できる救い主となりました。

 全知全能の神である方、すべての者から崇められるべき方が仕える者の姿を取って世に来られました。わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ローマ5:8)。
 
<結び> 
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(45)

 私たちはキリストが死んで下さらなければならないほどの罪があること、そもそも私が死ななければならない罪を犯しているということに気づいているでしょうか。「どうして死ななければならないのか」という思いがあるなら、それこそ自分には罪がないと神様の前で言い張るようなものです。
 キリストを信じればいつも幸せな気分でいられる、もしそのようなものが救いだとしたらヤコブとヨハネが願い出たものと似た類のものでしょう。勿論イエス様が闇雲に私たちを試みることはありませんが、自分の十字架を背負って従うことを弟子に求めています。

 この世は強く大きく目に見える成果を成功や幸福だと考えるでしょう。しかし教会が同じ尺度に立ってしまったなら、イエス様の受難から遠のいてしまいます。侮辱され鞭打たれて殺されても、死で終わるのではなく復活があるのです。
 これこそキリストの十字架の勝利、私たちに与えられた救いの希望です。

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