「キリストの復活」ヨハネによる福音書20章1-18節
2022年4月17日
牧師 武石晃正
イースターの礼拝にあたり主の復活を覚え、お祝い申し上げます。
日本におきましても近年では世間でもイースターに由来する名称の催しや企画を見かける機会が増えたように思われます。せっかくイースターやクリスマスをお祝いするのですから、もっと多くの日本の方々がイエス様の復活を信じて救われるよう祈ります。
異邦人である私たちに天の御国が開かれたのは、キリストの血による新しい契約によるところです。すべての罪の代価としてキリストが十字架上で死なれただけであれば、話はそこでおしまいです。この方が復活したので信じる者には永遠の命が与えられるのです。
本日はヨハネによる福音書から世界で最初のイースターの出来事を読んでおります。
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牧師 武石晃正
イースターの礼拝にあたり主の復活を覚え、お祝い申し上げます。
日本におきましても近年では世間でもイースターに由来する名称の催しや企画を見かける機会が増えたように思われます。せっかくイースターやクリスマスをお祝いするのですから、もっと多くの日本の方々がイエス様の復活を信じて救われるよう祈ります。
異邦人である私たちに天の御国が開かれたのは、キリストの血による新しい契約によるところです。すべての罪の代価としてキリストが十字架上で死なれただけであれば、話はそこでおしまいです。この方が復活したので信じる者には永遠の命が与えられるのです。
本日はヨハネによる福音書から世界で最初のイースターの出来事を読んでおります。
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1.恐れと不安に満ちた朝
今でこそ私たちは新約聖書によってイエス・キリストが復活したことを知ることができます。ところが主の復活があったその年のイースターは、誰にとっても、イエス様ご自身にとっても初めてのことでした。弟子たちはどんな気持ちで迎えたことでしょう。
その年の過越祭の安息日は「特別の安息日」でした(19:31)。祭の暦の14日を普段の生活での安息日に祝うことができる、何年かに一度しかない特別な安息日です。ユダヤの指導者たちは目の敵であるナザレ人イエスを十字架上で亡き者とし、晴れ晴れとした気分で過越祭を祝ったのではないでしょうか。
かたや弟子たちは安息日なので町を出ることができず、敵地とも言えるエルサレムの真っただ中に取り残されてしまっています。安息日は礼拝のために会堂へ行くことしか外出が許されていませんし、会堂に行かないこともまたユダヤの掟に背くことになります。
外を出歩けば捕らえられてしまう恐れがありますから、息をひそめて家に閉じこもってます。安息日が明けるのを待ちつつ、祭の賑わいに乗じて逃げ出す頃合いを図っていたことでしょう。ところがマグダラのマリアが夜明けを待てずに墓場へ出かけ行き、血相を変えてやってきたところから本日の箇所が始まります(1)。
「主が墓から取り去られました」とマリアがペトロたちに告げたことで事態が一変します(2)。誰もが何とも言い難い胸騒ぎと埋めようのない空虚さを抱えながら、世界で最初のイースターの朝を迎えました。そして誰もが想像もしていなかった事件が起こったのです。
マグダラのマリアの報告を受けてペトロともう一人の弟子は墓場まで駆けて行きました。マリアは2人の後をついて行き、健気にも再び墓場へ向かいます。山肌を掘った洞穴状の墓から入口の石が取り除けられているのが見えます。
入口の石はマリア一人で動かせる大きさのものではありませんから、悪意の第三者が何かを企てたことは明らかです。警戒して入口から中を覗く弟子、勢いよく墓穴まで入って行ったペトロ、そして第一目撃者であるマリアの3人が遺体に巻かれていたであろう亜麻布だけがあることを確認しました。2人はマリアの証言が事実であると信じたのです
事実であればこそ、これはたちの悪い企みです。祭司長やユダヤの指導者たちの思惑であれば、ナザレ人イエスの一派を一網打尽にするために、弟子たちが死体を盗んだという濡れ衣を着せようというのでしょう。
これは一大事だ、と2人の弟子たちは仲間が待っている隠れ家へと帰っていきました(10)。マリアは墓の外に立ち尽くして泣いていたので、一人残されてしまいました(11)。
2.復活したキリストに出会う
このマリアにとってイエス様が殺されてしまったことは、それだけでも耐え難い悲しみです。それでも葬りのために亡骸を手入れすることで、別れを惜しみながらもいくらか心の痛みも和らぐことでしょう。しかし、そのささやかな慰めまで奪われてしまったのです。
悲しさと悔しさが入り混じった涙に曇る目で、マリアはもう一度イエス様が横たえられていた墓の中を覗きました(11)。なんとそこには2人の天使がいたのです(12)。なぜ泣いているのかと天使たちはマリアに尋ねました(13)。
「わたしの主が取り去られました」とマリアは答えました。復活について教えとしては聞いていましたが、イエス様が復活したとは彼女にとっては信じがたいことです。
十字架の上でイエス様が息を引き取られたとき、このマリアは目の前で見ていたのです(19:25)。そして亜麻布に包まれたイエス様の亡骸が葬られるところも、彼女は墓の前でしっかりと見ていたのです(マタイ27:61)。奇跡が起きて生き返ることがあるとすれば、その機会は何度でもあったはずでした。
振り返るとマリアの後ろには彼女の見知らぬ男が立っていました。役人であれば従者を連れておりますから、一人で来るのは園丁でしょうか。マリアは気を取り直して申し出ました(15)。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
もしこの人からイエス様の遺体のありかを聞き出せれば、ユダヤの議員であるアリマタヤのヨセフが何とかしてくれるはずです。お金持ちのニコデモも付いていますから、この2人ならローマの総督にもユダヤの役人にも話をつけられるはずなのです。
すると思いもよらぬ言葉が目の前の男の口から聞こえました。福音書はマグダラのマリアに起こった出来事として後代に伝えていますから、皆が分かるように通り名のまま「マリア」と記されています。呼ばれただけで声の主が誰であるかと分かったのですから、実際には身内の者しかしらない彼女の呼び名だったと思われます。
ヘブライ語で「先生」と呼ぶとき、通常は「ラビ」という語が用いられます(1:38)。ところがマリアは「ラボニ」と個人的な親しみを込めた言い回しで返しました(16)。仲間内しか知らない呼び名で呼ばれたので、マリアはすぐにイエス様だと気づくことができました。
嬉しさのあまり思わずすがりついてしまったマリアをなだめながら、イエス様は弟子たちへの言伝を託されます(17)。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。」
ご自分を置いて逃げ出してしまった弟子たちを、もはや弟子とさえ呼ばずに兄弟と呼んでくださいました。キリストは私たちが悔い改める前から赦してくださり、招いてくださるのです。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方」とは復活の力、勝利の喜びに満ちた神の子のお言葉です。
十字架の死によってすべての罪を贖い、キリストは死の力に打ち勝ちました。預言者たちを通して繰り返し語られた「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」との約束が成就しました。
この新しい契約はキリストを信じるすべての人に与えられます。今日この福音のことばを聞いてイエス・キリストを信じるなら、あなたも神の子としていただけるのです。
<結び>
「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(17)
復活された主はマリアを通して弟子たちに道を示されました。まだ父のもとへ上っていないのだからとマリアは制されましたが、今や主は御父の右の座におられます。私たちもすがることが許されているのです。
全ての罪と死に打ち勝たれた方が復活なさいました。この方を信じる者は神の子とされる身分、新生の恵みにあずかることができます。そして幸いにも本日は新生の恵みを受けた証しとしての聖礼典、洗礼がこのあとすぐに執り行われます。
死んで葬られたイエス様が復活したので、信じる私たちにも死んでも生きる永遠の命が与えられました。主の再臨の希望と、復活の恵みを味わい喜びましょう。
主の復活を祝い、イースターおめでとうございます!