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「信じる者になりなさい」ヨハネによる福音書20章19-31節

2022年4月24日
牧師 武石晃正

 私事ではございますが、今月とある友人に第一子が生まれました。彼は遠方に住んでいるので直接に会うことはできなくても、ほとんど毎日のようにやり取りがあった間柄です。結婚のこともお子様のことも、知らせを聞いて家族のように嬉しくなりました。
 ところがもし私が知らせを聞いたとき「彼の結婚相手を見たことがないから私は彼の結婚を信じられない」「出産に立ち会っていないから彼に子どもが生まれたことを私は受け入れがたい」と疑ったなら、その友人はどう思ったでしょうか。あるいは今ここにおられる皆さんは私のことをどのように感じられるでしょうか。

 人の結婚や誕生の知らせを聞いて素直に「おめでとう」と祝ってあげることができるのは幸せなことです。まして死んだ方が復活したと聞いたらどれほどの喜びがあるでしょう。
 本日はヨハネによる福音書を読み、復活したイエス様に再会した弟子たちの出来事から思いめぐらせて参ります。

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1.弟子たちに現れたイエス様
 使徒信条において先ほども私たちはイエス様が十字架につけられて死に、葬られた後3日目に復活されたことを告白いたしました。復活なさったイエス様は40日に渡って弟子たちと過ごされたことをルカが記しています(使徒1:3)。
 天に昇り全能の父なる神の右に坐したもうまでの限られた日々を、イエス様は愛する弟子たちと名残惜しまれたことでしょう。使徒と呼ばれる11人のほか取り巻く多くの弟子たちがおりましたから、全員と語り合うには40日でも足りないほどです。

 今でこそ聖書にイエス様の復活が記されていますから、復活を信じてその恵みにあずかるか否かは読み手に委ねられているところです。ところがイエス様が復活された最初の日は、全世界の誰にとっても未だ見たことがない初めての出来事でした。
 週の初めの日の夕方、すなわちその日の終わりのことです(19)。弟子たちにとって安息日が明けたその日は、本来であれば祭の賑わいに乗じてエルサレムから脱出できるはずの日でした。

 朝一番にイエス様の墓へ出かけたマグダラのマリアが、なんと墓から遺体がなくなっていることを目撃しました。その知らせを受け、現地へ駆けて行ったペトロともう一人の弟子がそのことを確認しました(8)。
 この2人の弟子は直ちに仲間たちへ遺体がなくなったことを報告し、それを受けた弟子たちは動揺します。そこへ後から戻って来たマグダラのマリアが「わたしは主を見ました」と墓所でイエス様から言付けを預かったと言うので、弟子たちは困惑するばかり。

 愛する主の死を受け入れられず、マリアは正気を失ってまったのでしょうか。イエス様の遺体は誰が盗んでいたのか、何の企みが起こっているのかと不安が不安を呼びます。
 遺体についてはアリマタヤのヨセフがピラトから引き取りましたので、彼に相談すべきでしょうか。いずれにしても状況が明らかになるまでは身動きの取りようがなく、隠れ家に足止めされた格好です。

 あるいはイエス様と懇意にしていたニコデモを頼るべきでしょうか。かつて彼がひそかにイエス様を訪ねてきたように、今度は弟子たちが仲間を遣いに出したようです。
 一人を遣いに出したので、家の中にいるのは10人のはずでした。ところがどうも一人多いのです。「なんだトマス、もう帰ってきたのか」「早かったじゃないか、用は足りたのかい」「誰だよ、戸口に鍵をかけ忘れてたやつは」そんなやり取りが聞こえてきそうです。

 彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と挨拶した声はトマスのものではないので、弟子たちの動きは一瞬凍り付いたことでしょう。ユダヤ人の手の者が潜り込んだかと思いきや、なんとイエス様だったのです。
 マリアに告げた言付けを弟子たちがにわかには信じられないことも、イエス様はちゃんとお見通しです。頃合いを見てご自身のほうから現れてくださり、釘で打ち付けられた手と槍を刺し通された脇腹をお見せになりました(20)。本当に復活なさったのです。

 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とイエス様は続けられます。救いを完成されたことで、いよいよ弟子たちに御自分の務めを譲りとして明け渡されました。
 十字架にかかる以前、イエス様は「あなたがたに新しい掟を与える」と弟子たちに神の国の掟を与えておられました。「わたしの血による新しい契約である」と約束されたとおり、十字架で流された血によってその掟を有効なものとしてくださいました(ヘブライ9:17)。最後の晩餐で制定され、十字架と復活によって施行されたということです。

 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23)とは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(15:12)との命令そのものです。罪人である私たちがわざわざ赦さないとか罪に定めるとかの判断を下さずとも、罪はおのずと罪であるには変わらないものです。
 ですからだれの罪でも赦さずに放っておけば、罪は罪として赦されないまま残ることでしょう。しかし聖霊を受けた私たちがその罪を赦すならば、その人は救いを得ることになるとイエス様が委ねてくださったのです。

 新しい契約、キリストの掟は赦すか赦さないの二者択一ではなく、赦すことのただ一択です。

2.疑う者もいた
 ここで終われば話は丸く収まるのですが、福音書は信仰の道が美談やきれいごとでは済まないということも明らかにしています。マタイによる福音書でも、復活したイエス様に会った弟子たちの中に疑う者もいたと正直に記されています(マタイ28:17)。弟子たちでさえ初めは半信半疑だったのです。
 ディディモと呼ばれるトマスという人物について、この福音書だけ特別に記事を一つ残しています。イエス様が来られた時そこに一緒にいられなかったことは、トマスにとってどれほど残念で悔しく思われたことでしょう。

 自分だってイエス様に会いたかったのに、仲間たちが口々に「私たちは主を見た」と言ってくるのです。「イエス様に会えてうれしかったのは分かるけれど、少しは俺の気持ちにもなってくれ」と何とも言えないトマスの胸の内を推して知るところです。
 このトマスという弟子は、とても正直な一面を持っています。かつてイエス様が御父のもとへ行くことを告げた際には「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と打ち明けました。

 前後しますが、イエス様が愛するラザロの死を告げた際に「さあ、彼のところへ行こう」と言われたことがありました。弟子の誰もが死の覚悟を迫られた時、真っ先に「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と従ったのがこのトマスなのです。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とのトマスは仲間たちに言い返しました。本心では信じたい、イエス様に会いたいと願っていたことでしょう。

 とはいえ、他の10人にしてもこの日の朝にマリアの言葉を信じなかったわけですから、どうしてトマスばかりを責められましょう。信じられないのはお互い様、むしろトマスが罪を残すことのないようにと仲間たちは懇ろに声をかけていたようにも思われます。
 さてこの日からユダヤでは除酵祭の週に入り、古いパン種を取り除いて一新される祭です。弟子たちはガリラヤへ行くように言われていましたが、トマスのために今日こそイエス様がまた来てくださるかと来る日も来る日も一緒に待ち続けました。

 明くる8日目、とうとうイエス様はトマスのためにお姿を現わしてくださいました。戸にはみな鍵がかけたったのは、単に夕方の戸締りをしたというだけでなく、あの日と同じ状況を作ってみんなでイエス様の現れを待っていたのでしょう。
 トマスにとっても他の10人にとっても忘れられない日となりました。「あなたの指をここに当てて(中略)わたしのわき腹に入れなさい」とイエス様はトマスに語られました。指を釘跡に入れなければ信じないと言い張ったものの、もはやトマスにはこのイエス様のお言葉だけで十分でした。トマスもイエス様の復活を信じたのです。

 「主を見た」と言った仲間の言葉を信じられなかったトマスだけが取り上げられていますが、他の弟子たちもマグダラのマリアの言葉を信じられなかったのは同じです。使徒たちが教会を建て上げていく中でも、福音書が書き記された年代でも、その先のどんな時代にあっても、自分で見て触れたものしか信じないという人が絶えることはないでしょう。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と聖書は証ししています。主の復活を見ないで信じることがどれほど難しいことか、使徒たちでさえ最初はみな疑ってしまったことを福音書は隠さずに述べています。

 「見ないのに信じる人は、幸いである」とトマスに語られたイエス様の御言葉は、今やこの知らせを聞くすべての人に与えられています。

<結び> 
 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(23)

 誰でも生まれたからには放っておけば必ず死にます。放っておかずとも、いくら延命しようとも、人は必ず死ぬのです。なぜなら人はみな神様から見れば罪の世に生まれ、罪の性質を持って生き、罪と死の原理に従っているからです。
 すべての罪を赦す、ただそのことだけのために罪のない神が十字架上で死なれました。死んで終わりではなく3日目に復活し、新しい契約を施行してくださったのです。

 新しい契約が赦すか赦さないかの二者択一ではないように、イエス様の復活も信じるか信じないかの二者択一ではないのです。ただキリストの十字架と復活とを信じることを決心した人だけに「その罪は赦される」と救いが約束されています。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

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