「まことの羊飼い」ヨハネによる福音書10章7-18節
2022年5月1日
牧師 武石晃正
聖書を読んでおりますと、様々な動物の名前が記されていることに目が留まります。神様が天地創造のみわざにおいて、あらゆる生き物をお創りになられたと気づかされます。
愛玩動物というよりも荷役であったり食用であったりと、生活に直接の関りがある動物のほうが多いようです。その中でもヒツジはイスラエルの人たちにとって最も身近な動物の一つでありました。皆さんにとって身近な動物はどんな生き物がありますか。
本日の箇所ではイエス様が羊飼いにたとえてご自身について教えておられます。
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牧師 武石晃正
聖書を読んでおりますと、様々な動物の名前が記されていることに目が留まります。神様が天地創造のみわざにおいて、あらゆる生き物をお創りになられたと気づかされます。
愛玩動物というよりも荷役であったり食用であったりと、生活に直接の関りがある動物のほうが多いようです。その中でもヒツジはイスラエルの人たちにとって最も身近な動物の一つでありました。皆さんにとって身近な動物はどんな生き物がありますか。
本日の箇所ではイエス様が羊飼いにたとえてご自身について教えておられます。
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1.わたしは門である
9章から引き続きイエス様とファリサイ派の人々と議論が記されており、話を続ければ続けるほどに対立が生じていく様子が描かれています。羊を飼うにも日本のように緑豊かな牧草地ではなく、荒れ野に近い厳しい気候風土であったことと重なって見えるようです。
一連のたとえにおいて「わたしは羊の門である」(7)と「わたしは良い羊飼いである」(11)と言い換えられています。門なのか羊飼いなのかと戸惑うところです。
ある説によりますと、囲いの中に羊たちを入れた後で羊飼いがその入り口を守るそうです。もし獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあれば、羊飼いは追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します(サムエル上17:34-35)。羊飼いは羊を守る門なのです。
「わたしは門である」と言われるとおり、羊はその門を入ります。日本語でも門を入ると書いて入門と言うことばが示すとおり、その道に従うことを意味するでしょう。イエス様に入門することは堅苦しい教えに縛られるのではなく、「出入りして牧草を見つける」という恵み豊かな道です。
この羊飼いがどれほど信頼できるかは計り知れないものがあります。イエス様が仰るには「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである」というのです。ただ救われるとか命が助かるというだけでなく、豊かに得るとはなんという恵みでしょう。
対して、「盗人であり、強盗である」と呼ばれる者たちも横行します。使徒ペトロは手紙の中で「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と注意を呼びかけています(Iペトロ5:8)。
雇い人は狼が来ると羊を置き去りにして逃げるので、狼は羊を奪って散らします(12)。私たち羊が目先のこと心を奪われたりやイエス様の他に二心をかけたりすると、おのずとこのような目に遭うことでしょう。
「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14)と良い羊飼いが私たちを呼んでくださいます。ただ優しいことばをかけてくださるだけでなく「わたしは羊のために命を捨てる」と言われました。実にその通り、罪の中に生まれ悪魔の手の内にあった私たちの魂を救うため、主は十字架にかかってくださったのです。
葬られて3日目に復活したイエス様と会った弟子が、この言葉を私たちのために書き記しました。私たちもイエス様の門から入り、イエス様を自分の羊飼いとしましょう。
2.羊のために命を捨てる
この福音書が書かれたのは1世紀の終わりごろですから、イエス様の十字架と復活から60年ほどの後のことです。地上におられたイエス様と同世代の人が生きていれば100歳近いことになります。
何事もなくても齢を重ねて多くの弟子たちが天の父の御許へと帰っていったことです。度重なる迫害の中で使徒たちも殉教し、あるいは不衛生や栄養失調などが元で早くに命を落としていった信者たちもいたことでしょう。病気になっても医者に掛かれないのです。
それでもこの道がまことの命に至る道であると信じた者たちが多く起こされました。ナザレ人イエスを救い主キリストであると告白すればローマへの反逆として死が待っている時代です。それでも唯一の神だけに真理と救いを求め、人々は命がけで信仰の道に入ったのです。
ところが最初の教えを聞いていない人たちが教会の指導者になってくると、外からの迫害ばかりでなく「盗人であり、強盗である」と言われるような者たちも現れました。たとえば迫害から逃れてきた人たちに紛れて、偽教師たちが教会に入り込むのです。そしてせっかく命がけで救われた魂を、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりしてしまうのです。
教会の中は疑心暗鬼になったでしょう。本当に迫害を逃れて来た人であれば助けてあげたいのですが、偽教師や密告者を迎えてしまったら教会が滅びてしまうのです。「この囲いに入っていないほかの羊」を迎え入れることは非常に危険で困難を伴います。
どのように見分けるのでしょうか。具体的な手段は記されていませんが、「その羊も私の声を聞き分ける」とイエス様のお言葉です。聖書の言葉で「聞く」とは「従う」という意味を含みますから、正しい信仰(信仰告白)を持っているかが問われるところです。
「羊のために命を捨てる」(11、15)「わたしは命を捨てる」(18)と繰り返されています。それは「羊が命を得るため、しかも豊かに得るため」でした。キリストが命を捨ててまで救った羊を損なってはならない、と言われているのです。
流れてきた教師が本物か偽物であるか、羊もその声を聞き分けます。羊の群れが主のものであるなら、羊飼いの声を聞き分ける耳があるはずなのです。そしてわたしの声を聞き分けるなら、わたしが命を捨てるようにあなたがたにもできるはずだと響きます。
他の囲いの羊だからといって受け入れなければ、その羊は滅んでしまいます。とはいえ、もし偽教師や迫害者であれば、受け入れた教会や信徒たちのほうが命を奪われるのです。
それでも「誰も私から命を取り去ることはできない」とイエス様が仰るのです。イエス様は傍から見ればユダヤの指導者たちから迫害を受け、ローマ兵の手で殺されました。羊が命を得るためであれば、迫害者によって殺されるのではなく「自分でそれを捨てる」のがキリストの歩まれた救いの道です。
「命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」という戒めによって、キリストは十字架にかかり、自らを全きいけにえとして神にささげました。この戒めはキリストから使徒たちに、そして教会へと授けられました。
教会は主キリストのからだですから、教会をもってイエス様は羊飼いとしての務めを果たされます。すなわち「わたしは」と記されているところを「教会は」と読み替えることになりましょう。そして教会に加えられた者はみなキリストの体の部分ですから、一人一人もまた「私は」良い羊飼いであるとキリストと共に十字架を負うのです。
普段の信仰生活において命を捨てるというほどまでの場面に遭遇することは稀かもしれませんが、誰かのために損をしたり厄介事を抱えたりということはしばしば起こるでしょう。時間や金銭、自由が費やされるとき、信仰によってそれをイエス様が私のために支払ってくださった代価の一部だと考えることができるのです。
「わたしは自分でそれを捨てる」とキリストが仰るのですから、その体もまた命さえも捨てることができるです。奪われたとか損をしたとか考えればそれまでですが、自ら手放したのであれば「それを再び受けることもできる」という確証が与えられています(18)。
「これは、わたしが父から受けた掟である」とイエス様は弟子に対して掟を皆伝しました。掟とは「してもしなくてもよい」という自由選択や「できるならやってごらん」という努力目標ではなく、その家あるいは一門の決まり事です。
掟を破ることは破門を意味しますから、自分から命を捨てることを投げ出せば神の子としての身分を失うことでしょう。しかしキリストは「わたしは門である」と私たちを招かれます。キリストを通って入った者は文字通り入門者であり、掟を守ることで「門から入る者が羊飼いである」(2)と呼ばれるようになるのです。
キリストが良い羊飼いであり私たちのために命を捨ててくださいました。そしてキリストの体である教会は羊飼いとして犠牲を払うことができるのです。羊のために命を捨てる者は再び受けることができ、しかも豊かに受けるとの約束もいただいています。
イエス様は「わたしを通って入る者は救われる」「門を出入りして牧草を見つける」「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と幾重にも担保と補償とを示してくださいました。ですから私たちも主のために、「この囲いに入っていないほかの羊」と主が呼ばれる者たちのためも命を捨てることができるのです。
<結び>
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)
かつてイスラエルの王であるダビデは自らを羊になぞらえて、主なる神様を私の羊飼いと呼びました。この祈りと讃美は初めイスラエルに与えられ、キリストの契約によって教会にも分け与えられました。
主の羊としてダビデは命を養われ、時には死の危険にさらされましたが幾度と主に助けられました。このダビデは主を羊飼いと呼びつつも、自身もまた主に油注がれた者として神の民を牧する羊飼いでありました。
私たちにとってもイエス・キリストは唯一の羊飼いであります。同時に「門から入る者が羊飼いである」(2)と言われているとおり、キリストという門から入った私たち一人一人もまた良い羊飼いなのです。
こうして教会が整えられ、キリストの体がまことの羊飼いとしていよいよ建て上げられていきます。たとえ荒れ地のような困難なところを歩んでいるとしても牧草を見つけます。
教会の中の愛の交わりに加えて、この囲いに入っていないほかの羊をも導くまことの羊飼いとされましょう。
9章から引き続きイエス様とファリサイ派の人々と議論が記されており、話を続ければ続けるほどに対立が生じていく様子が描かれています。羊を飼うにも日本のように緑豊かな牧草地ではなく、荒れ野に近い厳しい気候風土であったことと重なって見えるようです。
一連のたとえにおいて「わたしは羊の門である」(7)と「わたしは良い羊飼いである」(11)と言い換えられています。門なのか羊飼いなのかと戸惑うところです。
ある説によりますと、囲いの中に羊たちを入れた後で羊飼いがその入り口を守るそうです。もし獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあれば、羊飼いは追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します(サムエル上17:34-35)。羊飼いは羊を守る門なのです。
「わたしは門である」と言われるとおり、羊はその門を入ります。日本語でも門を入ると書いて入門と言うことばが示すとおり、その道に従うことを意味するでしょう。イエス様に入門することは堅苦しい教えに縛られるのではなく、「出入りして牧草を見つける」という恵み豊かな道です。
この羊飼いがどれほど信頼できるかは計り知れないものがあります。イエス様が仰るには「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである」というのです。ただ救われるとか命が助かるというだけでなく、豊かに得るとはなんという恵みでしょう。
対して、「盗人であり、強盗である」と呼ばれる者たちも横行します。使徒ペトロは手紙の中で「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と注意を呼びかけています(Iペトロ5:8)。
雇い人は狼が来ると羊を置き去りにして逃げるので、狼は羊を奪って散らします(12)。私たち羊が目先のこと心を奪われたりやイエス様の他に二心をかけたりすると、おのずとこのような目に遭うことでしょう。
「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14)と良い羊飼いが私たちを呼んでくださいます。ただ優しいことばをかけてくださるだけでなく「わたしは羊のために命を捨てる」と言われました。実にその通り、罪の中に生まれ悪魔の手の内にあった私たちの魂を救うため、主は十字架にかかってくださったのです。
葬られて3日目に復活したイエス様と会った弟子が、この言葉を私たちのために書き記しました。私たちもイエス様の門から入り、イエス様を自分の羊飼いとしましょう。
2.羊のために命を捨てる
この福音書が書かれたのは1世紀の終わりごろですから、イエス様の十字架と復活から60年ほどの後のことです。地上におられたイエス様と同世代の人が生きていれば100歳近いことになります。
何事もなくても齢を重ねて多くの弟子たちが天の父の御許へと帰っていったことです。度重なる迫害の中で使徒たちも殉教し、あるいは不衛生や栄養失調などが元で早くに命を落としていった信者たちもいたことでしょう。病気になっても医者に掛かれないのです。
それでもこの道がまことの命に至る道であると信じた者たちが多く起こされました。ナザレ人イエスを救い主キリストであると告白すればローマへの反逆として死が待っている時代です。それでも唯一の神だけに真理と救いを求め、人々は命がけで信仰の道に入ったのです。
ところが最初の教えを聞いていない人たちが教会の指導者になってくると、外からの迫害ばかりでなく「盗人であり、強盗である」と言われるような者たちも現れました。たとえば迫害から逃れてきた人たちに紛れて、偽教師たちが教会に入り込むのです。そしてせっかく命がけで救われた魂を、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりしてしまうのです。
教会の中は疑心暗鬼になったでしょう。本当に迫害を逃れて来た人であれば助けてあげたいのですが、偽教師や密告者を迎えてしまったら教会が滅びてしまうのです。「この囲いに入っていないほかの羊」を迎え入れることは非常に危険で困難を伴います。
どのように見分けるのでしょうか。具体的な手段は記されていませんが、「その羊も私の声を聞き分ける」とイエス様のお言葉です。聖書の言葉で「聞く」とは「従う」という意味を含みますから、正しい信仰(信仰告白)を持っているかが問われるところです。
「羊のために命を捨てる」(11、15)「わたしは命を捨てる」(18)と繰り返されています。それは「羊が命を得るため、しかも豊かに得るため」でした。キリストが命を捨ててまで救った羊を損なってはならない、と言われているのです。
流れてきた教師が本物か偽物であるか、羊もその声を聞き分けます。羊の群れが主のものであるなら、羊飼いの声を聞き分ける耳があるはずなのです。そしてわたしの声を聞き分けるなら、わたしが命を捨てるようにあなたがたにもできるはずだと響きます。
他の囲いの羊だからといって受け入れなければ、その羊は滅んでしまいます。とはいえ、もし偽教師や迫害者であれば、受け入れた教会や信徒たちのほうが命を奪われるのです。
それでも「誰も私から命を取り去ることはできない」とイエス様が仰るのです。イエス様は傍から見ればユダヤの指導者たちから迫害を受け、ローマ兵の手で殺されました。羊が命を得るためであれば、迫害者によって殺されるのではなく「自分でそれを捨てる」のがキリストの歩まれた救いの道です。
「命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」という戒めによって、キリストは十字架にかかり、自らを全きいけにえとして神にささげました。この戒めはキリストから使徒たちに、そして教会へと授けられました。
教会は主キリストのからだですから、教会をもってイエス様は羊飼いとしての務めを果たされます。すなわち「わたしは」と記されているところを「教会は」と読み替えることになりましょう。そして教会に加えられた者はみなキリストの体の部分ですから、一人一人もまた「私は」良い羊飼いであるとキリストと共に十字架を負うのです。
普段の信仰生活において命を捨てるというほどまでの場面に遭遇することは稀かもしれませんが、誰かのために損をしたり厄介事を抱えたりということはしばしば起こるでしょう。時間や金銭、自由が費やされるとき、信仰によってそれをイエス様が私のために支払ってくださった代価の一部だと考えることができるのです。
「わたしは自分でそれを捨てる」とキリストが仰るのですから、その体もまた命さえも捨てることができるです。奪われたとか損をしたとか考えればそれまでですが、自ら手放したのであれば「それを再び受けることもできる」という確証が与えられています(18)。
「これは、わたしが父から受けた掟である」とイエス様は弟子に対して掟を皆伝しました。掟とは「してもしなくてもよい」という自由選択や「できるならやってごらん」という努力目標ではなく、その家あるいは一門の決まり事です。
掟を破ることは破門を意味しますから、自分から命を捨てることを投げ出せば神の子としての身分を失うことでしょう。しかしキリストは「わたしは門である」と私たちを招かれます。キリストを通って入った者は文字通り入門者であり、掟を守ることで「門から入る者が羊飼いである」(2)と呼ばれるようになるのです。
キリストが良い羊飼いであり私たちのために命を捨ててくださいました。そしてキリストの体である教会は羊飼いとして犠牲を払うことができるのです。羊のために命を捨てる者は再び受けることができ、しかも豊かに受けるとの約束もいただいています。
イエス様は「わたしを通って入る者は救われる」「門を出入りして牧草を見つける」「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と幾重にも担保と補償とを示してくださいました。ですから私たちも主のために、「この囲いに入っていないほかの羊」と主が呼ばれる者たちのためも命を捨てることができるのです。
<結び>
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)
かつてイスラエルの王であるダビデは自らを羊になぞらえて、主なる神様を私の羊飼いと呼びました。この祈りと讃美は初めイスラエルに与えられ、キリストの契約によって教会にも分け与えられました。
主の羊としてダビデは命を養われ、時には死の危険にさらされましたが幾度と主に助けられました。このダビデは主を羊飼いと呼びつつも、自身もまた主に油注がれた者として神の民を牧する羊飼いでありました。
私たちにとってもイエス・キリストは唯一の羊飼いであります。同時に「門から入る者が羊飼いである」(2)と言われているとおり、キリストという門から入った私たち一人一人もまた良い羊飼いなのです。
こうして教会が整えられ、キリストの体がまことの羊飼いとしていよいよ建て上げられていきます。たとえ荒れ地のような困難なところを歩んでいるとしても牧草を見つけます。
教会の中の愛の交わりに加えて、この囲いに入っていないほかの羊をも導くまことの羊飼いとされましょう。