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「キリストの掟」ヨハネによる福音書13章31-35節

2022年5月8日
牧師 武石晃正

 連休中に休暇をいただき、帰省して参りました。2,3日の留守を許していただきまして、不在時の対応を役員の皆さんに引き受けていただいたことをありがとうございました。この場所を離れていても一人一人お名前を挙げて祈っておりましたが、礼拝者の皆様に大きなお変わりがなかったご様子に一安心しております。
 実家の両親は歳を重ねつつも健在でありまして、自宅で共に食事をすることができました。何か特別なことをするではなくとも、親しい間柄で和やかに食事をすることは楽しく喜ばしいことです。

 ところが本日お読みいたしました聖書の箇所は最後の晩餐の一場面です。イエス様が十字架にかかられる前に弟子たちと親しく交わるための食事でしたが、その食卓は主を裏切る者と見捨てて逃げ出す者たちばかりでした。
 全てをご存じの上で、それでも弟子たちに愛をお示しになったキリストの掟について思い巡らせましょう

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1.新しい掟を与える
 「さて、ユダが出て行くと」(31)と切り出されております。ヨハネによる福音書は「夜であった」(30)と添えることで、ユダの行動が光ではなく闇に向かっていることを暗示しています。
 イスカリオテのユダと申しますと、キリスト教や聖書のことにあまり詳しくない方にもキリストを裏切った男として知られているようです。もちろん直接的にはユダが銀貨30枚という値段でイエス様の身柄を売ったわけですが、主が捕らえられるのを見て逃げ出してしまったのなら他の弟子たちもまた裏切ったようなものだと言えましょう。

 「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」とイエス様は言われました。過去形で言われていますがこれから事が起こって、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられるのです。
 ユダが動いたことで、あとは洪水が何もかもを押し流していくように後戻りができない状態になり、十字架の贖いまでのすべての準備が整ったということを意味するでしょう。もともとは過越の食事における式文の一節だったかもしれませんが、死の予感に戦慄が走り「今や」と興奮気味に発せられたと推すところです。

 既に十字架と復活とを福音書から読み知っている者からすると出来事の振り返りのようにも思われましょう。しかし死の恐怖に直面し、いよいよそれが差し迫っているのです。死ぬとか殺されるという語を発する代わりに「栄光を受け」「栄光をお与えになる」と重ねることで、御父の御心であることを自身に言い聞かせているようにも響きます。
 いつもの様子と違うイエス様を弟子たちはどのように受け止めていたでしょうか。彼らはイエス様がエルサレムに上ったのはイスラエルの王になるためだと考えていましたから、特別の安息日を前にいよいよ明日は決戦であろう、それに際してイエス様であっても感極まっているのだろうと見ていたのではないかと思われます。

 お言葉は「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」と続きます(33)。これでも意味は通じますが、「もうしばらくしかあなたがたとは一緒にいられない」という含みです。「いましばらく」しか居られないのだと切羽詰まった様子で、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と弟子たちにも告げました。
 捕らえられ、十字架が待ち構えています。弟子たちを伴うことができない場所です。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」(10:17)とかねて言われたことが起こるのです。

 この時点では復活することまでは分かっていても、神ご自身がこれまでに死なれたことがなく、どのように復活するのかの前例もないわけです。イエス様ご自身は復活するとしても、その時に弟子たちが会いに来ることはできるのでしょうか。
 再会できるのも復活したその日であればよいのですが、しばらく先になることも考えられます。それは復活したイエス様の状況にもよりますし、弟子たちがどこまで逃げてどれほど散らされるかにも依るところです。

 たとえ離れ離れになることがあったとしても、互いに結び付けられているのが絆であり掟です。イエス様はご自分が離れていても弟子たちが一つであるように「あなたがたに新しい掟を与える」(34)と遺言のように託されました。
 「わたしがあなたがたを愛したように」とは、一人が裏切り、多くの者が離れていくと知っていても食卓を囲んで弟子たちと親しく交わられたことに現れています。それはかつて「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」(マタイ5:46)と説かれたお言葉のとおりです。

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同5:44)と命じられた方は、自らを裏切る者たちを知った上で最後の晩餐に伴われました。「あなたがたも互いに愛し合いなさい」との新しい掟は、イエス様が不在であっても彼らが弟子であることのしるしです。


2.互いに愛し合いなさい
 新しい掟として「互いに愛し合いなさい」と命じられていますが、それまでの掟はどのようなものだったのでしょうか。敵をも愛せと言われた方は、「隣人を愛し、敵を憎め」と引用されました(マタイ5:43)。
 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」との教えは福音書にあるイエス様の教えだけでなく、実は旧約聖書の中で既に与えられているものです(レビ19:18)。愛の掟については、たとえばレビ記19章において具体的にいくつもの戒めが記されています。

 この場ではすべての規定を読み上げる時間がありませんが、その箇所には「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない」(19:9)「ぶどうも、摘み尽くしてはならない」(19:10)などと書かれています。「してはならない」という禁止の命令文が連なっておりますので、小難しく堅苦しい掟のように感じる方もおられましょう。
 古い時代の書き言葉ですから、正確な上に手短であることが求められました。字句通りに読み上げれば規定としては間違いないのですが、実行するにおいて主なる神様の御心のとおりであるかどうかはその人の心がけ次第ということになるのです。

 あれをするな、これをしろとの命令を杓子定規に守ろうとした人たちもいました。もし掟に背けば罪に定められてしまうということを恐れて、仕方なく渋々ながらに守るのであればそれは喜びに乏しいことでしょう。読み方や受け取り方の信仰が現れるところです。
 同じ否定文でも言い回しを少し変えてみましょう。「あなたがたがわたしの子どもたちであるなら、貧しい人たちがいるのを見て見ぬふりなんかしないよね」「畑に何一つ残していかないなんて意地悪なことはしないよね」と言うならば、否定文には違いありませんが、優しい父親が幼い子どもに噛んで含めるような響きになりましょう。

 旧約聖書の中にも律法の規定を愛の掟として行った人物が記されています。その人は大麦の刈り入れの時期に自分の畑の様子を見に来た際、地元の女性たちが落ち穂を拾う中に異邦人の娘の姿を見つけました。
 詳しいいきさつは省きますが、この畑の所有者は寄留者であるこの娘のために「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい」「それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ」と使用人に言いつけました。大麦の収穫が終わっても、今度は小麦の畑で彼は寄留者である異邦人に落ち穂として分け前を惜しまずに与えたのです(ルツ記2章)。

 単に「収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない」(レビ19:9)と禁じられただけでなく、「貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」と言われた神様の御思いまでも彼は自分の思いとして受け止めていたのです。彼の名はボアズ、主はこの愛の人を選んで救い主の系図すなわちダビデの家系を備えられました(ルツ4:21-22)。
 こうしてイエス・キリストの系図にこの人の名がしっかりと刻まれ、主ご自身もまたダビデの子として世に来られたのです(マタイ1:5-6)。新約聖書の冒頭にある系図を見ても、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」との愛の掟がまさしくキリストの掟であることが示されます。

 直接にイエス様から教えを受けた弟子たちもまたユダヤ人でありましたから、旧約の律法をよく知っていました。彼らはダビデの子と呼ばれる方から愛の掟を授かりました。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(Iヨハネ4:21)と告白しています。
 イスラエルが神様から受けた掟は、キリストの血による新しい契約によって教会に分け与えられました。かつて大麦の畑に身を寄せた異邦人の娘に落ち穂が惜しみなく与えられたように、異邦人である私たちにもキリストの御愛が豊かに与えられています。


<結び> 
 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(35)
 イエス様は弟子たちが裏切る者、見捨てて逃げ出す者と知ってもなお愛し、新しい掟を与えてまで弟子であることを保ち続けてくださいました。弟子とは師に倣う者ですから、たとえ裏切られると分かっていたとしても互いに愛し合うのです。

 口で言うほど容易くないことであるとは承知の上です。しかしキリストを信じると告白しても、命まで捨ててくださったご愛とは正反対、あるいは明後日の方角を向いている者が主の弟子と名乗ることができるでしょうか。
 確かに「言うは易く行うは難し」と諺にございます。けれど今日は折しも母の日、「案ずるより産むが易し」で受けさせていただきましょう。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これは私たちが弟子であることを証しするために与えられたキリストの掟です。

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