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「神の民」ヨハネによる福音書15章1-11節

2022年5月15日
牧師 武石晃正

 先日、教会学校で聖書の話をした時のことです。その箇所はイエス様がサマリヤの地を通って行かなければならないという場面でした。新共同訳聖書には巻末資料として略地図が載っていますので、その場でみんな一緒に開いてみました。
 福音書にはイエス様が訪れた場所がいくつも記されているので、地名だけは聞き覚えがあり、土地柄も何となく思い描いていました。ところが改めて地図を眺めてみますと、そこはまさにパレスチナと呼ばれている地域です。旧約の時代から現代にいたるまで、国と国、民族と民族とが衝突や摩擦を繰り返しているところです。

 昔から今に至るまで争いや憎しみばかりでなく、絶えることがない悲しみに満ちた地域です。その真っただ中に神の子イエス・キリストがおいで下さったことは本当に感慨深いものです。そしてこの方が神の国について私たちに説いてくださいました。

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1.わたしの父は農夫である
 エルサレムで過越の食事を済ませたところで、イエス様はこれからご自分が捕らえられようという時にもかかわらず、弟子たちだけに大切な教えを説かれました。
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とイエス様は仰いました(1)。この部分を直訳しますと「わたしは真理のぶどうの木である、そしてわたしの父は農夫である」と二つの節で成っていることが分かります。

 聖書の中で「わたしは~である」という言い回しは非常に強い意味があります。それと同じ強さをもって「わたしの父は農夫である」とイエス様はたとえで教えられています。つまりこの箇所は枝について説かれているようではありますが、中心に置かれているのは農夫すなわち御父の権威です。
 5節にも同じく「わたしはぶどうの木である」と繰り返されています。イエス様は独り子である神ですから、このぶどうの木は間違いなく農夫のものであります。農夫はぶどうの木におけるすべての権能を持っているのです。

 ぶどうの栽培においてはしばしば接ぎ木が行われるそうです。ここで言われている「ぶどうの木」とはいわゆる根から幹の部分であり、接ぎ木をされる台木を指しています。ぶどうの木が農夫のものであるとして、継がれた枝のどの部分までが農夫の所有とされているのかが問われます。
 せっかく継がれた枝であっても実を生じないものは、農夫はそれを取り除いてしまいます(2)。実を結ぶものすなわち花芽がついた枝を選んで、農夫は「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」のです。

 この手入れをするという語は剪定をするという意味の動詞です。この動詞には清めるという意味もありますので、イエス様は「あなたがたは既に清くなっている」という言い方をされたわけです(3)。
 実にこの場にいた者たちは「実を結ぶもの」として3年も前にイエス様に選ばれており、花芽を残して剪定された枝のように生業を捨てて弟子となった者たちです。

 3年余りもの間イエス様のお言葉によって指導と訓練を受けたので、弟子たちは「既に清くなっている」と言われました。いよいよ実を結ぶため更に「わたしにつながっていなさい」と命じられます(4)。実を結ぶには清めを受けただけでなく、キリストに留まり続けることが必要なのです。
 つい枝のほうにばかり目を留めてしまいましたが、先に申しましたとおりこの部分の中心は「わたしの父は農夫である」ということです。継がれている枝に台木が水と養分を与えるように、イエス様も枝である私たちに聖霊と御言葉をお与えになります。しかし枝を切るか切らないかを定めるのは農夫すなわち御父であるのです。

 宇都宮上町教会の敷地にはぶどうの木もありますが、西側の植え込みには梨の木もあります。枝葉が青々と茂りこれからどんどん伸びようとしている中に、よく見ると既に小さな実がいくつも結ばれています。
 花芽を見極めて剪定することができる方がいるので、この木は適切に手入れを受けることができました。冬までの間にどの枝も切られてしまったように見えますが、豊かに実を結ぶようにと花芽がちゃんと残されていました。これがイエス様のおことばにある手入れをされて清められた枝の状態です。

 たとえにおけるぶどうの木とその枝もこれと同じであり、実を結ぶ枝も結ばない枝も切られることは切られるのです。実を結ばない枝は付け根から取り除かれ、実を結ぶ枝も花芽のいくつかだけを残してほとんどの部分を失います。
 それは幹にも枝にも分からないことで、ただ農夫だけが知るところなのです。だからこそイエス様は「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と念入りに弟子たちを教えられたのです(4)。

 
2.わたしはぶどうの木
 続いて「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とイエス様は教えられます(5)。実を結ぶ枝である弟子たちについての教えです。
 ここではイエス様が繰り返し「わたしにつながっている」あるいはつながっていないことについて言及しています。つながるとは留まるという意味であり、接ぎ木された部分が癒合して切り離すことができない状態を言い得ています。

 どこまでが幹でどこからが枝であるかの境目を見分けられないほど、一体となって互いに結び合わされています。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」とはこのような状態を指します。
 ぶどうの木であるキリストはみからだである教会を通して、枝が豊かに実を結ぶようにと水と養分を惜しみなく与えます。この木には宗派という大枝があり、そこから教派教団という枝に分かれます。教区や中会、そして各個教会や小会へと枝分かれしながらぶどうの木は豊かな実を結んでいきます。

 数多くの枝に分かれてそれぞれの方向を向いているようにも見えますが、全体をもって一つの木として結びあわされています。継がれただけの枝、水と養分だけを都合よく奪おうとした枝は農夫によって取り除かれます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と、キリストがその体である教会とそこにつながる者たちにお示しになるとおりです(9)。
 実を結ぶ枝でも新しく豊かに実を結ぶために古い部分が剪定されます。枝は痛みを伴うかもしれませんが、豊かな実を結ぶことで木の所有者である方が栄光を受けるのです(8)。持ち主が褒められるのですから、木も枝も誉れ高いものとなりましょう。


3.わたしの父は栄光をお受けになる
 ところで、キリストでさえお受けになる苦しみに際して自分の都合ではなく「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました(マルコ14:36)。ゲツセマネの祈りを引用しましたが、公の働きを始められた当初から「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と御父の御心を最優先に求めるように教えておられます。
 たとえ御心であっても枝が断たれれば痛み苦しむのです。豊かな実を結ぶために試練や苦難を通してキリストの弟子はきよめを経験します。その中で「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とのお約束が真実であることを学ばされます。

 信仰を他の誰かと比較することはできませんが、とてもよく用いられている方々は目に留まるものです。神様はあの人をひいきしているんじゃないかしらと思われるほどに、困難であってもその道が開かれていくのです。その人が望むなら何でもかなえられているように見えることがあります。
 時に華々しく見えるようでも、このような人たちは御心に適うこと以外はすべて手放したか失ったかのような試練を通っているものです。この場におられる皆さまも経験されており、あるいは今なおその渦中にあるという方もおいででしょう。

 どの枝がどれほど切られたかについては、御父と切られた本人にしか分からないことです。クリスチャン同士であっても家族であっても、時には教会にも理解してもらえないように思われる場面もあるのです。
 それは弟子たちをゲツセマネまで伴いつつも、お一人で祈られたイエス様の御跡をたどる歩みです。主はその後に苦しみを受け、十字架にかかり、私たちの罪のために命を捨ててまでくださいました。豊かな実を結ぶためにはその枝が手入れを受けるのです。

 「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(8)と言われています。弟子であるのでキリストに倣います。断たれる苦しみは伴いますが、豊かに実を結び栄光が現わされ時に喜びに変わります。
 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11)との約束は、神の民に与えられた祝福そのものです。

<結び> 
 「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(10)
 これは私たちが弟子であることを証しするために与えられたキリストの掟です。御父が御子を愛しておられつつも受難受苦をお許しになられたように、キリストもまた私たちが苦しみや試練に遭うことを愛にもって許されておられます。

 農夫がどの枝を除き、残した枝をどれだけ切るのかは枝にとっては知る由もないことです。私たちがどんな目に遭おうとも、イエス様につながって豊かに実を結ぶなら御父が栄光をお受けになるのです。
 御父が農夫であればぶどうの木は農夫のものであり、木につながっている枝もみな農夫のものです。教会によってキリストにつながる私たちは神の所有とされた者、神の民なのです。

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