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「父のみもとへ行く」ヨハネによる福音書16章12-24節

2022年5月22日
宇都宮上町教会主日礼拝
牧師 武石晃正

 これから先に起こることを知りたいという思いは、誰しも大なり小なりお持ちではないでしょうか。先を読むという言い回しがございますが、実際に未来が見えているわけではなくこれまでに得た知識と経験に基づいて予測を立てていることです。イエス様も聞く者が分かるようにとたとえを用いて、つまり既知の事柄を用いて多くを説かれました。
 現代においてはあらゆるものが科学的に解明されようとしており、理論によって説明ができるかのようです。新しい技術がしばしば「未来の」と冠して紹介されることで、私たちの心を躍らせることもあります。

 科学は観察と分析を理論によって積み上げてきたものですから、その「未来」も実は過去の経験則からの集大成であるとも言えましょう。未来や将来について知りたいと願いつつも人間にはその力が与えられておらず、過去を見ながらいつももがいているようです。
 今朝も聖書を開いて、わたしたちが求めたり思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることのおできになる方の御言葉をいただいております。

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1.今は理解できない
 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と前置きをしながらイエス様はこれから起こることの核心に触れようとしています。ここでは「あなたがた」と「わたし」とを区別した言い方のようにも聞こえます。
 ではいつになったら理解することができるのでしょうか。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われています(13)。キリストが救いを完成し、弟子たちが聖霊を受ける時を待つ必要がありました。

 「真理の霊」と呼ばれている「真理」という語は名詞が用いられていますが、形容詞には「まことの」と訳される語があります。イエス様が「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃった箇所で用いられています。主メシアとして世に生まれた神の霊であり、この方をキリストとして世に現わした霊です。真理の霊で生まれ、満ち満ちているのでキリストは私たちにとって「まことのぶどうの木」であるわけです。
 地上にあっても独り子である神が「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」(14)と言えるのは、この聖霊によって御父と一つに結ばれているからです。そしてぶどうの木につながれた枝もまた、御子によって聖霊が与えられて一つとされます。

 キリストの体の肢であるので、地上で御子が御父から示されていたように、「その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と約束されています。そして自身のうちに留まっていた聖霊を弟子たちに与えるために、主は御父のもとへ上げられる必要がありました。これも弟子たちは聖霊によって後から悟ることになります。

2.父のみもとへ行く
 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」と弟子たちにとって不可解なことをイエス様は告げました。これは過去に起こったことがなく、前例がない新しい未来のことです。ですから弟子たちは胸の内に留めることができず、各々の思い思いのことが口から出てしまったのでしょう(17-18)。
 互いに論じ合っている弟子たちに対してイエス様は「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」と宣告されます。悲しみ、苦しみ、苦痛ということばを重ねながら、後に与えられる喜びについて語られました。とにかくまずは悲しみ苦しむことは確実であるということです。

 実際に「わたしを見なくなる」と言われたことが状況を変えながら繰り返し起こりました。結論的には主が天に上げられることを指しているわけですが、3年余りも寝食を共にしてきたイエス様が離れることなど弟子たちには考えられないことです。それが断続的に起ることになりますが、弟子たちがイエス様を見なくなったのはいつでしょうか。
 まずはイエス様がユダの裏切りによって群衆に囲まれ、祭司長や長老たちに捕らえられた時です。ペトロともう一人の弟子だけは大祭司の家まで跡をつけて行きましたが、他の弟子たちの姿はないのでイエスを見なくなったことになります(18:12以下)。

 次はイエス様の葬りによります。十字架はもしかするとどこかに潜んで遠くから見ることができたかもしれませんが、息を引き取られるとローマ兵によって遺体は降ろされました。弟子たちの及ばぬところで遺体の引き渡しと埋葬が行われると、墓の入り口は石でふさがれました。こうして誰も見ることができなくなりました(19:38-42)。
 続いては復活の朝です。埋葬からの一連ではありますが、葬りを見届けたマグダラのマリアでさえ墓が空っぽであることを見たのです。遺体さえも姿を消し、「あなたがたは私を見なくなる」と言われたことがこの時にも起こりました(20:1-10)。

 いずれにおいても弟子たちは大いに困惑し、深い悲しみと絶望感を味わったことです。しかし、とうとう葬りから3日目に復活したイエス様は弟子たちに現れてくださったのです。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われていたことが本当に起こったのです。
 最後に「私を見なくなる」と言われたことが起こったのは、まさにイエス様の昇天です。復活したイエス様は40日間弟子たちと過ごされ、彼らが見ているうちに天に上げられました。そして雲に覆われて彼らの目から見えなくなりました(使徒1:6-11)。

 この日以来だれもまだイエス様を見た人はいませんが、こうして「父のもとに行く」と言われていたことが成就しました。弟子たちもその意味を知って約束を待ち続け、10日後にいよいよペンテコステすなわち聖霊降臨を迎えたのでした。
 ところで「今はあなたがたも、悲しんでいる」(22)とのイエス様のお言葉が心にかかります。この時点では弟子たちは真意を理解していませんから、何を悲しんでいたのかは定かでないところです。

 むしろこれは聖霊によって福音書を通して、イエス様が教会に語られていると言えるでしょう。事実この福音書のために筆が取られた1世紀末には、教会が迫害と裏切りと異端とによって引き裂かれんばかりに苦しみ悲しんでいました。ヨハネはまずこの時代の教会がイエス様の御愛を思い出すようにと、その御業を書き記したのです(20:30-31)。
 「しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」との約束のとおり、確かにイエス様は復活後に弟子たちへ現れてくださいました。一緒に過ごして食事もなさいました。罪を贖い、死に打ち勝った喜びをイエス様は弟子たちに分かち与えてくださったのです。弟子たちも愛する主との再会によって喜びで満たされました。

 今や使徒たちもこの世を去り、御父のみもとへと召されました。イエス様と直接にお会いした人々が誰一人いなくなってもなお、「あなたがたはもうわたしを見なくなる」とのことばは生きています。主が再び来られる時、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」との約束が私たちにも果たされるのです。
 「わたしは父のもとへ行く」と言われた方は、神の子とされた者たちをも御父のみもとへと引き上げ、喜びで満たしてくださる救い主です。

<結び> 
 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16)
 父のみもとへ行くと告げられたとおり、イエス様は弟子たちの目の前で天に昇られました。死んで姿が見えなくなったのではなく、復活されて弟子たちに現れたのです。

 聖霊を受けた者、神の子どもとされる資格をいただいた私たちもまた、父のみもとへ行くことができます。子とされたので、父の家に帰るのです。
 今は苦しみの内にあり、キリストを見ることができずにもがいているところです。死にまで従われた方が同じく苦しみの道を通って行かれました。神の子が苦しみと死を受けられたことで御父の栄光を現わし、復活されました。子とされた者もまた世にある間しばらく苦しみを受け、キリストを通して父のみもとへ行くのです。

 そればかりか、かつては罪人であり「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった」と言われた者が、いまや「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と約束をいただいています。
 心の中でうめきながら待ち望んでいますが、私たちも父のみもとへ行くのです。

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