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「一つとなるためです」ヨハネによる福音書17章1-13節

2022年5月29日
牧師 武石晃正

 復活節第7主日を迎えました。イエス様の復活を祝うイースターから、昇天の後に弟子たちに聖霊をお与えになったペンテコステまでを教会暦では復活節としております。復活したイエス様が弟子たちとお会いになり、十字架による救いの完成までは隠されていたご計画を説き明かしてくださったことを覚える期間です。
 今年はヨハネによる福音書を続けて読んでおりますが、イエス様が復活してから後知恵のように教えられたのではなく、予め弟子たちに言い含めておられたのだという証言です。新しい契約が有効となる前ですから、救いのご計画は旧約の内に既に与えられていたことが示されます。

 使徒と預言者という土台の上に主はみからだである教会をお建てになりました。主が使徒たちへ託されるにあたり、御父の前に捧げた祈りとしてそのお心が記されています

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1.イエスの祈り
 どの福音書もイエス様の昇天後に成り立っていますが、ヨハネによる福音書は教会という組織がある程度のかたちになってから記されてました。教会の中に新しい教え、と申しましても後から付け加えられたり改変されたりしてできた偽の教えが入り込んできた時代です。

 使徒たちを中心にイエス様の直接の弟子たちが殉教あるいは召天して世を去っていく傍らで、使徒と自称する者たちが現れて教会を混乱させます。直接にイエス様から聞いた者、寝食を共にした者でなければ知り得ない教え記すためにこのヨハネが筆を執りました。
 教会を建てるために使徒たちは特別に選ばれており、彼らしか知らなかった教えをヨハネが記しています。祈りとして記されていることは御父と御子との間にあり、誰にも曲げたり犯したりすることができない真理であると言えましょう。

 過越の食事すなわち最後の晩餐において、イエス様は多くの秘密を弟子たちに明かされました。そして「これらのことを話してから」祈りに入られました(1)。
 恐らくユダヤの過越の食事のしきたりに沿っているのでしょう。食事は長い時間をかけて行われ、時には夜中にまで至るそうです。その中で家長は子どもたちに過越の意味、モーセを通して与えられた律法、イスラエルの契約などを口伝えで継承するのです。食事ではありますが、説教があり讃美と祈りを交えますから、一つの礼拝式であります。

 イエス様も過越の食事の祈りとして、天地創造のみわざから導いておられます。栄光とは「光あれ」と言われた方に帰され、創造主はご自身に似せて作られた人間に支配する権能をお与えになりました(創世記1:26)。
 ところが初めの人アダムが神様の命令に背き、契約を破ってしまいました。「必ず死んでしまう」(同2:17)との宣言どおりに人に死が定められ、支配下にあった被造物すべてが罪によって「呪われるものとなった」のです(同3:17)。

 このことを踏まえてイエス様は御父の前で「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました」と宣言されました。アダムに与えられた支配の権能によって罪と死が全人類に及びましたが、支配する権能をキリストがお受けになることにって「ゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」(2)。
 永遠の命とは何でしょうか。ここではっきりと定義されています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3)。知るとは単に知識を得るというだけでなく、自分のものとすることです。

 天地の創り主、全能の父なる神を知ることによって、私たちは最初の人アダムにおいてすべての人間が神に背いていることを知るのです。この私もまたその一人として罪の世に生まれ、神のみこころではなく自分の願うところを求めて生きてきた罪人なのです。
 イエス・キリストを知ることによって、この罪が贖われなければならないこと、この私の身も心も神の前に清められなければならないことを知るのです。罪人には自分の代価を支払ったり自分の罪を清めたりする力はありませんから、唯一まことの神ご自身が聖霊によってこの世に生まれて来てくださったのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)とのみことばが、ここの真理に掛かっています。キリストを唯一の救い主として信じて罪を悔い改めるなら、誰でも聖霊によって新しく生まれ変わります。そして御言葉によって清められる者とされるのです。


2.一つとなるためです
 ではその永遠の命を私たちはどのように受け取ることになるのでしょうか。御子を信じるとしても、既にキリストご自身は天に昇られているのです。
 分け与えるということでは、弟子たちを用いて行われた奇跡のことが心当たります。ガリラヤの山辺で行われたいわゆる5000人の給食と呼ばれる御業において、祝福されたパンと魚を人々に配るために使徒たちが任命されました。

 この使徒たちはかつてガリラヤの湖の上で「本当に、あなたは神の子です」とイエス様へ信仰を告白した人たちです(マタイ14:33)。そして「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白を「この岩」と呼び、主はこの岩の上に「わたしの教会を建てる」と宣言なさったのです(同16:18)。
 「彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じた」と言われています(8)。「イエスという人は立派な人でした」とか「人々の身代わりとなるとはすばらしい愛です」などと偉人の一人として評価をするのではなく、この方が「生ける神の子」であり他に神があってはならないとの確信が必要なのです。

 砂地の上ではなく信仰告白という一枚岩の上に主キリストの体である教会が「使徒や預言者という土台の上に建てられています」(エフェソ2:20)。当時のローマにおける石造りの建造物はアーチ構造を持っており、建物であっても橋梁であっても非常に丈夫なものが造られました。
 預言者は神の言葉によって研がれ、使徒たちにおいても「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とされています(15:3)。神ご自身から直接にお言葉をいただいた預言者と使徒たちが選びだされ、信仰告白という一枚岩の上に土台として据えられました。

 「彼らは、御言葉を守りました」とあるとおり、土台の上には同じく御言葉によって整えられ清められた石が積み上げられていきます。また完成に至るまでは積み上げられたものが崩れないように、隔ての壁と呼ばれる仮囲いが組まれます。
 土台とされる使徒たちと同じ地上におられた御子がいよいよ天に挙げられるので、イエス様は「彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」と言われます(11)。親石がかしらとして据えられるまで建物は非常に弱いので、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と特別な守りを願われました。

 「彼らも一つとなるためです」と、高く挙げられた「かなめ石」によって全体が一つの建物となるのです。かなめ石を据えると仮枠として組まれていた「隔ての壁」が取り壊され、大きな響きとともに全体がしっかりと組み合います。
 その音は積まれた石の一つ一つが完成を喜び祝う声のようです。実に「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになる」言われたことが成就したと言えましょう(13)。

 かなめ石であるキリストから力が分け与えられ、「すべての人を支配する権能」が発揮されます。信仰告白という岩の上に据えられた土台から上に向かって応力が働き、こうして全体に力がみなぎります。
 このようにしてキリストが天に上げられてかしらとなったことにより、見栄えがする石でも弱い者であっても一つの岩の上に建てられます。独り子である神キリストを信じるならば、永遠の命を与えられ、言葉によって清められるからです。

 私たちもまた信仰告白という岩の上に、使徒たちを土台として立てられた教会に加えられました。父子聖霊の御名によって教会が一つとなるために、主は復活されただけでなく天に昇ってくださったのです。


<結び> 
 「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11)
 十字架に臨み救いを完成されるにあたり、弟子たちの前でイエス様は御父に祈られました。世に来られても御子が御父と一つであったように、世に残る弟子たちを御名によって一つとしてくださいます。「かなめ石」であるキリストが最も高いところに挙げられたので、一つとされた教会全体に永遠の命が与えられました。

 これは誰かが後から考えて付け足した教えではなく、イエス様ご自身が世におられた時から祈りのうちに御父の御前で宣言された確かな約束です。あなたも私もイエス・キリストを救い主として唯一の神であると信じるなら、滅びることなく永遠の命を得るのです。
 いつかではなく今日、この世にあるうちにイエス・キリストを信じましょう。主は言われます。「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(13)

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