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「聖霊の賜物」使徒言行録2章1-13節

2022年6月5日
牧師 武石晃正

 今年も皆さまとともにペンテコステを迎えることができました。赴任した2年前のペンテコステを思いますと、あの年は史上初の緊急事態宣言が解除されるか否やの頃合いでした。主に信頼しつつも、この先いったいどうなるのかとの不安もありました。
 今もなお感染症の脅威は地上を覆っておりますが、以前よりはいくらか対応について心得て参りました。これまでに誰も経験したことのない出来事の中で、私たちは新しい時代へと向き合おうとしています。

 2000年ほど前にも人類は先にも後にもない大きな事件を経験しました。神ご自身が聖霊によって世に生まれたこと、神が人間として私たちの間に住まわれたこと、神が肉体において死なれたということです。この方は死んで終わられたのではなく3日目に死者の中からよみがえり、40日間弟子たちと過ごされた後に人々が見ている前で天に昇りました。
 これほど素晴らしい出来事の後、弟子たちへ約束されたとおりに神の霊が降りました。神と人との関係における新しい時代の始まり、ペンテコステの日のことでした。

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1.教会の始まり
 クリスマスはイエス様が世にお生まれになったことを記念する礼拝であり、イースターにおいてはキリストが死者の中からよみがえられたことを喜び祝います。ではペンテコステにはどんな意味があるでしょうか。
 聖霊降臨節とも言われるように、まずは神の霊がキリストの弟子たちへ降ったことの記念日です。降誕や復活については聖書にはっきり記されているので異論はないでしょうけれど、主キリストのからだである教会がどこを起源としているかについてはいくつかの見方があるようです。

 ここで朗読の箇所から少し離れますが、教会の始まりについて考えてみましょう。折角ですのでいくつか挙げながら、神様のご計画を思いめぐらせられたら幸いです。
 教会と訳されている語はギリシャ語でエクレーシアと言います。旧約聖書では主の集会の訳語にエクレーシアが当てられており、意味としては呼び出された者、召集された者を指します。

 多くの民族がある中でイスラエルが選ばれ、あるいは奴隷状態にあったエジプトの国の中から彼らは呼び出されました。契約や民族性に明らかな違いはありますが、この世の支配を受けていた者が代価を支払われて創造主によって呼び出されたという点において、旧約のエクレーシアは教会の雛形であるのです。私たちもまた異教の神々が取り巻いている日本という国の中で、キリストの名によって呼ばれ集められた者であります。
 旧約において契約の民イスラエルが主に背いたため、エルサレムが攻め落とされてバビロン捕囚という憂き目に遭いました。イスラエルは礼拝の中心である神殿を失ったため例祭を行えず、主の契約と律法を守ることができないという危機に瀕します。

 律法には、過越や七週祭に先立って「七日目はもっとも厳かな安息日」であり「どこに住もうとも、これは主のための安息日である」とも書かれています(レビ23:3)。捕囚の地バビロンでも逃亡先エジプトでも、どこででも7日目の安息日なら守ることができました。
 主が喜ばれるものはいけにえや焼き尽くす献げ物ではなく、愛と神を知ることだと教えられています(ホセア6:6)。週の7日目に集会を開き、呼び集められた者たちはこの世の支配にある労働から解放されて律法の言葉を聞くようになりました。

 週ごとに御言葉の朗読と解き明かしがあり、祈りと讃美が捧げられます。各地のユダヤの会堂はシナゴーグと呼ばれ、時の支配がペルシア、ギリシャ、ローマと移り変わっても会堂に集まる礼拝は続けられました。こうして彼らの神は「安息日の主」とも呼ばれます。
 イエス様も安息日にユダヤの会堂で御言葉を授けました。使徒たちの時代に求道し家族ぐるみで回心した会堂長もおりましたから、こぞってキリストを受け入れて実質的な教会となったユダヤ会堂も数多くあったわけです。

 教会の直接の起源ではないとしても、旧約から繋がる長い歴史の中でその基が備えられました。この歴史の中で救い主メシアが聖霊によって生まれてくださり、弟子たちはこの方を拝んで「本当に、あなたは神の子です」と信仰告白したのです(マタイ14:33)。
 そしてこのナザレ人イエスを生ける神の御子キリストであるとする信仰告白が「岩」と呼ばれます。主は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言されました。この教会の設立宣言は十字架の1週間ほど前、フィリポ・カイザリアでのことでした。

 更に十字架の前夜、過越の食事の席で「わたしの血による新しい契約である」と契約の内容が示されました(ルカ22:20)。教会の設立宣言の後に契約内容が公開され、いよいよ十字架上で流された血によって有効とされました。
 しかしその場で直ちにこの契約が神様から人間に与えられたわけではなく、その3日目に復活したイエス様と会った弟子たちが受け取ることになります(ヨハネ20:22)。そえrでも更に40日経ってイエス様は「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」とおっしゃいました。時がまだ来ていなかったのです。

 そこから10日を過ぎた五旬節の日、いよいよ聖霊が降ったということです。主は長い年月をかけてイスラエルを通して入念にご計画を進めておられました。いざ教会を建てようという時点においても、段階的に順を追って事を運んでくださいました。
 それは使徒たちをはじめ私たち人間が御心を知るには非常に遅い者であり、時間をかけなければ何事をもなすことができない弱さを持っているからでしょう。そしてイスラエルであっても異邦人であっても罪の支配から呼び出された者たちが、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(3:16)でありましょう。


2.聖霊の賜物
 忍耐をもってイスラエルを導き、この選びの民を通して神様はご計画を世にお示しになりました。そしていよいよ五旬祭の日が来ました(1)。
 エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た帰還民ばかりでなく、巡礼者が年がら年中やってきます。特に過越祭と除酵祭はユダヤ最大の祭で、遠方にいる者たちのために第2の月にも月遅れで行うように律法に定められています(民数9:11)。ですから過越祭から五旬祭までの足掛け3か月間は特ににぎわったことでしょう。

 主の弟子たちは泊まっていた家の上の部屋で心を合わせて祈っていました。それはイエス様が「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と命じていたからです(1:4-5)。彼らは約束通り聖霊が与えられることを待ち続けました。
 すると「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」というのですから、家の中にいた人も近隣の人もさぞかし驚いたことでしょう。しかも何と「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」というのです。

 風の音は神様の息、聖霊の働きを暗示します。「響いた」と訳されている語は満たすという動詞が用いられています。「舌」とは「言語」を意味しますから、この一文によって聖霊がこの場を満たして一人一人へ特別にほかの国々の言葉を授けたということです(4)。
 聖霊に満たされた人が興奮状態になって、何か不思議なことばを発するようになったということとは違うようです。物音を聞いて集まった人々が「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」というほどです。特別な力がない人でも聞けば分かる言葉を弟子たちが口々に語ったのです。。

 様々な国と地域の名前が上げられており、人々が東からも西からも集まっていたことがわかります。この人たちすべてがキリストを信じたかどうか定かではありませんが、少なくとも見聞きした珍しい不思議な出来事は土産話の一つとして語られたことでしょう。
 この日からガリラヤ訛りのユダヤ人たちは「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」イエス・キリストの証人として遣わされることになります。

 聖書はキリストを信じて救われれば何もかも良いことばかりになるとは教えておらず、むしろイエス様は「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と苦しみについて予告されました(ルカ21:17)。勢いよく進もうとするときには必ず摩擦や抵抗が生じます。ペンテコステの日にも「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいたのです(13)。
 私たちが信仰のゆえに苦しむことを主が知っておられるよと、ペンテコステの日も早々から教会があざけられたと使徒言行録は教えています。聖霊の賜物によって主の弟子たちは力を受け、エルサレムから始まって全世界へと向けてキリストの証しが宣べ伝えました。

 こうして聖霊の賜物によって教会が成長し、いまや私たちにも神の国とキリストの救いが告げ知らされたのです。


<結び> 
 「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(4)
 私たちがイエス様や弟子たちのようにヘブライ語やギリシャ語を話すことができなくても、主は聖霊によって教会にあらゆる国の言葉で福音を宣べ伝えることを許されました。 国や言葉は異なりますが、御霊によって教会は主キリストの体として一つであります。

 誰一人として私たちは自分から神様を知った者はおらず、主が私たちを選んでくださったので教会を通して御言葉と救いを受けることができました。罪を悔い改め、キリストの死と復活を自分のものとして受け入れた者には聖霊によって永遠の命が与えられます。
 「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」と私たちは信仰告白をいたします。かくして聖霊によって生まれた者は聖霊によって生かされ、聖霊によって教会に結び付けられます。私たちもまた聖霊の賜物によってキリストを証しするのです。

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