FC2ブログ

「神の子とする霊」ローマの信徒への手紙8章12-17節

2022年6月12日
牧師 武石晃正

 毎年ペンテコステから始まる聖霊降臨節は、教会暦で最も長い区切りです。今年は6/5から10/16まで20の主日を数えます。
 教会暦は文字通り主キリストの体である教会の暦ですから、主の降誕を記念するクリスマスから1年が始まります。降誕節から受難節を過ごし、主の復活を祝うイースターからは復活節を迎えます。召天日の後いよいよ神の霊が降ったペンテコステ、続く聖霊降臨節は聖霊の働きと併せて主のからだなる教会の時代を覚えます。

 目に見えず触ることもできませんが、最も身近な聖霊の働きを覚えて主に感謝し、ますます依り頼む者となりましょう。

PDF版はこちら
1.聖霊がくだる
 ヨハネによる福音書はその冒頭の部分で「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と証言しています(1:18)。この方を主と呼ぶ私たちは代々の聖徒と共に「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」たことを告白します(使徒信条)。
 一体、聖霊とはどのような方なのでしょうか。聖書の中で霊あるいは聖霊と訳されている語はおおむね「風」や「息」と同じ語が用いられています。

 天地創造のみわざにおいて地の塵から形作られた物に命の息が吹き込まれると、それは生きる者となりました(創世記2:7)。ところが最初の人アダムが取って食べるなと神様から命じられた木から食べたので、被造物すべてが呪いの下に置かれました。神様の霊を留めておくことができなくなり、人間をはじめすべての生き物に死ぬことが定めらたのです。
 アダムとエバがエデンの園を追放されてからも、その子孫たちは呪われた性質のゆえに罪に罪を重ねました。こうして私たち人類はますます神様のもとから離れてしまい、何が神の御心であるか、何が善いことで神に喜ばれるのかを知ることができなくなったのです。

 そこで神様は特定の人を選んで、たとえばノアやアブラハム、モーセのような者たちに御自分を示されました。主はご自分の選んだ民イスラエルが苦境に陥ると、士師や預言者を立てて民を導きました。この選ばれた人たちに主の霊が降ると驚くべき力を発揮し、民は救い出されました。
 しかし主の霊は永くはどどまりませんので、離れてしまうと人々はそれぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた生活に戻るのでした。御怒りを免れるとまた罪を犯すということを繰り返すとともに、度重なる外国の侵略と圧政にあえぎ苦しむ神の民の姿がありました。

 人間が自らの力では罪の問題をどうすることもできなくなった暗闇の世に、主は聖霊によって生まれてくださいました。そして「肉となって、わたしたちの間に宿られた」のです(ヨハネ1:14)。
 この方は独り子である神なので、主の霊は取り上げられることなくともにおられました。「神は我々と共におられる」という意味でインマヌエルと呼ばれます(マタイ1:23)。この方を「生ける神の子です」と告白した弟子たちにも聖霊が降りました。こうしてキリストの降臨とペンテコステのできごとのゆえに、たとえこの世が罪に満ちていても神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。


2.肉と霊
 「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)と書かれているとおり、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」と約束されています(同3:16)。私たちはキリストを信じることで神の子とされて永遠の命を得るわけですが、罪の世に生まれたままの体と心を持ったまま生きています。
 死に定められた体と心を持つ者に、神の霊によって永遠の命が与えられるというのです。死ぬべきものと永遠の命との間に矛盾や葛藤が生じます。ローマの信徒への手紙8章から思いめぐらせてみましょう。

 神様に造っていただいた肉体と心、そこに備わるあらゆる機能を生かすのが「霊」であります。この霊が罪のために取り上げられてしまうので、あらゆる生き物が死に至るのです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」(13)と示されているとおり、本来この世に生まれた私たちは「肉」に従って生き、死に至る生き方をしていました。
 けれども今はキリストを信じる信仰により、神の子とされ永遠の命にあります。肉体は変わっていませんが、もはや死に至るための生き方をしなくてもよいのです。この事実を「わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」とはっきり示されています(12)。

 同じ肉体であっても元来の死に至る生き方をすることもできれば、新しく永遠の命に至る生き方もできるのです。どちらが良い生き方であるか、砕けた言い方をすれば「得をする生き方」なのか、皆さんはどちらを選ばれますでしょうか。
 せっかく命をいただいているのですから、わざわざ滅びに向かおうとするならそれは非常に愚かなことのように思われます。しかし身も心も生まれながらに罪の世にありますから、おのずと死に至る罪の道を選ぼうとするのです。

 生まれながらに浸っている罪の世の影響を免れるには、いったいどうすればよいのでしょうか。答えは一つです。神の霊、聖霊によって生まれ変わることです。新しく生まれたことによって、その時から永遠の命に向かって生きる者とされるです。
 「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13)。私たち人間の行いによる努力によるのではなく、ただ信仰により新生と聖化の恵みにあずかるばかりです。


3.神の子とされる
 聖霊によって新しく生まれた者が肉体を持って生きているのですから、この点において地上を歩まれたイエス・キリストと同じくされたとも言えましょう。子なる神が地上にあって天地の創り主を父と呼んだので、神の子とする霊を受けた私たちもこの霊によって「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されました。
 アッバとはユダヤの幼子が父親を呼ぶ言葉だそうですので、遠慮なく頼ってよいのです。イエス様は弟子たちに「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えました。この祈りが聖霊によって教会の中で「主の祈り」として受け継がれています。

 ただし私たちは生まれながらに罪の中にありますから、この罪が根本的に断ち切られる必要がありました。最初の人アダムによって罪と死の支配が及んだので、罪がなく罰など受けるべきではない神ご自身が私たちの身代わりとなってくださったのです。キリストの十字架による贖いによってすべての罪が断たれ、私たちは赦されたのです。
 キリストが聖霊によって復活し、永遠の命を現わしてくださいました。天に昇り父なる神の右に座されたとき、それまでご自身とともにあった聖霊を今度は地上にある弟子たちへとお授けになったのです。

 キリストご自身は聖霊によって生まれ、紛れもなく神の子でした。この方がヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた時、天が裂けて聖霊が鳩のように降って来ました(マルコ1:9-11)。聖霊によって生まれた神の子が、洗礼を受けたことで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という宣言をお受けになりました。
 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(14)。キリストを信じて霊によって神の子とされた者が信仰を告白します。この信仰告白をもとに教会が洗礼を授けることで、この人が神様に愛されている子であると証言されるのです。

 見ることも触ることもできない聖霊によって、教会も私たち一人一人も導かれています。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」と、確かに主の霊が働いておられることを教会が授ける洗礼おいて証しされるのです。
 

<結び> 
  「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」(15)
 私が自分で感じていようといなかろうと、既に主の霊によって子としていただいていることを覚えて感謝します。時が良くても悪くても、行いが良くても悪くても、仮に懲らしめをうけることがあったとしても神様の子であることはゆるがないのです。

 「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」と言われています。お情けやおこぼれで分け前にありつく卑しい者ではなく、キリストと共同名義の正統な子どもです。
 「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と罵られながら殺されたキリストの苦しみを覚えます。私たちも神の子とされたゆえに肉なる体との間に葛藤が生じたり、世の人々から罵られ苦しめられたりすることもあるわけです。

キリストが共同の相続人すなわち連帯保証人になってくださったので、キリストと共に苦しむなら共にその栄光をも受けることになると約束されています。この希望をしっかりと受け取りましょう。
 今しばらくは信仰のゆえに苦しみ悩む生涯が続きます。しかしイエス・キリストを神の子、救い主と信じる私たちには、いつも神の子とする霊が与えられているのです。

コンテンツ

お知らせ