「伝道する教会」使徒言行録4章23-31節
2022年6月19日
牧師 武石晃正
先週主日の午後には主任担任教師の就任式が行われ、教会員だけでなく栃木地区内の諸教会、またみふみ認定こども園の職員の方がたにもご出席いただきました。準備をはじめ諸々のご奉仕を担ってくださった皆様には大変お世話になりました。
木村太郎先生(宇都宮教会牧師、前関東教区常任常置委員)に司式をいただき、エフェソの信徒への手紙から「愛に根ざして真理を語る」と題して奨励をいただきました。この教会に遣わされたことが神の御旨であり、神の恵みによって御言葉に仕え、忠実に務めを果たしていきたいと志を新たにした次第です。
本日は使徒言行録から朗読いたしまして、「伝道する教会」と題して進めて参りましょう。
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牧師 武石晃正
先週主日の午後には主任担任教師の就任式が行われ、教会員だけでなく栃木地区内の諸教会、またみふみ認定こども園の職員の方がたにもご出席いただきました。準備をはじめ諸々のご奉仕を担ってくださった皆様には大変お世話になりました。
木村太郎先生(宇都宮教会牧師、前関東教区常任常置委員)に司式をいただき、エフェソの信徒への手紙から「愛に根ざして真理を語る」と題して奨励をいただきました。この教会に遣わされたことが神の御旨であり、神の恵みによって御言葉に仕え、忠実に務めを果たしていきたいと志を新たにした次第です。
本日は使徒言行録から朗読いたしまして、「伝道する教会」と題して進めて参りましょう。
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1.遣わされた二人の弟子たち
朗読いたしましたのは使徒言行録4章23節以下でありまして、新共同訳では「さて二人は」と切り出されています。この2人が誰であるかと申しますと、主イエス様の愛弟子であり使徒と呼ばれるペトロとヨハネであります(3:1)。
「釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(13)と読んでしまえば一文に過ぎませんが、非常に多くの情報が詰まっています。釈放されたということですから、そもそもこの2人は逮捕されていたということです。2人が出掛けたまではよかったものの待てど暮らせど帰ってこないので、仲間たちはさぞかし心配しながらペトロとヨハネを待っていたことでしょう。
一連の出来事は3章1節に端を発していますので少し遡って聖書を読んでみましょう。「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」と書かれています(3:1)。
何事もなく神殿へ祈りに行ったように書かれていますが、思えばこの2か月ほど前には彼らの師であるナザレ人イエスが強盗以上の重罪人として処刑されたばかりです。本来であれば彼らの田舎があるガリラヤあたりに退いて、身を潜めておくべきことでしょう。
ところがペンテコステの日に聖霊が降ったことにより、弟子たちは力を受けました。それで大胆にもエルサレムの都で最も人が集まる神殿へと姿を現わしたのです。2人は「美しの門」の前で一人の男を見出します。彼は40歳を過ぎていましたが(4:22)、生まれながらに足が不自由なために施しを乞うて暮らしていたということです(3:2)。
物心ついた頃からこのような暮らしをしていたでしょうから、20年30年と経っています。神殿を参拝する人々はだれでも彼が立てないふりをしている物乞いではなく、生まれながらに足が不自由であることを知っていたことでしょう。
施しを乞うべくこの人がペトロとヨハネを見つめると、ペトロは彼に声をかけました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じて男の手を取ると、何と彼は躍り上がって立ち、歩きだしては歩き回ったり躍ったりして神を賛美したというのです(3:7-8)。
例えばこれが現代医学において手術などで改善する類のものだったとしても、生まれながらに歩いたことがない人が急に立つことができるでしょうか。恐らくつかまり立ちをするところから始まる長く厳しい機能訓練に耐えなければならないことでしょう。
イエス様がしるしとして行われた奇跡による癒しは一部を除いてみな瞬間的なものでした。それと同じわざが行われたことは、イエス様を生かした聖霊が間違いなく弟子たちに宿ったしるしであります。
それを見ていた民衆は皆、彼が座って施しを乞うていた者だと気づくや、その身に起こったことに我を忘れるほど驚きました(3:10)。そこで一斉に集まってきた人々に向けてペトロは天地創造の神、彼らの先祖の神の御計画として救い主メシアについて説きました。
その福音の言葉は「それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」と結ばれており、聖書を通して今なお私たちに向けて語られています。
この日ペトロとヨハネがイエス様の死と復活とを宣べ伝え、聞いて信じた者の数はなんと男だけで5000人ほどにも上りました(4:4)。ところが一度は死刑に処せられた重罪人ナザレ人イエスの名前を言い広めたことですから、民の指導者たちは当然この2人を罪人のように捕えて牢に入れたというのが事の顛末です。
聖霊が力を与えて語らせますから誰にもペトロたちを留めることはできないことです。2人の弟子は大祭司たちの前に連れ出され、議会の真ん中に立たされました(4:5-7)。かつてイエス様が十字架を背負わされる前に引き出された、あの裁きの場と同じです。
「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」とユダヤの最高議会の真ん中でペトロたちは大胆に語りました(4:10)。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4:12)。
聖書にこの証の言葉が残されていることにより、今このみことばを聞いている私たち一人一人に向けて主は招いておられます。既にこの名を信じている方は幸いです。まだ信じていない方は、イエス・キリストだけがあなたの救い主であることを受け入れて、今すぐにでも救われましょう。
2.伝道する教会
こうして2人の使徒ペトロとヨハネの働きによって一人が癒され、5000人がキリストを信じるに至りました。もし主がこの使徒たちの業績や手柄を後代に伝えようとしたのであれば、4章までの出来事は22節で結んだほうがより印象的であるように思われます。
しかしながら聖書はペトロとヨハネの武勇伝としてではなく、彼らの報告を聞いた人たちに重きを置いて記していることが読み進めるうちに分かります。「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」と書かれているのです(24)。
心を一つにしたということですから、遣わされた者と送り出した者たちと役割にこそ違いがあっても教会が一つの体のように伝道の働きをなしたということです。「神に向かって声をあげて言った」とは心を合わせて祈ったということであり(31)、書き記された時点においては初代教会の信仰告白の一つであるとも言えましょう。
聖書の言葉に基づく信仰告白があり、信仰告白に立って福音宣教が推し進められました。もしペトロやヨハネがイエス様への個人的な思いから伝道したならば、教会は内側からばらばらになってしまうことでしょう。そして他の弟子たちもこの2人に負けじと張り合ったならば、外からの圧力に耐えかねると教会が雲散霧消することは目に見えています。
もちろん誰か熱意のある人が先陣を切って導いてゆくことや、手本や見本となって方向性を示してゆくことは有益です。ペトロとヨハネが報告し、これを聞いた人たちが集まって祈ったので「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」と言われているとおりです。こうして最初の弟子たちがキリストの救いを伝道する教会となったのです。
遣わされた人たちがおり、それを迎える仲間たちがおります。これを伝道する教会の姿であるとするならば、私たち一人一人もまたそれぞれの持ち場立場にあって主から遣わされた者であります。
日本にいるということだけでもエルサレムから見れば地の果て、更に海の向こうに遣わされていることになりましょう。私たちがこの地に置かれているということは、神様の特別なご計画によって遣わされているからなのです。
あるいはこの2年余りのコロナ禍で礼拝堂に集うことが難しくなった方や、それ以前からご事情でしばらく離れておられる教会員の方々も覚えます。もし声が届いているのであれば思い起こしてください。あなたがたの内にもキリストの霊が与えられており、主はあなたが今あるところにあなたを遣わしておられるのです。
人知れぬ苦難の中に置かれて、主の前にその報告をする機会を得らないまま2年3年と経ってしまった方もおられましょう。イエス様の直弟子たちでさえ仲間のもとへ戻って話を聞いてもらい、祈ってもらう必要がありました。週ごとに礼拝に集えるならばこの上ないのですが、そうでなくとも何とか教会の交わりに戻って来ることができるよう祈ります。
私たちは主に遣わされ、互いに報告を受け、心を一つにして祈る主キリストの体です。使徒たちの時代から信仰を受け継ぎ、唯一の救い主イエス・キリストの名を伝道する教会なのです。
<結び>
「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」(31)
使徒言行録を始め新約聖書ではペトロやパウロのような使徒と呼ばれるイエス・キリストから直接に召しを受けた人たちの名が挙げられております。読む人によってはこれらの偉大な人たちだけが福音宣教を推し進めていったように思われることでしょう。
彼らとて「普通の人」であり、知識として聖書の言葉を知るに加えて信仰を受け継ぎ、そして引き継いでいった者たちです。いずれも例外なく祈りによって教会から遣わされ、帰ってくるなり一同が集まって彼らを迎え入れたのです。集まっては信仰を確かめ合い、主のみからだにあずかるべくパンを裂いて分かち合いました。
役割こそ遣わされる者と送り出す者とそれぞれに違いますが、一つのものとなり、結び合わされて教会が成長するのです。御言葉が語られ、聞いた者一人一人が遣わされ、イエス・キリストの福音がこの地に宣べ伝えられます。
聖霊に満たされた教会が福音を正しく宣べ伝え、聖礼典を執り行います。私たちは主が再び来られる時まで愛のわざに励みつつ、キリストの救いを伝道する教会であります。