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「いちばん奥の牢」使徒言行録16章16-24節

2022年6月26日
牧師 武石晃正

 今から80年前のことです。1942年6月26日、国家によるキリスト教をはじめとする「信仰の自由」を剥奪する思想弾圧が行われました。牧師たちが逮捕され、教団の教師資格を剥奪され、1943年には教会解散にいたりました。信徒の皆様も個人・家族・教会それぞれにおいて非常に苦しみ悩みました。
 先達たちの信仰の戦いを覚えてホーリネスの群は毎年「弾圧を記念する聖日」を定め、今年は本日6月26日の午後に弾圧記念礼拝が催されます。

 イエス・キリストの弟子たちも福音宣教のゆえに逮捕され、早い時期から殉教者が出ました。折しも本日は使徒言行録より弾圧を受けた使徒たちの姿を追っております。

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1.パウロとシラス
 今年の聖霊降臨節は聖書日課に従って使徒言行録を中心に聖書を読み進めています。聖書において使徒と申しますと大きく分けて2つの立場がありまして、一方はイエス様が直接に任命された12人(マタイ10:2)、もう一方はペンテコステ以後に教会の働きについて責任を果たす特別な人たちでした。使徒言行録は福音書を書いたルカが記したもので、概ねこれらのそれぞれに焦点を当てつつもキリストの体として一つの働きを描いています。
 朗読いたしました箇所はまず「わたしたちは」と切り出されておりまして、筆を執ったルカが使徒パウロたちに同行していた事実が示されます。この使徒パウロは福音書に登場しませんので、使徒言行録の中から少し遡って読んでみましょう。

 パウロはかつての名をサウロと申しまして、教会を迫害する者として登場します(8:1、3)。彼はキリキアのタルソスという町の出身で、ファリサイ派の熱心な教師の一人でした(フィリピ3:5)。
 十字架で処刑されたナザレ人イエスという重罪人を神と崇める不徳な者たちを捕え、神の道を正すことが彼の使命とするところでした。ところがその使命を果たすべくエルサレムからダマスコへと向かう途上でサウロはキリストの霊に打たれて倒れます(9:3以下)。

 ダマスコに運ばれたサウロは滞在中にアナニアというキリストの弟子に導かれ、回心して洗礼を受けました(同18)。ところが悔い改めてキリストを信じたとは言え、つい数日前までは迫害する者でした。人々は「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか」と非常に驚いたということです(21)。
 サウロはしばらく出身地のタルソスに退きました。そこへ主の聖霊に導かれたバルナバという教師が遣わされ、彼を捜しだすとアンティオキアの教会へと迎え入れました(11:24-26)。その頃からキリストの弟子たちは世間の偏見によって「キリスト者」と呼ばれるようになり、サウロもまたパウロと呼ばれるように変えられていきます。

 バルナバとサウロの二人はしばらく行動を共にし、筆舌しがたい困難にもしばしば直面しながらもイエス・キリストの福音を宣教しました。しかし、ある事件を境にこれまで親友のようだった二人の間に意見の相違が生じてしまいます。どうにもやむを得ない苦渋の選択により、バルナバとパウロはそれぞれ別の道へと進みました (15:36以下)。
 片腕あるいは半身ともいうべきバルナバと別れたパウロにとって、新たな出発は順風満帆どころか逆風に大波の中へ向かうようなものです。そこで主はパウロを支え励ますためにシラスという新たな相棒を備えてくださいました(15:40)。

 シラスを連れたパウロの足取りをたどりますと、「聖霊に禁じられた」(16:6)あるいは「イエスの霊がそれを許さなかった」(同7)と記されている箇所があります。様々な妨害に遭って道が閉ざされてたばかりでなく、事情や経緯を記すことができない機微な問題が生じたものと考えられます。後から振り返ってルカが筆を執ったとき、あれは聖霊の導きであったと示されたことでしょう。
 こうしてパウロとシラスの宣教旅行はエーゲ海を西へと渡ることになりました(16:11)。フィリピの町はローマの植民地でしたのでユダヤの人たちの影響は小さかったようです。その町ではユダヤの会堂に正式には登録されていなくとも、「神をあがめる」人であれば祈りの交わりに加わっていました。今の教会であれば求道者と呼ばれるところでしょう。

 その一人でリディアと知られる女性がパウロの言葉に導かれ、一家を挙げて洗礼を受けました。正規の会堂での集会ではありませんでしたが、福音の言葉を聞いて決心した者が教会に加わりました。迫害や困難に悩みながら進み続けたパウロにとって、リディアが洗礼を受けて信仰の道へと加えられたことは大きな喜びと慰めとなりました。


2.いちばん奥の牢
 フィリピでの宣教にはもう一つの出会いが隠されています。この場面から主語が「わたしたちは」(11、16)と変わっていることにより、この書を執筆したルカがここから旅の仲間に加わったということを示しています。
 受洗者や新しい仲間が加わって幸先よく始まったところですが、途端に雲行きが怪しくなります。占いの霊に取りつかれている女奴隷がパウロたちに付きまといました(17)。

 「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と彼女は幾日も叫んだということですが、言い広めて宣伝してくれたと喜んでよいものでしょうか。本心から信じていない人が喧伝するということは、この人たちの話は聞かなくても信じなくてもよいという意味で伝わるわけです。あるいは小馬鹿にして茶化したような言い回しで叫んでいたようにも思われます。
 幾日も続いてほとほと困ったパウロはたまりかね、イエス・キリストの名によって彼女に取りついていた占いの霊を追い出したということです。悪い霊が追い出されたのであれば良いことであるはずなのに、ルカはこの女奴隷についてその主人たちが金もうけの望みを失ったことだけを記すにとどめています。

 損害を被った主人たちはパウロとシラスを捕えて高官たちに引き渡し、あることないことを並べ立てて群衆を扇動しました。すると二人は弁明や釈明の機会も与えられずに衣服を剥がれて何度も鞭打たれ、とうとう牢に投げ込まれてしまいました。職務に忠実な看守は二人の囚人をいちばん奥の牢へ入れ、木の足枷をはめたのです(24)。
 こうしてパウロとシラスは福音のために遣わされ、イエス・キリストの名によってわざを行いました。良い働きをしたはずなのに、願ってもいないことが起こってしまいました。

 そうです、パウロとシラスはもし仮に彼らが自ら願ったとしても入っていくことができない場所へと遣わされたのです。入口に近くの日が差すような牢ではなくいちばん奥の牢に入れられたことで、出会うことなど思いもよらなかった人たちへとイエス・キリストの救いを宣べ伝えることになったのです。
 このように主はしばしばご自身の霊によって愛する者たちを用い、良いわざへの結果として問題となる出来事を引き起こされます。神の国を宣べ伝えることが迫害や弾圧を引き起こし、その困難によって私たちはしばらくの間、苦しみ悩み悲しみます。

 ところがイエス様の打ち傷によって私たちが救われたように、私たちが受ける苦しみを通してこれまで主に出会うことができなかった人々へイエス・キリストの福音が宣べ伝えられます。エルサレムにいた使徒たちが遠くフィリピの町まで宣教する計画を立てることができたとしても、その町でいちばん奥の牢にいる人々にまでキリストの名を届けられるとは思いもよらなかったことでしょう。
 もう少し先まで読み進めてみますと「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」と書かれています(25)。釈放される見込みもなくともすれば家畜のように売り飛ばされるかもしれない囚人たちに、この晩だけは慰めがありました。

 すると主は突然に大地震を起こし、牢の戸をすべて開き、囚人たちの鎖を解かれました。あたかもキリストが十字架によって死に打ち勝ち、ご自分の所有とする民を罪の縄目から解き放たれたかのようです。
 責任を問われて拷問に掛けられることを恐れたのでしょう、看守は自害を図ります(27)。パウロに大声で制せられ、彼は絶望の淵から恐る恐る尋ねました(30)。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」看守とその家の人たち全部に主の言葉が語られ、真夜中でありましたが看守も家族の者も皆すぐに洗礼を受けました(31-33)。主は捕らわれ人たちばかりでなくこの看守と家族をもお救いになるために、パウロとシラスを選びフィリピの町でいちばん奥の牢へと遣わしたのです。


<結び> 
 かつての大迫害者がキリストに出会い、回心し、主イエスの名を宣べ伝える者へと生まれ変わりました。あまりにも急で大きな変化であるので、にわかには教会から受け入れられないほどでした。
 主キリストの体である教会が迫害を受け、恵みによって召された者たちが弾圧に苦しむ時代のことです。現代の日本では法の下に信教の自由が保証されておりますが、キリスト者と呼ばれる者たちが生きていくには非常に多くの困難が伴います。

 ある方はたった今も「いちばん奥の牢」のように脱出不可能な困難の只中におられることでしょう。各々の事情が異なりますのでひとえには申し上げられませんが、あなたが苦しみを負わされたことによって主は同じ境遇にある方々を救おうなさいます。
 あなたが主の名を賛美し祈ることで、周りの多くの人の慰めとなることもあるでしょう。たとえそれがあなたに足枷をはめる看守だったとしても、主はその人とその家族をも救うためにあなたを「いちばん奥の牢」へと遣わされるのです。

 迫害と弾圧による投獄の先へパウロとシラスが遣わされました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」この御言葉によって、主は今日も私たちを招いておられます。

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