「みこころに適う者」使徒言行録13章13-25節
2022年7月10日
牧師 武石晃正
毎週日曜日に主日礼拝を行っておりますこの礼拝堂は、平日にはこども園の行事でよく用いられています。先週も後援会の総会やお誕生会の礼拝がありました。
会場の準備をしていた年中組の先生から聖書のことで質問をいただくという場面がありました。その質問とは、子ども向けの讃美歌に12のかごがいっぱいになったという歌詞があり、その状況が今一つ掴めなかったとのことです。
その場で聖書を開いて一緒に読み、手短な説明をさせていただきました。作業の合間の限られた時間ですので十分な内容だったとは言えませんが、短くても聖書のことばに照らしたことで正しい知識を示すことができたかと思います。
本日の朗読箇所においても使徒パウロがその場での求めに応じて、聖書のことばから主なる神の計画について人々に説いているところです。
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牧師 武石晃正
毎週日曜日に主日礼拝を行っておりますこの礼拝堂は、平日にはこども園の行事でよく用いられています。先週も後援会の総会やお誕生会の礼拝がありました。
会場の準備をしていた年中組の先生から聖書のことで質問をいただくという場面がありました。その質問とは、子ども向けの讃美歌に12のかごがいっぱいになったという歌詞があり、その状況が今一つ掴めなかったとのことです。
その場で聖書を開いて一緒に読み、手短な説明をさせていただきました。作業の合間の限られた時間ですので十分な内容だったとは言えませんが、短くても聖書のことばに照らしたことで正しい知識を示すことができたかと思います。
本日の朗読箇所においても使徒パウロがその場での求めに応じて、聖書のことばから主なる神の計画について人々に説いているところです。
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1.バルナバとパウロ
かつて教会を迫害し、この道の者であれば男女問わず捕えようとしたサウロというユダヤの教師がおりました(8:3)。サウロは自らの使命を果たすべくダマスコの町へ向かう途中、文字通りその道すがらイエス・キリストと出会います(9:5)。
出会ったとは申しましても声はすれども姿は見えず、神の光に照らされたサウロは一時的に目が見えなくなってしまいました(同7-8)。主の弟子アナニアを通してサウロは導かれ、その祈りによって目が開かれました(同10-19)。
キリストの弟子となったサウロを人々は驚き恐れましたが、バルナバの手引きによって年月をかけながらアンティオキアの教会に受け入れられるようになりました(11:26)。当時の主の弟子たちがそうであったようにサウロもまた同じく、福音宣教と主の教会に仕えるために新しい名前パウロと呼ばれるようになりました(13:9)。
シリアのアンティオキアの教会から手を置く祈りによってバルナバとサウロはローマへ向けての福音宣教の旅に派遣されました。彼らはもともとユダヤの教師でしたので、行く先々の町で安息日ごとにユダヤ会堂を訪れました。最初の寄港地キプロス島でもユダヤの諸会堂で教え、更に進んでピシディア州(小アジア半島にある地域、巻末地図7)のアンティオキアの町へと至りました(14)。
この時代もユダヤの掟では安息日とは単に勤労を休む日であるばかりでなく、家事を含めた一切の労働が禁じられました。どこかへ出かけることも許されませんので、男たちは安息日が明ける日没まで会堂で「律法と預言者の書」(15)と呼ばれる旧約聖書の朗読や講話を聴いて過ごしたそうです。
旅人たちも安息日には旅程を進めることができませんから、ユダヤの会堂がある街に逗留することになります。洋の東西を結ぶ街道沿いの町では安息日ごとに旅の同朋が会堂を訪れることはよくあることだったのでしょう。
この日も2人のラビが連れ立って席についていたので、会堂長はこの旅人たちにみことばによる奨励を求めました(15)。聖地エルサレムから来た教師を迎えたことで会堂は大いに盛り上がったのでしょう、パウロは手で人々を制しながら教えを説き始めました(16)。
「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」(16)との呼びかけから、その会堂に属する人々が正統なユダヤ人だけでなく完全にはユダヤ化していない異邦人改宗者がいたことも言い含められています。この会堂は幸いにも伝統や因習に凝り固まっておらず、時勢や土地柄に応じた柔軟性を持ち合わせていたようです。
主は時を定めてバルナバとサウロを選び出し、聞く耳のある者たちが集まるピシディア州のアンティオキアの会堂へと二人を遣わされたのでした。
2.みこころに適う者
パウロは会衆のために旧約聖書から語り始めました。出エジプトの出来事から約束の地カナンの占領に至るまでが「律法」に記されており、一般にモーセ五書あるいはヨシュア記を含めた六書と呼ばれています。イスラエルに王を立てるために主は預言者を遣わしますから、サウルやダビデとその子孫たちが記されているヨシュア記と列王記は「預言者の書」に数えられます。
旧約聖書を通してイスラエルの契約と選びについて触れつつ、パウロは「わたしの心に適う者」と呼ばれたダビデを取り上げます(22)。このダビデ王の子孫としてイスラエルに救い主が送られることもまたイザヤ書をはじめとする「預言者の書」に記されています。
救い主イエスと洗礼者ヨハネとの間柄についてはルカも福音書において示しています。しかしあえて使徒言行録においてパウロの説教として旧約聖書と関連付けて書き記したことにより、ルカはこの書の宛先であるテオフィロ(1:1)ばかりでなく後の教会に対しても救いに関する神の計画を正しく説いているのです。おかげで私たちも使徒言行録を丁寧に読むことによって、旧約聖書全体をくまなく調べる時間がとれなくても救いについての神の計画を知ることができるというわけです。
ダビデ王について「わたしの心に適う者」と呼ばわれた神様は、洗礼者ヨハネがヨルダン川でイエス様にバプテスマを授けた時にも天から同じお言葉をもって呼びかけました(ルカ3:22)。罪のない方が悔い改めのバプテスマを受けることによって、ナザレ人イエスがエッサイの根から生じた救い主であることが明らかになりました。このことを主は「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃいました(マタイ3:15)。
このヨハネについてイエス様は「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(同11:11)と最大限の評価をされました。その上で「律法と預言者は、ヨハネの時までである」(ルカ16:16)と救いの計画について時代を区切られました。
天より「わたしの心に適う者」と呼ばれた方がヨハネをご自身と等しく「我々」と呼びました。もっとも偉大であるとも呼ばれたのですから、洗礼者ヨハネは生涯において神様から一体どれほど素晴らしい報いを受けたと思いますか。
ヨハネはイエス様へバプテスマを授けた後ほどなく、彼の正しさのゆえに時の領主ヘロデに捕らえられて投獄されてしまいました(マルコ6:17)。そして権力者の妬みと憎しみを受け、なんと王の誕生日の余興として斬首されたのです(同21-29)。
みこころに適う者が捕らえられ、罪なく殺されるという報いを受けました。しかしこれいはヨハネに限ったことではなく、主イエス様にも言えることです。
天の父のみこころに適う者、神の計画に従う者はこの世から妬まれ憎まれることになるのだと、人となられた神キリストご自身が身をもって示されました。ではこの方を信じる私たちにの希望や幸いとはいったいどこにあるのでしょうか。
主イエスは言われました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」 (マタイ5:11)。それは救い主が与えられるという約束を取り次いだ預言者たちも、彼ら自身もその約束が果たされるのを見ることなく同じように迫害されたからです。
私たちはイエス・キリストを信じて神の子とされる特権をいただいたので、この世と共に滅びゆく程度の幸せというものとは無縁の者となりました。キリストを信じて何か得するのかと尋ねられたら、この世においては何もないと答えるばかりです。
では主は私たちを騙したりただ働きをさせたりしようとなさるのでょうか。そんなことは決してあるはずがなく、主は「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と約束してくださいました。みこころに適う者は、虫が食うこともさび付くこともなく、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない天に富を積むことになるのです。
もしダビデのように「彼はわたしの思うところをすべて行う」と神様から呼んでいただけたら、それはこの上ない幸いです。そのためにもヨハネのように「わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない」と主の御前にひざまずき、祈りと奉仕に励みましょう。
<結び>
「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。」(23)
出エジプトのモーセも、約束の地カナンに攻め込んだヨシュアも、「わたしの心に適う者」と呼ばれたエッサイの子ダビデでさえも、約束は受けたもののその実を見ることなくこの世を去りました。洗礼者ヨハネまでに時が満ちて、いよいよ救い主イエス・キリストが私たちのために世に来られたのです。
救いについての神の計画が単なる口約束ではないことは、イスラエルの契約として旧約聖書に記されています。主イエスが十字架で流された血による新しい契約は、4つの福音書から始まる新約聖書に証しされています。
天の父によって「わたしの心に適う者」と選ばれた人々が旧約から新約へとみことばを語り続けました。バルナバとパウロもまたみこころに適う者として、行く先々の会堂において聖書に基づいてイエス・キリストの救いを宣べ伝えました。
地上においてはダビデやヨハネでさえ良い報いを受けることがなかったように、キリスト者が福音のために迫害を受けることはあるのです。迫害まで至らずとも、現に私たちは信仰のゆえに戦いと苦しみを味わっています。
それでも神を愛する者たちは聖書の言葉にしっかりと立ち、みこころに適う者としてこの地を歩ませていただくのです。