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「パン種に注意せよ」マルコによる福音書8章14-21節

2022年7月17日
牧師 武石晃正

 本日はこの教会を代表して2名の役員の方々が志木教会の主日礼拝に出席して下さっています。2019年度から今年の3月まで横山基生先生を代務者として志木教会は送り出してくださいました。
 志木教会とホーリネスの群を通して主がお守りくださったことを感謝いたします。同時に宇都宮上町教会の信徒の皆様お一人一人を支えて導いてくださった主の御旨の確かさを覚えます。

 依然コロナ禍という困難な状況は続いておりますが、目に見える出来事やその結果だけを見てしまうと私たちは主のご支配とご臨在とを忘れてしまいそうになります。本日の朗読箇所では大きな出来事に心を奪われてしまった弟子たちに対して、イエス様はご自身を見失っていないかと注意を促しておられます。

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1.イエス様を見失いかけた教会 
 教会暦で今は聖霊降臨節の期間でありまして、今年はしばらく使徒言行録より最初の教会の様子から学んで参りました。福音書がイエス・キリストの言行録であるとするならば、使徒言行録は文字通り12弟子とパウロの働きに焦点が当てられています。
 使徒言行録はキリストの昇天とペンテコステにおける聖霊降臨の出来事から展開されています。最初は各地からエルサレムに集まっていた人々へ福音が伝えられ、信仰に入った人々が帰郷先でイエス・キリストの救いを証しするようになりました。

 ユダヤの教えを背景とするキリストの福音が異文化の中で受け入れられるようになるにつれ、教会内にも様々な問題が生じました。迫害に窮して原点回帰を掲げたのか懐古趣味に傾倒したのか分かりませんが、小アジア半島はガラテヤ地方においてユダヤの律法を持ちだす人々が現れました。その様子がガラテヤの信徒への手紙の中から伺えます。
 もともとユダヤから見て異教の文化圏であり、当人たちも異邦人と呼ばれる身であるにも関わらず、律法の行いを要求するというものでした(ガラテヤ5:4)。パウロは手紙の中で「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」と述べています。

 初めは一部の人が言い出したことなのでしょうけれど、教会はそれを取り除くことができなかったようです。新しい時代を迎えているのに迫害や困難によって先が見えないため、「昔はこのようにしていた」と論じられてしまうと心が動きやすいものです。具体例や手ごたえがあるほうへと心を奪われてしまったようにも思われます。
 続けてパウロは「このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません」(同8)とキリストのみこころではないことを明言しました。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」と言われているように、真理に従わないようにさせた者の言葉が多くの人々に受け入れてしまったのです。

 現代ではイースト菌を培養するという技術がありますが、イエス様やパウロたちの時代にはパン種と呼ばれる生の酵母を使っては増やしながら用いていました。使いまわしていくうちに雑菌も繁殖して変質してしまうということが起こります。
 ユダヤの掟において年に一度、祭りの最初の日に家から酵母を取り除くことが定められておりました。また祭壇にささげるパンは酵母を入れないパンという定めがありました。パン種を入れて焼いたパンは柔らかく口当たりがよいのですが、パン種は神に受け入れられないもののたとえに用いられるようになりました。

 イエス様に会ったことがない人々が教会をキリストとは縁もゆかりもない者と変えてしまうところでした。律法主義やそれを奉じる人々は定期的に取り除かなければならないものとしてパウロはパン種と呼んだのです。
 教会の人々もまた律法の行いという手ごたえのあるものを受け入れてしまい、イエス様を見失ってしまう恐れがありました。けれども正しい信仰に立つ教会において、「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」(5:5)


2.パン種に注意せよ (マルコ8:14-21)
 パン種にたとえてイエス様も弟子たちを戒められました。マタイによる福音書もマルコによる福音書も、このパン種のたとえは教えのための説教としてではなく、弟子たちに起因した出来事の中でイエス様が発したお言葉として記しています(14)。

 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15)とイエス様はおっしゃいましたが、ファリサイ派とはユダヤの掟を守ることを強調した一派です。 
 ヘロデとは当時のパレスチナを治める権力者の一人で、ユダヤ地方を治めるためにローマから任命された王様です。マタイはこれを貴族や上流階級が中心である「サドカイ派の人々」と置き換えて、「ヘロデのパン種」と同義で用いています。ファリサイ派とサドカイ派はそれぞれ対立する派閥でありますが、それぞれの立場からイエス様を陥れようと議論を仕掛けました(11)。

 家にあるパン種は毎年の除酵祭に取り除かれなければならないものでした。イエス様が「パン種によく気をつけなさい」とおっしゃったということは、弟子であっても常にファリサイ派の人々やヘロデのパン種が入り込みやすいということです。そしていつの時代の教会であってもパン種に気をつけて定期的に取り除くようにと聖書を通して教えられます。
 マタイによる福音書ではこの箇所の括りとして「このときにようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」と書かれています(マタイ16:12)。ではなぜ弟子たちは自分たちがパンを持っていないからなのだと論じ合っていたのでしょうか(マルコ8:16)。

 まずはイエス様のお言葉をまっすぐに受け止められなかったこと、あるいは先入観やイエス様とは別のことを考えて聞いていたところによるでしょう。もしイエス様が言われたことを理解できていなければ、「先生、ファリサイ派の人々のパン種とは何を指すのですか」と尋ねればよかったのです。
 直前の記事には4000人の人々にパンを与えた出来事がありますから、弟子たちはパンと聞くや先の成功体験と直結させたのでしょう。人々が満腹した上で集められたパンの屑は7籠になりましたが、もはやそれは過去のことです。それが今は1つのパンしか持ち合わせていたかったので、弟子たちは互いの落ち度や非力さを責め合うに至ったようです。

 はたして4000人の人々を満腹にしたのは弟子たちだったのでしょうか。ひと言で4000人とは申しますが実際にパンを裂いて配るには途方もない労苦が伴います。
 確かに彼らは他の人たちには真似できないほど熱心に働いたことでしょう。しかし配るためのパンを彼らに与えたのは主であり、主のみわざであるから7つのパンが4000人を満たしてなお余ったのです。パン種は少量であっても練り粉全体を膨らませますが、主の恵みはパン種によらずとも多くの人々を満たし養って余りあるのです。

 律法を守ることにばかり気を取られたファリサイ派の人々は、律法をお与えになった主ご自身から目を離してしまいました。これまでに築いてきた自分の地位や財産を愛したヘロデやサドカイ派の人々は、今ある権威はすべて神によって立てられたものであることを忘れておりました。
 イエス様の弟子たちもまた自分たちの働きを自負するあまり、みわざをなされた主ご自身が目の前におられても見えなくなってしまったようです。ファリサイ派やサドカイ派とは立場が違うとはいえ、取り除かなければならないパン種が弟子たちの中にもありました。

 「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」と文字にすると語調が強く感じられるでしょうか(18)。イエス様は弟子たちに向かって、目の前にいるわたしが見えるか、語っているのがわたしであると聞こえているか、5000人あるいは4000人に配ったパンを裂いたのが誰であったか覚えているか、と弟子たちの心を呼び覚まされます。
 ファリサイ派もヘロデやサドカイ派も当時のユダヤ社会を構成しており、主の弟子たちもその社会の中で暮らしています。ちょっとやそっとじゃ取り除くことができないほど、彼らのパン種は弟子たちに影響を及ぼしていました。

 悪くなっているように見えなくても家の中のパン種は毎年必ず取り除かなければならないように、私たちも心の中から「パン種」を取り除いていただきましょう。


<結び>
 「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」(Iコリント11:23-24)
 主が聖餐を制定されたのが過越の食事であり、裂かれたパンは種入れぬパンでした。主から受けた弟子たちがパンを裂くために集まったことを使徒言行録は示しています。

 キリストの血による新しい契約によって建てられた教会は、今やコロナ禍を経て更に新しい時代へと向かっています。これまでに受けてきた多くの恵みを数えて感謝するとともに、みわざを行われる主イエス・キリストご自身がおられることに目を開きましょう。
 主の弟子たちはパン種に注意せよと戒められます。私たちもまた古いパン種を取り除くことで、目に見える物事に心奪われず、共におられる主イエス様を覚えて歩むのです。

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