「祈りによらなければ」マルコによる福音書9章14-29節
2022年7月31日
牧師 武石晃正
聖書の中で引用されることが多い箇所の一つに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケ一5:16-18)という言葉があります。教会学校でもこども園でも幼いうちから子どもたちが暗唱することができる教えです。
絶えず祈っているかと聞かれて返答に窮することもあったとしても、朝に夕に心を静めて聖書を読んでは祈りの姿勢をとることはできるものです。とは言うものの、どのように祈ってよいのか分からないとか祈りに手ごたえが感じられないとか、祈りの生活が身に着くまでには一筋縄ではいかないようです。
もしイエス様が地上におられた時に自分も生まれていれば、イエス様と直接お話しができるので祈ることがもっとしやすかったのではないかと思うことはあります。果たしてイエス様とお会いできた人であれば今の私たちより上手に祈ることができたのか、今日も福音書からたどって参りましょう。
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牧師 武石晃正
聖書の中で引用されることが多い箇所の一つに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケ一5:16-18)という言葉があります。教会学校でもこども園でも幼いうちから子どもたちが暗唱することができる教えです。
絶えず祈っているかと聞かれて返答に窮することもあったとしても、朝に夕に心を静めて聖書を読んでは祈りの姿勢をとることはできるものです。とは言うものの、どのように祈ってよいのか分からないとか祈りに手ごたえが感じられないとか、祈りの生活が身に着くまでには一筋縄ではいかないようです。
もしイエス様が地上におられた時に自分も生まれていれば、イエス様と直接お話しができるので祈ることがもっとしやすかったのではないかと思うことはあります。果たしてイエス様とお会いできた人であれば今の私たちより上手に祈ることができたのか、今日も福音書からたどって参りましょう。
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1.不信仰な時代と呼ばれた世代(14-20節)
一連の出来事としてマルコが福音書に記しているのは、フィリポ・カイサリアにおける弟子たちの信仰告白に端を発しています(8:27-30)。イエス様はこのフィリポ・カイサリアからエルサレムに向けてまっすぐに顔を向けて歩みだされました。
道中、「高い山」と呼ばれる場所へイエス様は弟子のうち3人だけを連れて行き、そこで神の人モーセと預言者エリヤと対談されます。その時イエス様のお姿は真っ白に輝き、ちょうどモーセがシナイ山で神様と語った際に肌が光を放っていた様子と重なります。
この不思議な光景を目の当たりにした3人は山を降りるにあたり「今見たことをだれにも話してはいけない」イエス様から口止めをされました。いくつかの問答をしながら里へ下りて来たこの一同は、そこで驚きの光景を目にします。
留守を任されていた9人の弟子たちは何と群衆に囲まれており、律法学者たちと議論していたのです。議論とは書かれておりますが弟子たちはユダヤの指導者たちから一方的に責められて、答えに窮しては口論になったのではないかと続く記事から推すところです。
「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」(15)とは、騒動になってしまったことで弟子たちにも律法学者たちにもほとほと困っていた人々の心境です。「何を議論しているのか」とイエス様は人々に尋ねました(16)。
そこで群衆の中のある者が答えました(17)。「群衆の中のある者」とは第三者のように聞こえますが、「先生、息子をおそばに連れて参りました」と答えていることから騒動の中心にいる人物です。弟子たちの議論が白熱したあまりに父親が群衆の中へと押しやられてしまったのでしょうか。
福音書においてイエス様を取り巻く人たちは大きく2つに分けられており、その一方はイエス様を信じて従う者や御言葉を求めて聞く者で「弟子」と呼ばれます。他方は噂を聞いて集まっただけの人、あるいは自分にとって都合のよいこと求めてきただけの人たちを「群衆」と呼ばれています。
珍しい奇跡を見てみたい、施しや配給のおこぼれに与りたい、噂どおりに病気を治してもらえたら儲けもの、そのような考えでやって来る人々が群衆と呼ばれています。弟子たちに加勢するでも律法学者たちを支持するでもなく、旗色を伺っては蜘蛛の子を散らすようにいなくなるという「信仰のない人々」と呼ばれるような人たちです。
この父親も群衆の一人と数えられております。訴えを聞けば子どもさんが幼いときから霊に取りつかれており、親子どもどもに苦しんでいるので気の毒には気の毒なことです。
霊に取りつかれるとは、私たちの日常生活ではあまりなじみのない言い回しです。「霊」と訳される単語は魂や神の霊などにも用いられますが、一般的な心の状態や生きているという意味での息を指す語でもあります。日本語では私たちが息をするために吸って吐く空気の「気」、体調を崩した状態である病気の「気」と同じような用いられ方と言えましょう。
「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(18)と父親は言っていますが、どのような思いだったでしょうか。マルコがこの人を群衆の中に数えていることから、「お弟子たちが未熟だっただけならよいのですが、彼らが語ったあなたのお名前は信用してもよいのでしょうか」と疑っているようにも聞こえます。
弟子たちがだめでもナザレのイエス本人が来て解決できればそれでよい、そうでなければ律法学者たちに加担するというのが群衆の態度です。時の支配者であるローマであれ、国を治めるヘロデであれ、生活を指導する律法学者たちであれ、群衆はいつも不満をいだきながらも権力にはおもねるのです。
「なんと信仰のない時代なのか」とイエス様は答えました。時代と訳されている語は世代とも訳すことができます。イエス様が「あなたたちはなんたる世代だ」と嘆かれたように響きます。政治や行政に不満はあっても自分から行動を起こすことをしない世代、自分にできないから人に頼んだのにその人ができないと見ると文句をつける世代です。
そうこうしている間に「人々は息子をイエスのところに連れて来た」ことでその場の状況が一転します。「霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた」と父親が疑ったとおりのことが起こってしまったのです。
2.祈りのよらなければ (21-29節)
本来のイエス様のお力であれば、お心ひとつ御言葉ひとつで何でもなさることができるはずです。しかし一方的に力を見せつけたり恩を着せたりすることなく、盲人の目を開いた時もまずその人に寄り添って語り掛けてくださいました(8:22-26)。
ここでも父親に「このようになったのは、いつごろからか」とイエス様は経緯や事情をお尋ねになりました。不信仰に嘆かれつつも、主は対話の中で人間の勝手な願いを祈りへと導かれようとされます。そこで「幼い時からです」と答えた父親は自分の心を占めている感情に気づくのです。
先ほどまでは霊を追い出せなかった弟子たちへの不満があらわでしたが、実は息子を殺そうとして何度も火の中や水の中に投げ込んだ霊に対しての怒りが心の底にありました。息子が良くならないことを医者や祈祷師、弟子たちのせいにするのも、実は親としてどうすることもできない自分自身への憤りの裏返しだったのでしょう。
心が張り裂けたように父親の口から「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と主への嘆願が飛び出します。群衆の中から子どもを指して「あの子を助けてください」と言ったのではなく、身をもって我が子をかばうように「わたしども」と憐れみを求めたのです。要求でも不満でもなく、祈りが芽生えました。
そこで主は「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と父親の信仰の真価を問われます。神様の恵みを条件つけずに受けようとする者、つまり「信じる者」に対して主は何でもおできになるのです。
群衆の中に埋もれていた男はいよいよ父親として問題に向き合い、初めて自分自身の無力さを認めました。何年も何年も毎日毎夜続いていた苦しみは不幸なことではありましたが、苦労そのものが彼にとって譲ることのできない自負となっていたのです。
短い対話の中で主はこの父親が握りしめていたものを手放すように導かれました。他人への不満ではなく自分自身の必要に気づかせ、助けが必要であることを認めさせました。
この人は祈りによって主にすがる者と変えられたのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24)。
「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった」(25)とみわざを行われました。群衆が走り寄って来るということは、この父親がもはや「不信仰な時代」である群衆から遠く離れたところに置かれたことを意味しています。
取りついていた霊は主のおことばによって追い出され、それまで転げまわっていた子どもは死んだように静かになりました(26)。イエス様が彼の手を取ると起き上がり、その子は自分の足で立ち上がりました(27)。父親の祈りを通して主が働いてくださったのです。
さて群衆に囲まれて律法学者たちと議論をしていた弟子たちがイエス様のもとに戻ってきました(28)。イエス様は弟子たちを咎めることなく、ただ「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」とお答えになりました(29)。
たとえイエス様のお名前を持ち出したとしても、弟子たちには議論の余地があったのです。つまり祈りではなく人の思いや知恵によって事をなそうとしていたということです。
この世の多くのことは祈りによらなくとも何とか解決できるものでしょう。しかし祈りによらなければどうすることもできない問題こそ、私たちにとって不信仰な時代から主の御前へと引き上げていただくことができる機会となるのです。
<結び>
使徒パウロはその書簡の中で「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と掲げ、主が助けてくださるという恵みを私たちが無駄にすることのないように勧めています。
今朝の箇所における父親は子どものことで苦難を覚え、医者も祈祷師も治せないので助けに欠乏し、行き詰まりを感じていました。しばしば夜も眠れず、食事が喉を通らない日もあったことでしょう。
「おできになるなら」と神の前に願うとき、それは一見すると謙遜のようです。しかしそれは願いどおりにならなかった時に自分の不信仰が露呈するのではないかと恐れての保身であったり、途中であきらめることへの逃げ道であったりするのです。あるいは願いが叶わなくても信仰を捨てずに済むための保険掛けとも言えましょう。
主への信頼と自分を守る保険掛けとを両天秤にかけたのでは、心が定まらず生き方全体に安定を欠く人となりましょう(ヤコブ1:8)。主が「祈りによらなければ」と弟子たちに言い含めたように、私たちもあの父親のように大胆に「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈りましょう。
一連の出来事としてマルコが福音書に記しているのは、フィリポ・カイサリアにおける弟子たちの信仰告白に端を発しています(8:27-30)。イエス様はこのフィリポ・カイサリアからエルサレムに向けてまっすぐに顔を向けて歩みだされました。
道中、「高い山」と呼ばれる場所へイエス様は弟子のうち3人だけを連れて行き、そこで神の人モーセと預言者エリヤと対談されます。その時イエス様のお姿は真っ白に輝き、ちょうどモーセがシナイ山で神様と語った際に肌が光を放っていた様子と重なります。
この不思議な光景を目の当たりにした3人は山を降りるにあたり「今見たことをだれにも話してはいけない」イエス様から口止めをされました。いくつかの問答をしながら里へ下りて来たこの一同は、そこで驚きの光景を目にします。
留守を任されていた9人の弟子たちは何と群衆に囲まれており、律法学者たちと議論していたのです。議論とは書かれておりますが弟子たちはユダヤの指導者たちから一方的に責められて、答えに窮しては口論になったのではないかと続く記事から推すところです。
「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」(15)とは、騒動になってしまったことで弟子たちにも律法学者たちにもほとほと困っていた人々の心境です。「何を議論しているのか」とイエス様は人々に尋ねました(16)。
そこで群衆の中のある者が答えました(17)。「群衆の中のある者」とは第三者のように聞こえますが、「先生、息子をおそばに連れて参りました」と答えていることから騒動の中心にいる人物です。弟子たちの議論が白熱したあまりに父親が群衆の中へと押しやられてしまったのでしょうか。
福音書においてイエス様を取り巻く人たちは大きく2つに分けられており、その一方はイエス様を信じて従う者や御言葉を求めて聞く者で「弟子」と呼ばれます。他方は噂を聞いて集まっただけの人、あるいは自分にとって都合のよいこと求めてきただけの人たちを「群衆」と呼ばれています。
珍しい奇跡を見てみたい、施しや配給のおこぼれに与りたい、噂どおりに病気を治してもらえたら儲けもの、そのような考えでやって来る人々が群衆と呼ばれています。弟子たちに加勢するでも律法学者たちを支持するでもなく、旗色を伺っては蜘蛛の子を散らすようにいなくなるという「信仰のない人々」と呼ばれるような人たちです。
この父親も群衆の一人と数えられております。訴えを聞けば子どもさんが幼いときから霊に取りつかれており、親子どもどもに苦しんでいるので気の毒には気の毒なことです。
霊に取りつかれるとは、私たちの日常生活ではあまりなじみのない言い回しです。「霊」と訳される単語は魂や神の霊などにも用いられますが、一般的な心の状態や生きているという意味での息を指す語でもあります。日本語では私たちが息をするために吸って吐く空気の「気」、体調を崩した状態である病気の「気」と同じような用いられ方と言えましょう。
「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(18)と父親は言っていますが、どのような思いだったでしょうか。マルコがこの人を群衆の中に数えていることから、「お弟子たちが未熟だっただけならよいのですが、彼らが語ったあなたのお名前は信用してもよいのでしょうか」と疑っているようにも聞こえます。
弟子たちがだめでもナザレのイエス本人が来て解決できればそれでよい、そうでなければ律法学者たちに加担するというのが群衆の態度です。時の支配者であるローマであれ、国を治めるヘロデであれ、生活を指導する律法学者たちであれ、群衆はいつも不満をいだきながらも権力にはおもねるのです。
「なんと信仰のない時代なのか」とイエス様は答えました。時代と訳されている語は世代とも訳すことができます。イエス様が「あなたたちはなんたる世代だ」と嘆かれたように響きます。政治や行政に不満はあっても自分から行動を起こすことをしない世代、自分にできないから人に頼んだのにその人ができないと見ると文句をつける世代です。
そうこうしている間に「人々は息子をイエスのところに連れて来た」ことでその場の状況が一転します。「霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた」と父親が疑ったとおりのことが起こってしまったのです。
2.祈りのよらなければ (21-29節)
本来のイエス様のお力であれば、お心ひとつ御言葉ひとつで何でもなさることができるはずです。しかし一方的に力を見せつけたり恩を着せたりすることなく、盲人の目を開いた時もまずその人に寄り添って語り掛けてくださいました(8:22-26)。
ここでも父親に「このようになったのは、いつごろからか」とイエス様は経緯や事情をお尋ねになりました。不信仰に嘆かれつつも、主は対話の中で人間の勝手な願いを祈りへと導かれようとされます。そこで「幼い時からです」と答えた父親は自分の心を占めている感情に気づくのです。
先ほどまでは霊を追い出せなかった弟子たちへの不満があらわでしたが、実は息子を殺そうとして何度も火の中や水の中に投げ込んだ霊に対しての怒りが心の底にありました。息子が良くならないことを医者や祈祷師、弟子たちのせいにするのも、実は親としてどうすることもできない自分自身への憤りの裏返しだったのでしょう。
心が張り裂けたように父親の口から「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と主への嘆願が飛び出します。群衆の中から子どもを指して「あの子を助けてください」と言ったのではなく、身をもって我が子をかばうように「わたしども」と憐れみを求めたのです。要求でも不満でもなく、祈りが芽生えました。
そこで主は「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と父親の信仰の真価を問われます。神様の恵みを条件つけずに受けようとする者、つまり「信じる者」に対して主は何でもおできになるのです。
群衆の中に埋もれていた男はいよいよ父親として問題に向き合い、初めて自分自身の無力さを認めました。何年も何年も毎日毎夜続いていた苦しみは不幸なことではありましたが、苦労そのものが彼にとって譲ることのできない自負となっていたのです。
短い対話の中で主はこの父親が握りしめていたものを手放すように導かれました。他人への不満ではなく自分自身の必要に気づかせ、助けが必要であることを認めさせました。
この人は祈りによって主にすがる者と変えられたのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24)。
「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった」(25)とみわざを行われました。群衆が走り寄って来るということは、この父親がもはや「不信仰な時代」である群衆から遠く離れたところに置かれたことを意味しています。
取りついていた霊は主のおことばによって追い出され、それまで転げまわっていた子どもは死んだように静かになりました(26)。イエス様が彼の手を取ると起き上がり、その子は自分の足で立ち上がりました(27)。父親の祈りを通して主が働いてくださったのです。
さて群衆に囲まれて律法学者たちと議論をしていた弟子たちがイエス様のもとに戻ってきました(28)。イエス様は弟子たちを咎めることなく、ただ「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」とお答えになりました(29)。
たとえイエス様のお名前を持ち出したとしても、弟子たちには議論の余地があったのです。つまり祈りではなく人の思いや知恵によって事をなそうとしていたということです。
この世の多くのことは祈りによらなくとも何とか解決できるものでしょう。しかし祈りによらなければどうすることもできない問題こそ、私たちにとって不信仰な時代から主の御前へと引き上げていただくことができる機会となるのです。
<結び>
使徒パウロはその書簡の中で「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と掲げ、主が助けてくださるという恵みを私たちが無駄にすることのないように勧めています。
今朝の箇所における父親は子どものことで苦難を覚え、医者も祈祷師も治せないので助けに欠乏し、行き詰まりを感じていました。しばしば夜も眠れず、食事が喉を通らない日もあったことでしょう。
「おできになるなら」と神の前に願うとき、それは一見すると謙遜のようです。しかしそれは願いどおりにならなかった時に自分の不信仰が露呈するのではないかと恐れての保身であったり、途中であきらめることへの逃げ道であったりするのです。あるいは願いが叶わなくても信仰を捨てずに済むための保険掛けとも言えましょう。
主への信頼と自分を守る保険掛けとを両天秤にかけたのでは、心が定まらず生き方全体に安定を欠く人となりましょう(ヤコブ1:8)。主が「祈りによらなければ」と弟子たちに言い含めたように、私たちもあの父親のように大胆に「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈りましょう。