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「キリストの体」マルコによる福音書9章33-41節

2022年8月7日
牧師 武石晃正

 毎年8月第1日曜日を平和聖日と定め、日本基督教団は平和を祈る日としております。宣教協約を結んでいる在日大韓基督教会と日本基督教団との連名にて、今年も平和メッセージが表明されております。
 関東教区におきましては関東教区「日本基督教団罪責告白」を教区として告白し、かつての国家体制を容認して国内外で犯された罪を懺悔告白するところです。近隣諸国において教会に偶像崇拝を強いたことなど、国内においては旧6部・9部への弾圧を黙認したことなどを明らかにし、神の前に罪の告白と赦しを求める祈りです。

 目下ウクライナでは2/24以来ロシアによる軍事侵攻が続き、多くの人々が傷つけられ命を落とし、故郷を追われています。私たちは小さい者ですが教会に連なり教団という合同教会を通し、そこから公同の教会に結ばれることでキリストの体の一部分として祈ります。
 聖なる公同の教会すなわち主キリストの体の部分として、私たち一人一人もまた平和を実現する者として祈ります。先立ちまして、朗読した箇所を中心にキリストの体と題してみことばを思いめぐらせましょう。


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1.だれがいちばん偉いか(33-37節)
 ガリラヤ地方の北の果てフィリポ・カイサリアからエルサレムへと上る途上、イエス様とその一行はカファルナウムの町に立ち寄りました(33)。この町は使徒たちの出身地であるとというだけでなく、ガリラヤでの活動においてイエス様が定宿とされていた「家」がある町です。
 これから向かおうとしているエルサレムでは過越祭を迎えますので、今はユダヤの暦ではちょうど第一の月に入ったところでしょう。年の初めですから志を新たにする時期であります。まして決起して都へ上ろうというのですから、弟子たちの気持ちが高ぶりすぎて言い合いになってしまった様子も理解できるところです。

 「途中で何を議論していたのか」とイエス様は弟子たちにお尋ねになりました(33)。一緒に歩いてきましたから、尋ねるまでもなく内容をイエス様はちゃんと聞いておられます。
 なぜ弟子たちは黙ってしまったのでしょうか(34)。「だれがいちばん偉いか」との議論は単に序列を争っただけでないことを、マルコは直前の記事に言い含めています。

 道中でのイエス様のお言葉は「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」というものでした(31)。弟子たちは主が目の前におられるのに、殺されることを前提に後継者は誰かと揉めたことになります。それが全部お耳に入っていたのですから、弟子たちは恥ずかしさのあまり口をつぐんでしまったわけです。
 さて旅人の同朋をもてなすのはユダヤのしきたりですから、「イエスが座り」(35)とあるのは食事が出されるための広間でのことでしょう。当時のユダヤの食事はテーブルと椅子ではなく横たわって食卓を囲みますので、座るとは所定の席に着くという意味です。

 上座からイエス様が呼び寄せられると、普段の弟子たちであれば我先にと席に着いたことでしょう。ところが「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われてしまったので、上座を取るか下座に甘んじるかと顔を見合わせてしまったわけです。
 お先にどうぞ、どうぞどうぞと譲ってばかりの弟子たちは、そこに子どもがいることに気づかなかったようです。ここで子供と訳されている語はもっぱら「幼子」と訳されますので(マタイ2:9ほか)、立ったり座ったりをようやく自分でできるようになった年頃です。

 大人たちが押し合いへし合いしているところで危うく蹴飛ばされそうにでもなったのでしょう、見るに見かねたイエス様がその子の手を取って弟子たちの真ん中に連れてこられました(36)。「すべての人の後になろうとしたところまでは良かったけれど、もっと後ろにちっちゃい子がいたのは見落としていたよね」と示されたように見受けます。
 そこでイエス様は子どもを抱き上げておっしゃいました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(37)

 だれが偉いかと互いの中で順番をつけようとすれば、いくら仕える者になったところで仲間内だけでの話です。しかも弟子たちは目の前におられるにもかかわらず、肝心のイエス様を抜きにして議論したり順序をつけたりしていたのです。
 この出来事が福音書として記されたのはイエス様の昇天から30年ほど経った頃のことです。当時においても後の時代においても教会の中で同じことがしばしば起こり得ることなので、マタイ、マルコ、ルカの3人が揃ってこの出来事を取り上げたのでしょう。

 教会の中でだれが偉いかと議論することはないとしても、物事を決めたり奉仕をしたりするときに自分たちの中だけで終始していないかと問われます。弟子たちの視野には入っていませんでしたが、受け入れるべき幼い子どもがその場にいたのです。議論や奉仕に夢中になるあまり、本来「わたしの名のため」であったことを失念する恐れもあるでしょう。
 また平和ということを考えるとき、大人の正義が衝突している傍らで無関係な子どもたちや弱い立場にある人たちにしわ寄せが来るものです。キリストの体においては、小さく見栄えのしない部分の声なき声に耳を傾けた者が「いちばん偉い」のです。


2.キリストの弟子である者(34-41節)
 かれこれ一同が席に着いたところで、ペトロではなくヨハネが口を開きました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と申出です(24)。
 「わたしたちに従わない」と言われているところの従うという語は、ついて来るとか行動を共にするという意味の言葉です。我々こそイエス様と一緒にいるのだから、その我々に加わらないならキリストの弟子ではないのだという言い分でしょう。

 もっともなように聞こえますが、ヨハネがやめさせようとした人たちは既にイエス様のお名前に従っていたのです。ところがヨハネはやめさせようとした理由として「わたしたちに従わないので」と述べています。
 何がおかしいかお気づきでしょうか。ヨハネをはじめ弟子たちにとってイエス様のお名前によるかどうかよりも「わたしたち」に属しているかどうかが判断基準になってしまっていたということです。

 「やめさせてはならない」と戒めつつも、イエス様は「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とヨハネとご自分を「わたしたち」と呼ばれました。イエス様もまた「わたしをお遣わしになった方」(37)つまり御父に委ねておられます。
 別の箇所でイエス様が「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」と言われたことを思い出します(ヨハネ10:16)。「この囲い」に属しているヨハネたちや私たちが知らないだけで、イエス様はほかにも羊を所有されているのです。

 「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と続きます(41)。先の子どものことで「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と結ばれたことに通じます。
 「わたしの名のため」と「キリストの弟子だという理由」とは同じ意味です。あなたに水を施す者に報いが約束されているのだから、あなたも逆らわない者は味方として受け入れなさいという戒めとなりましょう。

 イエス様に従おうとするあまりに教会が自分たちの中だけに関心が及んでしまうことや、キリストの体には他に多くの部分があるということを見落としてしまうことは起こり得ます。そのような時に「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37)とのイエス様の御言葉を思い出せば、天の父を見上げつつキリストの体全体を思い描くことができましょう。


<結び>
 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリント一12:26)

 宇都宮上町教会は旧6部の流れであるホーリネスの群に属していますから、教区の罪責告白においてむしろ被害者側の立場とも言えましょう。痛みを知っているホーリネスの教会であるからこそ、平和聖日にあたり主キリストの体の一部が今も痛みと悲しみを負っていることを覚えることができるのです。
 紛争や戦争状態にある国や地域はウクライナのほかにもありますし、表向きには信教の自由を謳っていても政府が教会に介入している国があることも覚えます。時には会堂が破壊され、聖書に検閲が入り、未成年者への伝道が禁じられ、コロナ禍に乗じて集会等への規制が厳しくなっています。

 私たち自身も傷つきやすく弱さを覚える者であるので、目の前にはいなくても体の他の部分が困難の中にあることを我が身のように感じて祈ることができましょう。私たちの大祭司を頭として御父の前で平和を求めて祈ることも、主キリストの体である私たち教会の務めです。

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