「主に従う者」マルコによる福音書9章42-50節
2022年8月14日
牧師 武石晃正
暑い日が続きますと、ついつい冷たいものに手を伸ばしてしまうということはありませんでしょうか。お腹が冷えるのは分かっているのですが、よく冷えた飲み物を摂りすぎてしまい何となく体調が優れないという日も経験するところでしょう。
あるいはお腹周りが気になってカロリーが多いのは分かっていても、お風呂上りのアイスクリームに手が伸びてしまうという方もおありでしょうか。悪いと分かっていても手が伸びてしまう、あるいは心が動かされてしまうという弱みを私たちは何かしら抱えているものです。
たまたま飲み食いのことを引き合いに出しましたが、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と使徒パウロが記しています(ローマ14:17)。今週も私たちが主に従う者として歩ませていただくにあたり、聖書の言葉から励ましをいただきましょう。
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牧師 武石晃正
暑い日が続きますと、ついつい冷たいものに手を伸ばしてしまうということはありませんでしょうか。お腹が冷えるのは分かっているのですが、よく冷えた飲み物を摂りすぎてしまい何となく体調が優れないという日も経験するところでしょう。
あるいはお腹周りが気になってカロリーが多いのは分かっていても、お風呂上りのアイスクリームに手が伸びてしまうという方もおありでしょうか。悪いと分かっていても手が伸びてしまう、あるいは心が動かされてしまうという弱みを私たちは何かしら抱えているものです。
たまたま飲み食いのことを引き合いに出しましたが、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と使徒パウロが記しています(ローマ14:17)。今週も私たちが主に従う者として歩ませていただくにあたり、聖書の言葉から励ましをいただきましょう。
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1.つまずきを取り除く(42-48節)
マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は共観福音書と呼ばれており、3人の著者がそれぞれの角度から多くの共通する出来事を記しています。「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」という衝撃的なたとえによる教えは、言い回しは多少異なりますが3つの福音書ともに記されてます(マタイ18:6、ルカ17:2)。
「つまずかせる」という言葉を日常生活ではあまり耳にいたしませんので、元の言葉を調べてみました。「罪を犯させる」という意味の動詞が用いられており、ちょっとした出来心では済まされない深刻な意味合いの言葉です。
したがって「これらの小さな者」がつまずかされたと感じた時、「私が神様の命令に背いて罪を犯してしまったのは、このつまずかせる者のせいなのです」という訴えが出されることでしょう。つまずかせるということは誰かに罪を犯させるばかりでなく、罪を犯した当人が他人のせいにするという問題をも引き起こします。
そこでイエス様のお言葉としては、「では悪くもないあなたを強いて罪を犯させるような者がいたのであれば、そのようなひどい者は臼に結わえて海に投げ込んでしまえ」という含みに聞こえるのです。するとどうでしょう、「つまずかせる者」と指をさされた側としては「あいつだって罪を犯しているのに、全部他人のせいにして自分だけ助かろうというのか」と不満が募るのではないでしょうか。
神様の目にはそのような不公平はなく、罪を犯した者は犯した罪のゆえに裁きを受け、つまずかせる者は他人に罪を犯させたという罪のゆえに裁かれるのです。たとえどんな理由があろうとも言い訳によって罪が見逃されたり帳消しにされたりすることがないことは、実は天地創造の時代からはっきりとしていることなのです。
と申しますのも、人類にとってあるいは世界において最初に犯された罪からこの問題をはらんでいました。神様が「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(創世記3:11)とアダムを問い詰めた時、彼の答えがそれを言い表しています。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(同3:12)。妻が私をつまずかせました、その妻を作った神様あなたにも私が罪犯したことについて責任がおありではないでしょうか、というとんでもない居直り様です。
自分こそ命令に背いたのにそれを妻のせいにし、その挙句に神様をも同罪におとしめようというのです。つまずかせるということがどれほど恐ろしい罪であり、根深いものであるかと驚くばかりです。
罪を犯した者が自分の罪を認めず他人のせいにし、人間同士に憎しみを、神様との間に敵意を生じさせるのです。ですから「つまずかせる者」というものは、イエス様でさえ「深い海に沈められる方がまし」(マタイ18:6)と拒絶なさるほど深い罪だと示されます。
片方の手、片方の足、片方の目のたとえを続けることでイエス様は「つまずかせる者」と罪を犯した当人の問題を明らかになさいます。「つまずきを与えた片手や片足や片目を切り落としたところで、それに同意をして罪を犯したのはあなた自身なのではないですか」「片腕を切り落とすことを惜しむようなら、あなたをつまずかせた人だけのせいにもできないでしょう」このような言い換えができるのではないでしょうか。
ここで「地獄」と訳されている語は新しい翻訳ではカタカナで「ゲヘナ」と改められ、地名のように書かれています(聖書協会共同訳)。ゲヘナとは旧約聖書で「ヒノムの谷」と呼ばれている深くて狭い谷で、エルサレムの南のはずれにありました。
谷底にはごみ捨て場があり、神殿で屠られた牛や羊から廃棄される部分なども運び込まれたでことでしょう。身元不明者や処刑された者など引き取り手のない死体も運ばれる場所だということですから、絶えず火と煙が上がっていても焼き尽くされることはなく、積まれたものや埋められたものは腐敗しながら虫が湧いているのです。
マルコの母の家がエルサレムにありました(使徒12:12)。マルコが都で育ったのであれば、都のはずれにある深い谷の底知れぬところから絶えず煙が立ち上っているのを普段から目にしたでしょう。汚れたものを焼き尽くすための炎が絶え間なく燃えていることを知って、子どもたちが身震している様子が目に浮かぶようです。
エルサレムに滞在したことがある者であれば、あの汚物溜めのようなゲヘナに生きたまま放り込まれることがどれほど恐ろしくもおぞましいことかを知ることになります。「片手になっても命にあずかる方がよい」(43)とおっしゃるイエス様のお言葉を、崖の縁に立たされたような思いで弟子たちは聞いたことでしょう。
さて私たち人間は罪人として生まれた者同士ですから、意図せずに誰かをつまずかせてしまうこともあり得ます。そこのところはイエス様も私たちの弱さをご存じですから、「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」(マタイ18:7)と含みをもたせて戒められます。
ですから主の憐れみをいただいているうちに、自分自身を含めた誰かのつまずきとなるものを取り除いていきましょう。私たちの内にある罪やけがれ、その原因となるつまずきを主の御前に告白し、聖霊によるきよめの恵みに与りましょう。
2.神と人との和解(49-50節)
「人は皆、火で塩味を付けられる」と続くイエス様のお言葉をこの文脈で記しているのもマルコだけです。急に塩味の話になるので脈絡をつかむことが難しい箇所ではありますが、ユダヤの祭の時期に語られたので聞いていた弟子たちには話が通じたようです。
ユダヤの祭の中でも最も大きなものが過越祭であり、イエス様はその週に合わせてエルサレムへと上られます。この記事はその途上での出来事ですから、ユダヤの暦で第1の月に入ったところです。
第1の月には過越祭に続いて家の中からパン種を取り除く除酵祭があります(レビ23:6)。過越祭でも酵母入りのパンが禁じられることから(申命16:3)、イエス様のおられた時代には過越祭と除酵祭はほとんど同じ意味で用いられていたようです(ルカ22:1)。
古い酵母が少しでも残っていると腐敗の原因となるので、除酵祭では徹底的に家の中から取り除かれます。神の契約を受けるにあたって自分自身をくまなく吟味し、罪やけがれ、つまずきとなるものを取り除くことが除酵祭から学ぶことができます。
律法には酵母を入れないパンは「穀物の献げ物」として定めがあり、「焼き尽くす献げ物」に次ぐ第2のいけにえ、宥めの香りとして神様に受け入れられるものです(レビ2章)。祭壇の上にささげて火で燃やす際には、「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな」と塩と主の契約とが同じ重さで扱われます(同13)。
酵母を入れずに練られた小麦は火で焼かれることによって内に塩を持つので、塩味が付けられたパンになります。塩は契約の塩ですから「火で塩味が付けられる」(49)「自分自身の内に塩を持ちなさい」(50)とは人が神様との契約に結ばれることを意味するのです。
ちょうど第1の月に入って、過越祭除酵祭に備えて酵母が取り除かれたり塩が用意されたりする頃合いです。日本であれば年末になると米を蒸し上げる香りが餅屋から途絶えることがないように、ユダヤでは酵母を入れずに焼くパンの香りが人々の心を主の御前に出るようにと誘うことでしょう。
「自分自身の内に塩を持ちなさい」とのイエス様のお言葉です(50)。神様との契約の塩を自分の内に持っているならば、最早つまずいたのつまずかされたのと自分の罪を誰かのせいにしなくてよいでしょう。
「そして、互いに平和に過ごしなさい」と結ばれてます。つまずきを取り除いて主に従う者は、互いに執り成し合うことで平和に過ごすことになるのです。
<結び>
「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(50)
手や足を切り落としたところで、つまずいたり罪を犯したりしやすい性質を私たちの中から取り除くことはできるのでしょうか。手や足や目によってつまずきとなるような刺激を受けるとしても、罪を犯し得るのは私たちの内側すなわち心や意思によるのです。
先日教会に届いた「福音主義教会連合」誌の巻頭言では宗教改革者ルターの言が引用され、「キリスト者は罪人であって、同時に義人」と書かれていました(第542号)。キリストの十字架による救いを受けたキリスト者は、神の前に許しを乞わなければならない罪人であることを自ら認めているのです。
本日は説教の後に聖餐式が執り行われます。「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(コリント一11:28)と勧められているように、私たちは心の中から自らをつまずかせるものを取り除きましょう。
主に従う者は御前で自分の罪を悔い改め、赦しの恵み、きよめの恵みを求めます。内外にある「つまずかせる者」を取り除き、神との和解、人との平和に生かされましょう。