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「神の国の家族」マルコによる福音書10章13-16節

2022年8月21日
牧師 武石晃正

 先週は日曜の午後から3日ほど休暇をいただきました。留守にすることをお許しいただきありがとうございました。皆様も概ねお変わりがなかったご様子で、安心いたしました。
 実家の両親は毎年一つずつ年齢を重ねているほかは大きな病気もなく、コロナ禍からも守られて元気な様子でした。今では両親の二人暮らしの生活ですが、かつてその家には祖父母と私の弟も住んでいた頃は2世帯6人の家族が住んでおりました。

 日本語で家族と申しますともっぱら親子きょうだいの関係を言いますので、一般には二親等から三親等あたりまでの範囲でしょうか。英語のfamilyという単語にはもっと広い範囲が含まれており、家族というよりも一族や一門といった意味合いにもなるようです。
 更に聖書の中では血縁が伴わなくとも契約などによってその家に属するようになった者、時には使用人なども家族の中に数えられています。本日の朗読箇所は短いところですが、神様から見た大きな意味での家族というものも念頭におきつつ「神の国の家族」と題して考えて参りましょう。


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1.神様の子どもたち
 ガリラヤ地方での働きに区切りをつけ、いよいよエルサレムへと上ろうとするイエス様ご一行はユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれました(10:1)。街道はヨルダン川沿いを通っておりましたので、これを「ユダヤ地方すなわちヨルダン沿いを通って行った先」と訳せばもはや後戻りすることなくエルサレムへ迫ろうとの意気込みです。
 朗読した箇所にはどこの町であったのか具体的な地名がなく、マルコのほかマタイもルカも記していないのには何か理由があるのでしょう。ちょうど過越祭や除酵祭の季節にはガリラヤ地方とユダヤ地方を結ぶヨルダン川沿い街道は、各々の町の会堂ごとに隊を組んで行き交う巡礼者でにぎわいます。どの町と限ることなく立ち寄る先々で、ナザレ人イエスの噂を聞いた人々が一行を取りまいたものと思われます。

 旅先で偶然にも奇跡の人を見かけた人々がおり、イエス様に触れていただくために子どもたちを連れてきたのでしょう(13)。飛行機や新幹線に有名人が乗り合わせていることに気づいた人々がサインや記念撮影を求めてにわかに集まってくる様子を彷彿させます。
 これが一度や二度のことであればまだよいのですが、行く先々で予期せぬ頃合いに人々が入れ代わり立ち代わりやってきたのであれば、主の弟子たちであっても参ってしまいます。初めのうちはイエス様の人気ぶりを誇らしくても、そろそろいい加減にしてくれ、うちは見世物じゃないと人々を叱ってしまったように見受けます(13)。

 ところがイエス様はご自分もお疲れでおありでしょうに、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と弟子たちに憤られというのです(14)。思えば5000人もの人々にパンを配った際にもヘトヘトに疲れている弟子たちを先に舟に乗せて送り出し、イエス様はお一人で残られ群衆を解散させたという場面もありました(6:45)。主はいつも弟子たちよりもはるかに忍耐強く人々の必要に応じてくださる方だと思い知ります。
 その上でイエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃるところです(15)。ここで人々の要望とイエス様のお答えとの間に「神の国」についてのズレが生じます。

 人々はユダヤ人、契約の民イスラエルですから既に神の国の民でした。家長をはじめ男児が割礼を受けたことでその家は神の民でしたから、「決してそこに入ることはできない」とは何のことかと疑問に思ったことでしょう。
 ここで子供と訳されている語は他の箇所では多くの場合「幼子」とされており(ルカ2:21,28ほか多数)、新生児から2歳児ぐらいまでの子どもです。男児であれば割礼を受けるか否か、儀式によってユダヤ人として神の国に数えられようとする年頃です。

 現代の日本では子どもが生まれると出生届を出されることで戸籍に登録されます。ユダヤであれば割礼を受けるまで、日本であれば出生届が出されるまでは、幼子はある意味ではまだ国籍がない状態にあるのでしょう。
 大人には既に国籍があるので神の国に入るか今のまま生きるかと天秤にかけたり、あるいはどっちつかずに都合の良いところだけ手に入れようとしたりする者もあり得ます。しかしイエス様が抱き上げた子どもたちは損得を考えるまでもなく、神の国すなわちイエス様を受け入れたのです。

 「子供のように」と断りを入れてイエス様はたとえによって説かれていました。この教えが福音書として書かれた年代において、教会は迫害を受けており、多くの信徒たちが故郷を追われたり親兄弟を失ったりしていました。
 教会の中でみなしごややもめと呼ばれたこれらの人々は、他に頼るものを持たずにただキリストだけにすがるのみでした。生きるすべを持たず希望を失った人たちが「子供のように神の国を受け入れる人」となり、主は彼らを「妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と受け入れてくださいました。

 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とイエス様は子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福されました(16)。損得勘定やあれこれと天秤にかけることをせず、ただキリストだけを信じて神の国を受け入れる者が神様の子どもとして祝福されます。


2.教会の家族(エフェソ5:21-6:4)
 使徒パウロの手紙から神の国、教会の家族についてもう少しだけ考えてみましょう。パウロはエフェソの信徒たちに向けて「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」と書き送りました(エフェソ2:19)。
 家族と訳されている語は家族の一員という意味の単語が用いられており、大家族あるいは一族一門に加えられた者という意味です。かつてはエフェソの人たちを外国人や寄留者とみなしていた聖なる民がおり、そこに加えられたということです。

 もともとは契約の民イスラエルでない者も、キリストによって結び合わされて神の家族とされました。植物にたとえればイスラエルが地面に根を張っている台木であり、そこに異邦人を含む教会が接ぎ木されたような状態です。元の木と継がれた枝との違いはありますが、どこまでが幹でどこからが枝であるか境目が分からないほどに結び合わされます。
 家族という概念も異邦人である日本のような東アジアの国々と、イエスやパウロの時代のユダヤの人々とでは異なるでしょう。更に遡って旧約の時代ではまた意味合いが変わって参ります。天地創造のみわざの後に最初の人アダムが罪を犯して以来、人間が神様からどんどん離れていっておりますから、聖書の言葉が古くなったのではなく時代のほうがみこころから遠ざかってしまったと言うべきでしょう。

 エフェソの信徒への手紙の5章には「妻と夫」という小見出しが付けられている箇所があります(5:21以下、新共同訳による)。現在の日本の文化や法令に照らせば前時代的と言われる内容かもしれませんし、その指摘の一部は当てはまるでしょう。パウロもまた時代の子でありますので、その時代その地域の文脈の中で記しているからです。
 今の時代はパウロの時代より2000年近く経っておりますから、ますます主のみこころから遠ざかっていることでしょう。ですから聖書の言葉を杓子定規に当ててしまうと、時代の制約を受けている私たちの文化や法令においては困難になってしまいます。

 「妻もすべての面で夫に仕えるべきです」(24)を字句通りに当てはめようとすれば、人権の問題として取沙汰される恐れがあります。「夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」(28)と愛を説いても、主従関係だと受け取られてしまうこともあるでしょう。
 「わたしは、キリストと教会について述べているのです」とパウロが記すように、ここでの主題は夫婦関係よりもむしろキリストと教会の関係です。イスラエルの救い主として来られたキリストが教会を愛してくださったので、異邦人である私たちも教会を通して「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)すなわち神の家族に加えられたという事実があるのです。

 それゆえ、困難を覚えることもありますが「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」(6:1)とのパウロの勧めは今でも「それは正しいことです」と言えるのです。「あなたの父母を敬え」(出エジプト20:12)との十戒も更に1000年以上さかのぼりますが、神様が私たちの祝福を願われるご愛はモーセの時代から今も変わらず約束されています。
 こうして私たちもまたキリストの体の一部すなわち教会の家族に加えられ、神の子どもとなったのです。


<結び>
 「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。」(コリント一15:45)

 人間はアダムにおいて神様がお創りになった者なので、アダムを父にエバを母にもつ家族です。アダムが神様に背き罪を犯したので、この家に生まれた者はみな血筋においても家の名においても神様の前に罪ある家族でした。
 しかし独り子である神ご自身が聖霊によって宿り、処女マリアより生まれてくださいました。神の霊によって生まれた罪のないこのイエス・キリストは、全き人であるので最後のアダムと呼ばれています。

 この救い主キリストが神に背き死ななければならない私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかり、たった一度だけ全きいけにえとしてご自身をささげられました。主キリストの十字架による罪の贖いと3日目の復活とを信じる者はだれでも聖霊によって新しく生まれ、神の国の家族とされるのです
 聖なる民に属する者、救い主キリストを頭とする教会は天においても地においても神の国の家族です。

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