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「真理に基づく生活」マルコによる福音書10章46-52節

2022年8月28日
牧師 武石晃正

 人生をやり直したいと思ったことはありますか。全くないと胸を張ることができるなら幸いなことだと思いますが、そんなのしょっちゅうだよとため息交じりに肩を落とすこともありましょう。
 どの時点まで遡るかにもよりますが、もし最大の失敗だったと思うところからやり直すことができたとしても、私自身が変わっていなければ全く別の過ちを犯すであろうことは自分でも分かっているつもりです。やり直したところで他に別のもっと悪い選択をしてしまう可能性だってあるわけです。

 自分ではやり直したいと思ったとしても、イエス様がもうよいとおっしゃってくださるのなら今から先の歩みに期待することができましょう。移ろいやすい自分の願いや思いを実現する生き方もあれば、真理に基づく生活もあることです。

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1.見えるようなって主に従う
 ガリラヤ地方を出てヨルダン沿いの街道を通って、いよいよユダヤ地方へとイエス様ご一行は足を踏み入れました。到着した町の名はエリコと言いました(46)。
 このエリコと言う町はイスラエルの歴史においてとても古く、エジプトを出た契約の民が約束の地カナンへ入る時にヨシュアが最初に勝ち取ったことで知られています(ヨシュア記6章)。ですからメシアと噂されるナザレ人イエスがエリコにやって来たということで、ユダヤの人々は大変賑わいました。

 と申しますのも、私たちはこの方を福音書が書かれたギリシャ語の読みでイエス様とお呼びしますが、イエスと言う名はユダヤの言葉でヨシュアと呼ばれるからです。つまり人々の間では「ヨシュアがヨルダン川を渡ってエリコに来た」との噂が立ったのでした。
 そして折しも主がイスラエルをエジプトの国、奴隷の家から救い出されたことを記念する過越祭の季節です。救い主メシアあるいはダビデの子などと呼ばれるヨシュアがエリコにやって来たので、噂が噂を呼び、期待に期待が募るわけです。

 こうしてご多分に漏れずエリコの町でもイエス様の周りには人だかりができますから、せっかく到着したにも関わらずイエス様は弟子も群衆もひっくるめて町から連れ出されます (46)。そこである出来事が起こったというのが本日の箇所です。
 エリコは東西を結ぶ街道にある町で、この時期は宮もうでのために人々が行き交います。広場や城門、付近の街道の道端には体の不自由な人たちが施しを求めて物乞いをしました。イエス様ご一行が町を出入りするたびに、これらの人々の前を騒々しく往来することです。

 バルティマイとその名が記されている男は、イエス様がエリコを出て行こうとされたときはそれと知らずに物乞いをしたのでしょう。城壁の外に出ていた一行が戻ってこようとエリコに近づいてきたとき、ナザレのイエスだと聞くやバルティマイは居ても立っても居られずに「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めたのです(47)。
 人々が叱りつけて黙らせようとしたことの記述はマタイ、マルコ、ルカとも判を捺したようです。事情を知らない私たちにはとても意地悪なように感じられるところです。

 当時のユダヤではダビデ王の時代から「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」と言われていました(サムエル下5:8)。またその箇所には「ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者」とも記されています。
 ですから人々は「目の見えない者がダビデの子と呼ばれる方に憐れみを求めるとはとんでもない」「祭りのために神殿に上ろうとされる方を煩わせるなどあってはならない」と考えるのが自然です。弟子たちにしてもイエス様がメシアとして都に上ろうという大事の前の小事です。

 それでも彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです(48)。施しであれば道を行く人なら誰にでも求めることができます。しかしダビデの子であればこそ、あのダビデ王による掟や戒めから自分を解いてくださるはずなのです。
 そこでイエス様は立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。イエス様との出会いは人の生き方を変えます。憐れんでくださいと叫ぶしかなかった男が「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」のです(50)。

 「何をしてほしいのか」とイエス様に聞かれたら皆さんなら何を求めますか。自分の必要を正しく求めることはなかなか難しいものです。
 施しを求めて暮らしていた盲人は、「明日からは大きな声で叫ばなくても毎日パンを買えるだけの施しを受けられますように」と祝福を求めることもできたでしょう。けれどバルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました(51)。一度光を失った目が開かれるなど、当時は思いつきもしないほどの奇跡を彼は願ったのです。

 しばしば私たちも主の御思いを小さく値踏みしたり、「さすがにこんなことまでは聞いていただけないのではないか」と勝手に制限したりしてはいないでしょうか。この救い主は「一体、誰が(中略)目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか」(出4:11)とおっしゃった神ご自身なのです。その真理に気づいたのがバルティマイの信仰であると言えましょう。
 「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52)とのイエス様のお言葉によって、それまで盲人と呼ばれていた男はすぐに見えるようになりました。バルティマイはもとのの物乞いの生活に戻ることなく、キリストに従う新しい生活へと直ちに変えられました。


2.古い人を脱ぎ捨てる(エフェソ4:17-32)
 目が見えないことを知っているのは見えたことがあるからだ、と視覚障害者の訓練を専門にしている友人から聞いたことがあります。別の翻訳ではバルティマイが「また見えるようになることです」と主に求めたことで、かつては彼が晴眼者であったことを言い含めています。一方でもともと目が良く見える人でも薄暗い部屋に住み慣れてしまうと、視力が落ちたり感覚が鈍ったりすることもあるのです。

 天地創造において神様は人間をご自分にかたどって創られましたが(創世記1:27)、初めの人アダムが神様に背いたことで人間は呪われた者となりました(3:17)。エデンの園を追放された人類は罪と死にすっかり支配されているので、神様の栄光を見たり御声を聞いたりする能力はほとんど失われてしまいました。
 罪に支配されている人間について使徒パウロは「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」と記しています (エフェソ4:18)。また「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人」(同22)とも呼んでいます。

 それでもかつて人間はアダムにおいて神様にお会いし、語り合ったことがあるのです。キリストについて聞きキリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだ者はそのことを思い出すことができます。
 すっぽりと私たちを覆ってしまった罪、その性質である古い人を脱ぎ捨てることさえできれば、心の底から新たにされます(同23)。心が新たにされるだけでなく、神にかたどって造られた新しい人を身に着けることになります(24)。つまり神様に背く以前の新品を着せていただけるのです。

 ところで先週は高校野球で東北勢が初の優勝を飾りました。優勝旗の白河越えは永年の悲願でしたから、野球経験者でなくとも東北出身者の一人として嬉しく思いました。
 野球に限らずとも一軍の選手に選ばれること、更に試合の先発に登録されることはこの上ない名誉です。しかし先発選手だしてもユニフォームを着なければ試合には出られず、持っているだけではなくユニフォームを着ることによって選手であると証明されるのです。

 「古い人を脱ぎ捨て」「新しい人を身に着け」とパウロが記す信仰に通じます。心の中でキリストを信じた者は、それを着ることによって正しく清い生活を送るのです。すなわち真理に基づいた生活、新しい人を身に着けることになるのです。
 具体的には「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」とパウロは命じます(25)。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と古い人を脱ぎ捨てるのです(31)。

 イエス様の内にある真理によって、主の聖霊が私たちに勧めます。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(32)。こうして私たちはバルティマイのように主が進まれる道に従います。


<結び>
 「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(52)

 変えられるのは瞬間です。何十年と教会に通ったとしても悟ろうとしない者もいるでしょう。バルティマイは主に一度お会いしただけで直ちに信じ、まだ目が見えないうちから上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところにやってきました。
 道を進まれるイエス様に従ったこの男は、主の教会における良い働きのゆえにエリコのバルティマイと言えば誰もが知る者となりました。少なくとも福音書が記された時点で既に知られていたので、彼と直接に会ったことがない人々にも信仰の手本としてマルコは書き残すことになりました。

 自分の願いや必要から「憐れんでください」と祈ることがあります。思い煩いによって見えなくなってしまうので、誰でも初めは手探りで祈ることでしょう。
 祈りの中でキリストの恵みと真理を受けて信じた者、心の目が開いていないと気づいた者は「目が見えるようになりたいのです」と願います。そして「あなたの信仰があなたを救った」との主の御声を受け、私たちも主に従う道、真理に基づく生活に変えられます。

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