「永遠の命を得る」マルコによる福音書12章1-12節
2022年9月4日
牧師 武石晃正
早いもので9月に入りました。月が替わりましたので週報に掲載しております「今月の聖句」が差し替えられ、9月は旧約聖書のコヘレトの言葉12章13節からの引用です。
「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」とあります。人間はどれほど熱心に善行を積もうと難行苦行に明け暮れようと、天地の創り主、聖書において証される唯一の神様を畏れ敬うことなしには神様に受け入れていただくことができない存在です。
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(エフェソ5:10)との御言葉に励まされます。今月も引き続きマルコによる福音書を中心に読み進めますので、聖書と信仰に立って父子聖霊なる唯一の神様のみこころを求めて参りましょう。
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牧師 武石晃正
早いもので9月に入りました。月が替わりましたので週報に掲載しております「今月の聖句」が差し替えられ、9月は旧約聖書のコヘレトの言葉12章13節からの引用です。
「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」とあります。人間はどれほど熱心に善行を積もうと難行苦行に明け暮れようと、天地の創り主、聖書において証される唯一の神様を畏れ敬うことなしには神様に受け入れていただくことができない存在です。
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(エフェソ5:10)との御言葉に励まされます。今月も引き続きマルコによる福音書を中心に読み進めますので、聖書と信仰に立って父子聖霊なる唯一の神様のみこころを求めて参りましょう。
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1.愛する息子を遣わす方
いよいよイエス様と弟子たちはエルサレムへとやってきました。イエス様を育てたヨセフとマリアは過越祭には毎年エルサレムへ旅をしていましたから(ルカ2:41)、恐らくイエス様ときょうだいたちも毎年この習慣を守っておられたことでしょう。
ところがこの年の過越祭は特別でした。暦の並びが特別な年で、普段の生活で使っているローマ式の暦が祭に使うユダヤの暦の並びと重なった年なのです。
ヨハネによる福音書に「翌日は特別の安息日であった」と書かれているように(ヨハネ19:31)、ユダヤの律法による過越すなわち第一の月の14日が普段の生活での安息日に重なりました。主がイスラエルをエジプトから導き出したあの出エジプトの最初の過越と同じ日並びなので、今年こそは神の人モーセのような救い主が現れるのではないかと人々は期待に胸を膨らませたことでしょう。
例年以上の盛り上がりを見せる都では、巡礼者がロバに乗ってやってくる度に歓迎したようです。その中にメシアと噂されるナザレのイエス、エリコの町にやってきたヨシュアがいたので大騒ぎになりました。
イスラエルの都エルサレム、その中心は神の家と呼ばれる神殿です。独り子である神ご自身がその家に帰って来られたところで、その胸の内をたとえによってお話し始められました(1)。
豊かな収穫のために入念に備えてぶどう園を造った人は、天地の創り主、全能の父なる神様です。この方はご自分の名と栄誉をイスラエルと共に置かれ、農夫たちにたとえられる祭司や律法学者といった指導者たちに任せておられました。
季節の終わりの収穫にあたり僕たちが遣わされましたが、なんとある者は捕えられて袋だたきにされ(3)、別の者は頭を殴られ侮辱されました(4)。更に送られた者は一人また一人と殺されたり暴力を振るわれたりしたというのです(5)。
この僕たちは旧約時代からバプテスマのヨハネに至る多くの預言者たちです。別の箇所には「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」と主が憤りを伴って嘆かれたことが記されています(マタイ23:37)。
「まだ一人、愛する息子がいた」とイエス様は言葉を続けます(6)。愛する民への御父の御思いを「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」とたとえて、救い主メシアであるご自身について語られました。
主なる神様は民を裁いたり滅ぼしたりしたいとお考えではなく、これまでの経緯はさておいて親しく交わろうと愛をお示しになられました。しかし農夫たちは悪だくみの末、「息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」というのです(7,8)。
つい2,3日前にイエス様はろばに乗って本物の王様のようにエルサレムの人々から迎えられたばかりです。このたとえの教えを聞いても、これまでに3度も予告された受難のことを考えても、弟子たちには到底受け入れられるものではなかったでしょう。
口論の相手である祭司長や律法学者たちにおいては「イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとした」というのです(12)。天地創造の神が「愛する息子」を遣わされた時が和解できる最後であり、それにも関わらずなお拒む者たちには御父みずからが報いられます。
「このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」との一言に一切が込められています。神の名を騙り人々を惑わす者たちは必ずその報いを受けるのだと、主キリストはご自身を侮る者たちに面と向かってお示しになりました。
2.家を建てる者の捨てた石
ここでイエス様は「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか」と詩編から引用されます(10-11、詩119:22-23)。隅の親石とは石造りの建物のアーチ構造やドーム構造の要となる石で、頂点に組まれるので楔型をしています。
切り石を積み上げて建物を造りますので、柱や壁として積み上げられる石は真四角に整えられる必要があります。ところが大きな石の塊から槌とノミなどで石材を切り出していくうちに、最後にはまっすぐな材料を取ることができないいびつな形の部分だけ残ります。
建て方を知らない者の傍目には、要らなくなった部分が現場の隅に捨て置かれているように見えるでしょう。ところがこれは単に切り残したのではなく、知恵があり腕の良い石工たちがあえて取り分けておいたものなのです。
石造りとは申しましても完成するまでは崩れやすいので、それを支える枠組みを作るためには石工のほかに大工も必要です。主の母マリアの夫であるヨセフもその大工でした。
さて建物の頂点に向かって工事が進みますと、大工が組んだ木枠に沿って石工が切り石をアーチ状に組み上げます。こうして最後には「家を建てる者が捨てた石」が整えられ、とうとう「隅の親石」として据えられるのです。
この「家」が神の家である神殿を指すのであれば、それを建てるのは神ご自身です。十字架にかかられたことにより、御子イエス・キリストが「家を建てる者の捨てた石」つまり父なる神から見捨てられた者となられました。
少なくとも祭司長たちや律法学者たちは「他人は救ったのに、自分は救えない」とイエス様を侮辱しました(マタイ27:42)。イエス様ご自身も十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(同46)と叫ばれましたから、聞いていた人たちはこの受刑者が神に背き神から捨てられたものだと思ったことでしょう。
この方は大きな叫びとともに息を引き取るや、葬られて3日目に死人のうちよりよみがえられたのです。まさに主が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)と御自分の体を指して言われたとおりになりました。
これは主がなさったことであり、驚くべきことです(11)。この捨てられた石が天に上り、隅の親石として神の家のかしらとなりました。キリストの体、教会の始まりです。
使徒言行録にはこの方を隅の親石として建て上げられた教会の働きが記されています。ところがそこでもユダヤの人々がイエス・キリストの福音を「家を建てる者が捨てた石」のように扱ったことが記されています(使徒13:45-46)。
頭であるキリストが捨てられた石となられたように、その体である教会もこの世において同じように扱われることがあるのです。キリストの救いを伝えたパウロとバルナバは扇動された人々から迫害を受け、その地方から追放されました。まさにイエス様のたとえの中で農夫たちに侮辱され放り出された僕や主人の息子の姿です。
迫害の世にあってイエス・キリストの福音を伝える者、主の教会とその家族は苦しめられます。主ご自身も苦しめられ、命をもお捨てになったので私たちの苦しみと弱さに同情してくださるのです(ヘブライ4:15)。
契約の民が福音を拒んだので異邦人と呼ばれた他の民族に主の言葉が伝えられました。捨てられた石のようであっても、隅の親石となられたキリストがおられます。「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」(使徒13:48)と驚くべきみわざがなされました。今でもこの方を信じる者はだれでも神の救いに入ることができるのです。
「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」とあります。果たしてパウロとバルナバが街頭で勧誘したり家々を訪ね回ったりしたのでしょうか。語るべき場所で福音を正しく宣べ伝える者がおり、あるいは迫害を受けて追放された人々が散らされた先々で救いの証しをしたのです。
キリストご自身が「家を建てる者の捨てた石」となられたように、御子を信じる者もまた神様に見捨てられたかのような目に遭うのです。しかしこの方を「隅の親石」とする教会は復活の喜びと聖霊に満たされ、御子を信じる者はこの教会によって主に結ばれます。
<結び>
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
ある者たちは天の御国をさえぎって自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせないのです(マタイ23:13)。福音の真理を信じない者や偽る者については、ぶどう園の主人が農夫たちに報いるように主ご自身がお裁きになられます。
その一方で私たちは世の習わしに惑わされることなく、聖書によって福音の真理を示されましょう。偽りの教えに振り回されず、教会は福音宣教と信仰告白に歩みます。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と主イエス様が永遠の命を約束してくださいました(ヨハネ11:25)。そして私たちの救い主が再び来られる時には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。(ヘブライ9:28)。
こうして最後まで耐え忍んだ者が主イエス・キリストにある復活の希望、再臨の恵み、永遠の命を得るのです。